第三十二話 識別表

 新品の包帯の下で、俺の腐れた皮膚がぞわぞわと粟立つ気配に覆われる。

 『この界隈の歩く死体』とは、間違いなく俺のことだろう。

 俺はハーネマンに対して、掠れた問いを重ねる。


「ドン、ナ、ヤツガ……?」

「黒い服を着た、魔術師風の見慣れない男、ですって。それも噂でしかないけれど」


 俺はうつむいた。


 誰が何の目的で、俺を探しているのだろう?

 目先の功名を追う冒険者か、あるいはもっと何か裏の意図を持ったルカニア軍部の関係者か……。


 疑念の中に埋没しかけた俺の意識は、パチンというという金具の音で現実に引き戻された。

 ハッと頭蓋をもたげると、立ち上がったハーネマンが、顔のベールと手袋を外し、鞄肩から下げた鞄にしまい込んだところだった。

 彼女が気遣わしげに、眼鏡越しの眼差しを俺に送る。


「マノさんは、白鷺庵から外へは余り出ない方がいいかも知れないですね」


 言いながら、彼女が床に置いていた薄い本を拾い上げ、俺に差し出す。

 その薄い本は、俺の腐った脳にも強烈に灼き付いている、あの『識別表』だ。


 思わず目を剥く俺に、ハーネマンがどこか気の進まなさそうな、困惑気味の微笑を見せた。


「その識別表は、マノさんの心の負担が大きいみたいなので、本当は医師としては、お渡しするのは気が進まないのですが……」


 ふと小さく吐息を洩らし、女医がポツリと告げる。


「でも、識別表を私の診療室へ借りに来るのも、もしかしたら危険なことかも知れないし、何よりもユディートさんが……」


 言葉を濁した女医に、俺はぴくりと眼球を向けた。


「ユ、ディー、ト……?」


 ハーネマンがこくりとうなずく。

 眼鏡の奥で蒼い瞳を伏せた彼女が、ゆっくりと噛んで含めるように言葉を綴る。


「『マノくんは、きっとあり得ないくらいの苦悩を抱えて、精神の激痛に苛まれているはず。でもその苦しみそれ自体が、マノくんの贖罪の一部だから。挫けないで』って。ユディートさんから、マノさんへの伝言です」


 俺は固まりかけの頸椎を傾けて、天井を仰ぐ。

 女医が俺に手渡す識別表には、まだ俺が見つけていない記録が残されているだろう。

 それを発見するごとに記憶の”封印(ロック)”が外れ、俺はまた新たな苦悩に見舞われるに違いない。

 だが、それが全容の知れない贖罪の確かな一部であるのなら、俺に躊躇いはない。


 ぴきぴきと首を戻し、顔を覆う包帯の間から女医の顔を正視する。

 ユディートの言伝を噛み締めて、俺は女医ハーネマンの手から識別表を受け取った。


 悲哀と憐れみに満ちた笑みを目元に湛え、ハーネマンが小さくうなずく。


「私は診療があるので、これで失礼します。また三日ほどしたら、包帯を換えに来ますから。何かあれば、診療室に誰かを寄越して下さいね」

「アリ、ガト、ウ……」

「まだ国境はまだ開かないみたいですが、早くアリオストポリへの道が拓けるといいですね。くれぐれも、お大事に」


 会釈をしてくびすを返しかけた女医ハーネマンだったが、ふと思い出したように振り向いた。


「ああ、そうそう。エステルさんの用心棒、引き続きよろしくお願いしますね。できれば、あの子の体にも気を配ってもらえたら助かります。それじゃ、失礼しますね、マノさん」


 そう言い残し、女医ハーネマンは俺の小部屋を立ち去った。


 再び、狭い部屋に独りとなった俺。

 壁の向こうからは、相変わらず娼婦たちの明るい声が聞こえてくる。

 内容はともかく、楽しそうなのはまあいいことだ。


 諧謔的にぴきぴきと肩をすくめた俺は、女医から借りた『識別表』を開いた。

 反抗的な手指を無理やりに動かしてページをめくり、俺は目的の紙面に眼球を落とす。


 ――マルーグ城砦陥落計画――。


 マノ大尉が率いたという、失敗した軍事計画。

 そのマノ大尉の部隊章が、俺の襟元に留められた七宝のメダルなのだ。

 つまりその敗軍の指揮官マノ大尉が、俺だということになる。


 俺が見つめる識別表のマルーグ城砦陥落計画のページには、三つの部隊章が描かれている。

 濃緑の地と山吹色の盾模様、それに白い手は同じだ。

 だがその掌が掴む小さな五芒星の数が異なる。

 俺の部隊章は星が三つだが、残りの二つはそれぞれ星が二つ、それに一つだけとなっている。


 俺が持つ部隊章は、識別表の『マルーグ城砦陥落計画』の一番下にある『マノ大隊第三中隊』のもので、その部隊は元をただせば、ケルヌンノスに元から駐屯していた山岳猟兵だったようだ。

 言ってみれば土着の兵団、という言い方もできるだろう。


 俺はふと気が付いた。

 このマノ第三中隊は地元の部隊だ。

 計画実行の間だけ、特別に統帥権が中央から来たマノ大尉、つまり俺に譲られただけで、山岳猟兵たちの本来の指揮官は、別にいたはずだ。

 だがこの識別表には、その名前も存在も出てこない。


 俺は同じページの残りの二つの部隊章にも、じっくりと視線を這わせる。


 二つ星の『マノ第二中隊』。

 『本計画実行のため、ルカニア国軍西方防衛旅団より一時的に編入。二百五十名。統帥権はマノ大尉に帰属。当中隊は全滅のため、現在は抹消』。


 そして一つ星の『マノ第一中隊』。

 『ルカニア国軍首都防衛連隊第二大隊第二中隊。二百五十名。マノ参謀より推挙され、本計画実行を拝命。統帥権は第二中隊長マノ大尉に帰属。マノ大尉はマルーグ城砦攻撃部隊大隊長として、本計画実行の第一中隊、第二中隊およびケルヌンノス駐屯の第三中隊の統帥権を掌握。なお、当中隊は全滅のため、現在は抹消』。


 俺はぴきぴきと小首を傾げた。

 やはり何かが微妙に噛み合わない。


 最初からマノ大尉の指揮下にあったのは、マノ第一中隊とマノ第二中隊だ。

 なのに俺が持っている部隊章のメダルは、マノ第三中隊のものだ。


 そのマノ第三中隊は、本来ケルヌンノス土着の山岳猟兵部隊で、第一中隊と第二中隊とはケルヌンノスの街で合流しているはず。

 そしてその山岳猟兵部隊には、もともとの指揮官がいたと考えるのが自然だ。


 それなら、その指揮官はどうしたのだろうか?

 自分の部隊と運命を共にして、マルーグ峠の戦いで命を落としたのだとは思うが……。

 さらに俺がマノ大尉なら、俺が持っていたはずの第一中隊、それに第二中隊の部隊章は、どこへいったのか?

 そしてパペッタは、どうして俺に第三中隊の部隊章を持たせたのだろう……?


 その刹那、俺の脳内に激痛が走った。

 鋼鉄の万力で頭蓋を砕かれそうな圧力が掛かる一方で、腐った脳が苛烈な熱にふつふつと煮立てられる。


 呻きさえも洩らせず、眩む両眼に何かが映り始めた。

 じんじんと雑音が煩い耳にも、男の声が聞こえてくる。

 罵声だ。

 俺を囲む傷ついた男たちからの、怨嗟と憤激、それに諧謔の発露。


『……何故見逃した!? どうして許した!?』

『ああ、あの時に処分さえしていてくれたら、こんなことにはならなかったのに……!! 中隊長殿、あんたは……!!』

『今さらやめろ! あの時に中隊長殿が処断していても、結果は同じだったろう。この計画が決まった時には、もう全ては終わっていたんだよ……。なあ……』

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