第三十話 逡巡
ああ、そういう訳だったのか。
ユディートからわずかに聞いてはいたが、エステルが娼婦になったいきさつが、少し理解できた。
豪商の娘から、この花街の娼婦へ。
その決意と、そこへ至るまでの彼女の苦悩が、俺の心にも痛ましい。
まるで俺の動かない心臓に、鉄条網が絡みついてくるようだ。
ふと俺は、壁へと歩み寄った。
そこには、一枚の絵が掲げられている。
俺がこの白鷺庵のサロンで最初に見た、木立の中の邸宅を描いた風景画だ。
やはり俺の目には、どこか懐かしく感じられる。
その絵に見入った俺の背中に、マイスタの声が掛けられた。
「それは焼ける前のケルヌンノスにあった、マイリンク家のお屋敷を描いた絵でねえ。お嬢さまの生家なんだよ」
マイスタの口調が、低く鈍くなった。
「お嬢さまには面識がなくて、名前もよく覚えていないようだけれど、ミロから来た中央の国軍中隊長は、何回かマイリンク家に来ていてねえ。やっぱりそこは、商売相手だからさー。それで、その中隊長の名前が……」
マイスタの悲しそうな眼差しが、俺を捉えた。
「『マノ大尉』、『ユステーヌ=ルッカヌス=マノ』というんだよ……」
数千の雷の束が、俺の脳天から爪先までを衝き抜けた。
目の前も頭の中も、激しい振動ととともに目映い闇へと染め上げられる。
力を失い、垂れ下がるばかりの顎を晒して立ち尽くした俺に、マイスタがどことなく自嘲的な苦笑を交えて言う。
「いやー、だから初めてマノさんに名前を聞いた時は、ちょっとびっくりしちゃったよー。まさかマノ大尉本人の訳はないしねえー」
「ナ、ゼ、ダ……?」
びくびくと痙攣し、卒倒しそうな腐った体に鞭打って、文字どおりの全霊で投げた問いへの答えは、俺が予期したとおりだった。
「ああ、それはマノ大尉も戦死した、と聞いてるからだよ」
マイスタが、ふうと大きなため息を容れた。
「あのマルーグ峠の戦いを生き延びたのは、ルカニア側とアープ側を合わせても、二、三人しかいないからねえ」
『マルーグ峠の戦い』、想像を絶する凄惨な戦いだったのだろう。
俺の内側に映される幻視の欠片だけでも、総身の毛が逆立つ思いだ。
眉間にしわを寄せ、マイスタが目を伏せる。
「兵隊もケルヌンノスの住人も、生き残った人たちは、みんな散り散りになってしまって。このルディアに移った人もいるみたいだけど、もうお互いに付き合いはないんだよ」
そこまで語ったマイスタが、よっと小さく声に出して、ソファーから腰を上げた。
マイスタは、サロンの奥の方へと足を向けながら、穏やかな中に悲哀の漂う眼差しを俺に注ぐ。
「さあさ、わしはもう少ししたら戸締りして寝るから。マノさんももう寝たらいいよー。病身に夜更かしは毒だでねー」
いつに変わらない調子で、それだけ告げたマイスタ。
俺も小刻みな震えの残る歯の間から、マイスタに応える。
「ア、アリ、ガ、トウ……。オ、ヤス、ミ……」
そして俺は、腐って緩み、さらには衝撃でがたがたになった手足を藻掻くようにして、宛がわれた小部屋へと戻ってきた。
灯りもなく、夜と融け合った部屋の中で、俺はベッドの縁に腰を落とす。
物音一つしない夜闇に、俺の耳鳴りだけが、嵐のように響く。
その轟轟とした幻聴に混じり、腐った脳の中に響き渡る、一つの言葉。
――贖罪――。
そうだ。
マイスタの話が正しいなら、俺が本当にルカニア国軍のマノ大尉だったなら、俺は幾つもの罪業を重ねたことになる。
マルーグ峠の戦いで、俺は自分ばかりか部下もほとんど死なせてしまった。
あまつさえ、ケルヌンノスの街は焼失し、住民たちはすべてを無くしたのだ。
そしてエステルは、娼婦へと身を堕すこととなってしまった。
これが罪業でなくて、一体何だというのだ。
そしてこれが罪なら、さらに俺が、実は生きながらえたマノならば、俺はその罪を償わなければならない。
あのパペッタという女が俺を屍者に換えたのも、その贖罪のために他ならないのだから。
皮膚の剥がれかけた汚らしい両手で、俺は醜い顔を覆い隠す。
とは言うものの、俺は贖罪のために、何をすればいいというのだろう?
俺が抱えた罪業は、一つの中隊どころか街一つの重さにも値する。
何をどうすれば、その途方もない罪を償えるのだろうか?
一命をもって贖おうにも、もう俺は死んだ体なのだ。
『贖罪はもう始まっている。苦悩とともに』
女聖騎士ユディートは、俺に確かにそう語ってくれた。
さらに『苦悩を負い切れなくなったら、わたしに言え』と、彼女は言った。
あの時は軽く流してしまったが、今、俺は自分が何者なのか、知りつつある。
同時にそれは、俺が背負い、清算しなければならない因業が明るみに出ることでもあるのだ。
俺は自分の罪業の重さに耐えられるのだろうか?
その過重から解放されるための贖罪の道は、どこにあるのだろう?
全ての答えは、パペッタの許にあるのかも知れない。
今の俺には、パペッタが待つアリオストポリへ行くこと、それ以外の途は何もない。
逡巡の中に立ち往生したまま、夜は深々と更けていった。
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