第二十六話 エステルの事情
ほとんど感覚の失われた俺の腐った指先に、堅い物が当たる。
あの辻強盗からせしめた、鋭い短剣の柄だ。
短い柄を逆手に握り、腰の鞘からゆっくりと引き抜く。
とうに死んで、さして握力もないこの手だが、奇妙にも短剣の柄は掌に吸い付くように収まってくれる。
頭ではなく、この手が武器の使い方を覚えているのだろう。
研ぎ澄まされ、ぎらぎらと筋状の照り返しを刻む刃を、俺は胸の辺りにゆるゆると翳す。
途端に、顔を引き攣らせたアンフォラが悲鳴を上げた。
「や、やめろ!!」
でっぷりとした全身の肉を震わせて、アンフォラがざざっと玄関口にまで飛び退った。
脅え切った負け犬の目を俺とユディートに代わる代わるに注ぎ、いかにも悔しそうに言い放つ。
「お、俺は諦めないからな! このままじゃ済まさないぞ!」
そんな安っぽい捨て台詞を残し、中年男のアンフォラは白鷺庵から逃げ出していった。
元の落ち着いた静謐を取り戻した白鷺庵。
ユディートが玄関の扉を閉ざす傍らで、俺も短剣を鞘に収めた。
ふう、と小さく息をついた彼女が、羅殯盤をぱちんと閉じた。
左の目にいかにも面白そうな色を浮かべ、俺を見上げる。
「なかなかやるじゃない? キミ。あたしの見込んだとおり」
彼女の漆黒の瞳に、珍しく柔らかくも涼やかな光が宿る。
「キミ、自分の記憶は隠されていても、魂に刻まれた心の力は、かなりのものだから。胆力も、心意気も」
それだけ言うと、ユディートは俺の右肩にちょっと指先を触れてから、無人のソファーにお尻をぼふんと落とした。
自覚は特にないが、こんな腐った他人の体でも、俺の性格はそれほど変わっていないような気はする。
何だか奇妙な気分を抱えながら、俺もローテーブルを挟んだ彼女の向かいに、ぎこちなく腰を下ろす。
正面に見えるユディートの表情は、何事もなかったかのようだ。
ただその伏しがち切れ長の左目と、ほんのりと綻んだ唇に、わずかな笑みの切れ端が残る。
何だか俺自身も、ちょっとした英雄にでもなったような気分だ。
悪戯を成功させた腕白小僧が、ちょうどこんな気持ちだろうか。
ここで俺はユディートを真っ直ぐに見つめた。
サロンでのこの出来事の間、ずっと抱いていた疑問を彼女に投げてみる。
「アレ、ハ、誰、ダ……?」
「ホセア=アンフォラ。この地方でも有数の豪商、“アンフォラ商会”の今の会頭よ」
ユディートが即座に答えた。
感情を抑えてはいるようだが、左目の放つ光は険しい。
「もともとアンフォラ商会は、この地方最大の“マイリンク商会”の傘下にあった、一商店に過ぎなかったらしいの。でも……」
ユディートが憂鬱そうにため息をつく。
「そのマイリンク商会の頭目だったマイリンク家が没落して、アンフォラ商会がマイリンク商会を乗っ取った、って話。あたしがルディアに赴任してくる少し前のことみたい」
何故かユディートの肩からがくりと力が抜けた。
「だから背景は知らないけれど、お金と暇だけはあるのよ。あのアンフォラくんは。それでアンフォラくん、この白鷺庵に身を寄せるエステル=マイリンクに日々ご執心なのよ。全く、男って生き物は……」
呆れ切った調子で彼女が口にした名前に、俺の耳が遅れてぴくりと反応した。
「『エ、ステ、ル=マイ、リン、ク』……?」
「気付いた?」
一言だけ返したユディートが、哀切の漂う微笑を浮かべる。
「今、この白鷺庵に身を寄せてるエステルは、元をただせばマイリンク家の独り娘なの」
聖騎士の意外な告白に、俺は眼球を剥き、顎をだらしなく落とすより他にない。
そんな俺の緩んだ顔を見ながら、ユディートが静かに続ける。
「マイリンク家は何かの理由で、全ての私財を投げ打ったの。それでも足りなくて、エステルは身売りをしたらしいのよ」
ということは、ああ見えてエステルもやはり娼婦、ということか。
それにしては、娼婦という雰囲気が余りにもなさ過ぎる。
一体どういう訳なのか。
俺の疑問が聞こえたのだろう。
ユディートが左の目線をテーブルの上へと逃がす。
「詳しいことは、あたしも聞けてないけれど、この白鷺庵の持ち主のマイスタさんは、マイリンク家と縁があったひとらしいの。だからマイスタさんが娼館の組合に掛け合って、この白鷺庵の専属の娼婦として保護してるのよ。異例のことらしいけれど」
「ココ、ハ、何ダ……?」
これも俺の根強い疑問だ。
この『
俺の推測に、ユディートは小さくうなずく。
「“連れ込み宿”。四部屋しかないけれど。そのうちの一つに、エステルを専属の娼婦として置いてるの。でも……」
そこでユディートが意味ありげな苦笑を洩らした。
「エステルに充てるお客は、マイスタさんが厳しく選んでるから、あたしが知る限り、エステルの客は常連が一人いるだけよ。マイスタさんの認めた男が、ね」
ユディートの表情が、不意に険しくなる。
「キミも聞いたでしょ? エステルは目が見えないの。そんな女の子が娼婦になったら、身勝手な男どもに何をされるか、分かったものじゃないのよ。特にあのアンフォラくんみたいに、暇を持て余した厭らしい男にはね」
なるほど、エステルはそういう不幸な事情を抱えた少女だったのか。
もっと詳しい話を聞いてはみたいが、たぶんユディートはこれ以上の事情を知らないのだろう。
もしかしたら、エステルのことを気にかけている女医ハーネマンなら、もっといろいろなことを知っているかも知れないが……。
くきくきと独りうなずく俺に向かって、左目を細めたユディートが強い口調で力説する。
「これで分かったでしょ? エステルには、しつこい男が横恋慕してるの。だからマイスタさんやあたしがいない時、目の見えないエステルを護る用心棒が、実際に必要なのよ。そう言う訳で、今日からキミはエステルの用心棒なの。分かった?」
強引に宣言した彼女。
この白鷺庵に世話になる以上、俺も何かの役には立ちたい。
確かに俺のこのご面相なら、大抵の男は見ただけで逃げ出してくれるだろう。
それだからこそ、用心棒は俺にうってつけの役目だ。
もう一度深くうなずいた俺を、ユディートが憤然と指差した。
「分かったら、姿勢を正してちゃんと聞く! あたしが用心棒の心得をしっかりと教え諭してあげるから! いい? マノくん!」
ああ、またユディートの長いお説教が始まるのか。
何だか彼女の欲求不満のはけ口にされている気がしないでもない。
だが俺に拒否する権利は、認められていないようだ。
途端に、ユディートがぎろりと俺を睨んだ。
「ほらそこ! よそ見しない! 真面目に聞く!」
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