第三十一話 女医ハーネマンの往診

 女たちの黄色く賑やか過ぎる談笑が、朝から俺の耳に姦しい。


 あれは白鷺庵に押しかけてきては、マイスタに愚痴や相談を持ちかける娼婦たちの声だ。

 幾枚もの壁と扉を通してさえ、少しも薄れずに俺の小部屋まで届いてくる。

 全く元気なことだ。

 だがその煩さが、今の沈み切った俺の精神には、やけに心地いい。


 マイスタからマルーグ峠の戦いと後に続いた悲劇、そして『マノ大尉』の罪業を聞かされて、四日が過ぎていた。

 その間、カイファという若者は、毎晩この白鷺庵でエステルとの逢瀬を重ねる一方で、アンフォラとかいう中年男は姿を見せていない。

 あの執拗さからすれば、かなり意外だ。

 むしろ何か良からぬ魂胆があるのかと、却って不安が募る。


 俺はといえば、マイスタが白鷺庵にいる間は、来客を怖がらせないように小部屋に潜み、彼が不在になるとサロンで“強面の用心棒”を務める。

 それが白鷺庵での俺の日常になっていた。

 その平穏な日々の間も、俺の心を占めるのはただ一つ。

 積み重なった罪業と、その贖罪のことだけだ。

 だが俺の腐った脳は、何をどうすればいいのか、何の糸口も見いだせないまま、四日が空しく過ぎ去った。 


 そして今日は、五日目の朝だ。

 早朝から娼婦たちとマイスタの楽しげな声を聞きながら、俺が物思いに耽っていた時だった。

 小部屋の扉が、軽く叩かれた。

 俺が白鷺庵に居候してから、この小部屋への訪問者など誰もいない。

 ぴきぴきと小首を傾げる間に、再び扉がノックされた。


「開イテ、イ、ル……」


 ベッドの縁から投げた俺の掠れ声に、落ち着いた女性の声が返される。


「お邪魔しますね」


 すぐに扉が開かれ、臙脂色の外套に身を包んだ、しっとりとした眼鏡の美女が顔を覗かせた。


「おはようございます、マノさん」


 懐の深い、寛容な笑みを湛えた眼鏡の女医、ハーネマンだ。

 人妻ではあるが、この賢く穏やかな笑顔は、この何日かで荒んだ俺の心に、一滴の潤いを与えてくれる。


 肩から黒いお医者鞄を下げ、小脇に薄い本を抱えた女医は、後ろ手に扉を閉めながら俺に聞いた。


「お加減はいかがですか?」

「用件、ハ……? リベカ、先生……。」


 俺が短く聞き返すと、ハーネマンは、ふふっと柔らかな苦笑を洩らした。


「あら、誰から私の名前を?」

「エス、テル……」


 鞄を床へと下ろしたハーネマンが、眼鏡の奥でふわりと微笑む。

 何だかとてもいい匂いだ。

 鼻孔ではなく、心の奥底でそう感じる。


「あの子の“用心棒”、よろしくお願いしますね、マノさん。とても可哀想な子だから……」


 それだけ答えたハーネマンが、ベッドの縁に座った俺の前に膝をかがめた。

 パチンと鞄のがま口を開けて、彼女は中から真新しい包帯を取り出す。


「今日はマノさんの包帯を取り換えに来ました。楽にしてくださいね……」


 女医ハーネマンが、整った鼻から下を白い布で覆い、繊細な両手を手袋で包む。

 そして俺が被ったフードを後ろへ脱がせ、崩れた顔に膿と腐汁で貼り付いた不潔な包帯をぺりぺりと剥がしてゆく。

 器用な手つきで包帯を巻き替えてくれる女医。

 何となく嬉しい反面、申し訳ない気分がもやもやと胸郭の中に膨れ上がってくるようだ。

 俺は掠れた問いを女医に投げてみる。


「オ代ハ……?」


 するとハーネマンが、布の下でふふっと笑った。

 薄いベールが、カーテンのようにそよぐ。


「ユディートさんから預かっていますから、気にしないで。包帯なんて、そんなに高いものじゃないですし。マノさんがアリオストポリへ発つまでの包帯全部を買っても、半分以上は余ります」


 眼鏡の奥の蒼い瞳に、悲哀の陰が差した。


「余った分のお金は、この花街の女の人のために使わせて頂きますね」

「アリ、ガト、ウ……」


 ふと洩らした俺の呻きを聞き、両脚の包帯を巻き終えたハーネマンが、またふふっと笑う。


「マノさん、いい人ですね。本当に……」


 そこで立ち上がったハーネマンが、眼鏡を鼻先へ下げ、裸の蒼い瞳をじっと俺に注いだ。

 その目元は、緊張に強張って映る。

 そんな女医が、声を潜めてひそひそと俺に聞く。


「マノさんが死体だってこと、まだマイスタさんや女の人たちには、ばれていませんよね……?」


 俺は頼りのない記憶を手繰ってみたが、マイスタは俺が屍者だとは、まだ気付いていないようだ。

 白鷺庵へ来る娼婦たちも、誰も騒いだり文句を付けてくる様子はない。


 数秒の思案を容れて、俺はびちびちと頸椎を縦に振った。

 途端に、女医の漂わす緊迫感は、わずかに融解する。


「よかった。私の診断書は効いているみたいですね」


 確かにマイスタは、この花街では絶対的な信頼感を得ている好漢だ。

 その彼からの信望は揺らがない女医ハーネマンだから、彼女の書いた診断書をマイスタが疑わない限り、この花街の誰もが信じるだろう。

 俺をただの壊疽患者だと。

 だがどうしてハーネマンは、そんな心配をするのだろう?


「ナ、ゼ……?」


 俺が問うと、ハーネマンが眼鏡を掛け直した。

 まだその表情には、硬さが残っている。


「『この界隈に歩く死体がいないか、聞いて回っている人がいる』。そんな噂がこの花街に流れているみたい。一昨日くらいから……」

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