第二十五話 羅殯盤(デス・コンパス)
驚愕を隠さない肥満の中年男アンフォラ。
その裏返った声に当てられた俺も、突っ立ったままに顎を落とした。
『マノ大尉』?
俺の脳裏に霞の緞帳が下がり、遠い戦火の幻影が映し出される。
闇の黒と燃え盛る炎の朱色に塗り分けられた、宵の山林。
木立に反響する兵士たちの怒号と、断末魔の叫び。
『マノ大尉!』
『マノ隊長!』
『ユステーヌ!』
それは、本当の俺のことなのだろうか……?
遠退きかけた俺の意識が、ユディートの明瞭な声に繋ぎ留められる。
「確かにこの”用心棒”のひとは“マノ”って呼ばれてるけれど、キミが言ってる『マノ大尉』かどうか、あたしは知らないから。キミの人違いでしょ」
彼女の言葉に、俺はぐらつく頸椎をぐっと支え、眼球をユディートへと向けた。
この聖騎士の左の瞳が俺の視線を捉えた刹那、俺の腐敗が進んだ脳内から、白い靄が消し飛んだ。
それを察したのだろうか。
ユディートがにんまりと笑いかけてくる。
どこか含みのある、それでいて何かを期待している、そんな眼差しだ。
漂う俺への信頼感が、何となく嬉しい。
いきなりだが、俺はエステルの用心棒、ということになったのだ。
それらしく振る舞うべきだろう。
恐らくユディートの表情も、そこを俺に期待していることの表れだ。
そう判断した俺は、ぴきぴきと関節を鳴らして胸郭を反らし、大げさにマントを揺らして肩甲骨を開く。
片方の小指がちぎれた腕をこれ見よがしに組み、アンフォラを凝視した。
アンフォラが立ち尽くしたまま、肥え太った体を震わせて、俺に疑いのまなこを向けてくる。
その茶色の目に澱んだ疑念と恐怖は、まるでぐつぐつと煮立てられたダークベリーのジャムのようだ。
「お、お前、本当に、マノ大尉じゃないのか……!?」
怖々と問いを投げてきたアンフォラ。
その血の気の退いた顔を見て、俺はわざと人減離れした掠れた笑いを、歯の間から洩らしてやる。
「キ、ヒ……」
アンフォラの血走った両目が皿のように大きくなり、髪の毛がざわざわと逆立った。
弛んだ頬も、ぶつぶつと粟立つ。
辻強盗さえ卒倒させた屍者の声だ。
ただの中年の心胆など、一瞬で凍り付く。
アンフォラが情けなく眉を下げた、泣きそうな顔をユディートに向けた。
当のユディートは、満足そうににんまりと笑うばかりだ。
そんな彼女に、目を剥いたアンフォラが早口に捲くし立てる。
「こ、こいつ
血相を変えて噛みついてくるアンフォラを前にしても、ユディートは涼しい顔だ。
実に気怠そうな態度で、中年男から視線を逸らす。
「あたしは”
適当な調子で軽く返したユディートが、細くくびれた腰の辺りから何か薄い物を取り出した。
「疑うなら、証拠を見せてあげるから」
俺が首を伸ばし、そううそぶいたユディートの手元へ視線を向けると、彼女が持っているのは銀色の円盤だった。
掌に載るほどのその円盤は、コンパクトとかいう化粧道具によく似ている。
そんな銀色のコンパクトを左手に持ったまま、ユディートが右手で俺を差し招く。
当然、いつものにんまり笑顔も一緒だ。
正直、彼女の手招きは危険な匂いしかしない。
が、拒否はできないのもいつものことだ。
諦めの吐息を胸郭に溜めながら、俺は肩を怒らせた姿勢を保って、ユディートへとずるずる歩み寄る。
彼女から二歩開けて立ち止ると、ユディートが銀のコンパクトをぱちんと開いた。
その中からスッと立ち上がったのは、小さな銀色の金属箔だ。
淡い燐光を放つ燻し銀の欠片は、一枚の羽毛を象ってある。
コンパクトからわずかに浮き上がった銀の羽根は、すぐに軸を中心にしてくるくると回り始めた。
それを見て、アンフォラが悲鳴にも似た声を上げた。
「な、何だ!? それは……!!」
「“
ユディートが羅殯盤なる道具に、細めた左の目線を注ぐ。
「もう死んでる者と、次の日没までに死ぬことが決まってる者を指し示す道具」
ユディートの説明を聞いて、俺の全身が不安に打ち震える、気がする。
俺は
彼女の言うことがブラフでないのなら、この羅殯盤という聖具は俺を指して止まるはずだ。
そんなことをしても、俺が死人だということの証明にしかならないのに、ユディートの意図が分からない。
だがユディートは、動揺する俺に構うことなく、手の上の羅殯盤を俺に近付けた。
びくんと腐った体が反応してしまった俺、それにふうふうと息を乱して見守るアンフォラの前で、彼女の手の中の羅殯盤は、くるくると回り続けている。
意外だ。
ユディートは羅殯盤が俺を指さないことを見越していたようだ。
「これで分かったでしょ? アンフォラくん」
密かに嘆息を胸郭に洩らした俺の前で、ユディートが冷淡な微笑を中年男に向けた。
「今ここに死人なんて誰もいないんだから。ああ、ついでだから」
彼女の微笑みが、にんまりとした魔性の笑みに変わった。
意味ありげな流し目を俺に寄越しつつ、アンフォラにねっとりと告げる。
「キミが明日の日没まで命があるか、見てあげようかなあ」
そう言いながら、ユディートがこれ見よがしに羅殯盤をアンフォラへと近付ける。
同時に、俺はマントの内側に手を入れた。
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