第二十九話 ケルヌンノスの悲劇

 ――マルーグ峠の戦い――


 マイスタの洩らした一言が、突っ立った俺の心を激しく戦慄かせる。

 俺の魂のどこかが、このマルーグ峠という地名に共鳴し、俺の体まで激しく揺さぶり動かしているようだ。

 鼓動を忘れた心臓さえ、動悸しているかのような錯覚に襲われる。

 沈降する意識に代わって、おぼろげに浮かび上がってくるのは、誰かの声だ。


『我が隊の情報は、全てアープ側に筒抜けになっています! 一体どこから……』

『畜生! あんたたちさえ来なけりゃ、俺たちは、ずっとアープと……!!』

『ああ、もはやこれまでかと……。このマルーグ峠が、我々の……』


 幾つもの男の恨み言に囲まれた俺は、半ば朦朧としたまま、マイスタに問うていた。


「マルーグ、峠、何ガ、アッ、タ……?」


 マイスタが両手で顔を覆う。

 抱えきれない疲労を全身の空気にまとわせて、彼が深淵にも似た、底知れない吐息をつく。


「ああー、マルーグ峠の戦いのことは、もう誰も口にしなくなったがねえ。余りにも悲しい話だから……」


 そのあとに続くはずの彼の言葉を一字一句聞き漏らすまいと、俺は意識の楔を鼓膜に打ち込む。

 そんな身構えた俺に、マイスタが真顔を向けてきた。

 今まで見たことがないほどに真摯で、すがるような眼差しだ。


「話してもいいけど、明日には全部、忘れてくれると約束してはもらえんか? わしもあんまり思いだしたくない話でね」


 この気のいいいつも穏やかなマイスタが、見せた深刻な顔。

 よほど深い傷が、マイスタの中に刻まれているのだろう。

 だがマルーグ峠で何が起きたのか、俺にとっても避け得ない話だ。

 俺は力を込めて、びきっとマイスタにうなずきかける。


「約束、スル……」


 三秒間、俺の眼球を見返していたマイスタだったが、やがて小さくうなずいた。


「何が起きていたのか、わしも詳しいことは知らないんだが」


 マイスタがぽつぽつと語り始めた。


「マルーグ峠は、このルディアから北東へ二日ほど行った山間にあってねえ。このルカニアとアープの国境を通る街道脇にあるんだよ。その峠はアープの領土でね、街道を睨む城砦があるんだよ。ただ、そのマルーグ峠のある地域は、隣り合ったアープの山間集落とは、昔から仲が割とよくてねえー……」


 なるほど、それが『識別表』に書かれていたマルーグ城砦なのだろう。

 マイスタが重い口調で続ける。


「それが、今から大体二年近く前かねえ。突然、首都のミロから国軍の中隊が一つ、ケルヌンノスの街に乗り込んできてね……」


 俺の腐敗した舌が縮み上がった。

 エステルの故郷だ。

 今はもう焼け落ちて、地図からも消された街、ケルヌンノス。

 絶句した俺をよそに、マイスタが吐息を入れた。


「マルーグ城砦を攻めるというんだよ。何か国の上の方で起きた、このルカニアとアープの悶着のせいらしいけどね。それで、中央から来た国軍の中隊と、そのケルヌンノスの街に昔から駐留していた部隊が合同で、マルーグ城砦を攻めたんだ」

「ドウ、ナッ、タ……?」


 聞かずにはいられなかった俺に、マイスタが力なく首を横に振って見せた。


「ルカニアの軍は、マルーグ城砦の手前の峠道で、逆にアープ軍の奇襲を受けてね。激しい戦闘になって、ルカニアの部隊もアープの奇襲隊も、どちらもほとんど全滅したんだよ」


 マイスタが言葉を切った。

 俺も何も言えない今、サロンは完全な静寂に支配される。

 だがそのつかの間の沈黙は、マイスタの弱弱しい苦笑で破られた。


「でも、事はそれで終わらなくてねえ……」


 マイスタがわずかに鼻を啜る。


「この戦いの報告が中央に上がると、作戦を立てた参謀が激怒したらしくてね。『この作戦の失敗は、ケルヌンノスの部隊のせいだ』、ということにされて。マルーグ峠の戦いから半年くらい経ってから、ケルヌンノスの街は、謎の大火で丸ごと焼けてしまったんだよ。それはもう、いろんな噂が立ったけど……」


 いかにもきな臭い話だ。

 きっと裏では、中央の暗躍があったのに違いない。

 復讐か、懲罰か。

 再びマイスタが顔を覆った。


「ケルヌンノスの住民たちは、何もかも、中には命さえ失った人もいてねえ。それで、ケルヌンノス一の豪商、マイリンク商会の会頭が、自分の手元に残った財産かき集めて、住民たちに分け与えてね……」

「ナ、ゼ……?」


 俺が問うと、マイスタが枯れた指の間から、深く澱んだ息を吐き出した。


「中央から来た中隊に兵站を納めていたのが、マイリンク商会だったんだよ。かなりの儲けが上がってね。まあ大半は、今のアンフォラ商会を通したものだったんだけど、マイリンク会頭は、ケルヌンノスが焼けたことに物凄い責任を感じてねえ。だから儲けも私財も全部、住民たちにやってしまったんだよー」


 マイスタが、がっくりとうなだれる。


「でも、それでも足りない分があってね。それを工面するために、エステルお嬢さまは、自分から身売りなさったんだ……」

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