第二十四話 突然の用心棒
だが、俺をこの場に留めるユディートの意図は、全く分からない。
突っ立つばかりの俺を置き去りにして、他の全員が動き出す。
エステルは一歩一歩慎重にサロンの奥へと引っ込んでゆき、ユディートが玄関口で扉を引っ張り合うマイスタへと歩み寄る。
そして、この老人と目配せを交わしたユディートが、こっそりとドアノブを握った。
途端に、マイスタの表情がホッと緩む。
彼にしては珍しく、相当うんざりしているようだ。
人の好いマイスタが嫌悪感を顔に出すのは、かなり珍しい。
外の男の嫌われ具合は、かなりのものと見た。
玄関から離れたマイスタはというと、所在なさげにたたずむ男女とエステルを連れて、サロン奥の階段から二階へと姿を消した。
今やこの白鷺庵のサロンに残されたのは、片手で扉を余裕で引っ張るユディートと、ソファーの前に棒立ちの俺だけだ。
そのユディートが、俺に左の流し目を寄越す。
漆黒の瞳を不敵に細め、にんまりと策士の邪な笑みを浮かべるユディート。
一体、何をする気なのだか。
嫌な予感しか湧いてこない俺の眼球に、扉から手を放すユディートの姿が映った。
次の瞬間、扉は蝶番を破砕するばかりの勢いで撥ね開けられ、一人の男がサロンに踏み込んできた。
厚く豪奢な服の下で、でっぷりと突き出した腹が揺れている。
男は戸口の前に凛と立つユディートを前に、仰け反って小さく叫んだ。
「うっ!? サイラ卿……!?」
「こんにちは、アンフォラくん」
細めた左の目を怯む中年男に注ぎ、ユディートが挑戦的な表情で言葉を投げる。
「昼間からこんな場所に来るなんて、いいご身分ね。商売の方は大丈夫なのかな?」
アンフォラと呼ばれた男が、ぐっと言葉を詰まらせる。
ああ、思いだした。
この太った中年男は、昨日もこの白鷺庵に押しかけてきて、マイスタに追い返されていた。
そういえば、『また来る』などと捨て台詞を残していたような気がする。
本当にまた来たようだ。
そのアンフォラが、頬のたるんだ下膨れの顔を真っ赤にして、吠えるように言い返す。
「あんたには関係ないだろう! それよりエステルに会わせろ!」
「『関係ない』なんて失礼だね。キミもよく知ってるはずだけれど」
腕組みのユディートが、アンフォラに向かって身を乗り出した。
上目づかいに見上げるようにして、アンフォラを凝視する。
「この花街の女たちは、みんなあたしと、ひいひいひい……おばあさまの庇護下にあるんだもん。住民も、娼婦もね」
そう豪語した聖騎士の顔に、にんまりとした冷笑が浮かぶ。
時折俺に見せる狩人の笑みよりも、さらに冷酷で容赦のない顔だ。
傍目の俺の腐食した背骨まで、がたがたに震えて崩落しそうに思えてくる。
アンフォラの赤ら顔が、今度は蒼黒くなってきた。
一応は丁寧に撫で付けられた茶色の髪の生え際が、てらてらと光っている。脂ぎっているのもさることながら、冷汗が滲んでいるのは間違いない。
怯えを隠せない中年男に、十代少女の聖騎士が威圧感たっぷりに畳みかける。
「大体、キミはもうとっくにエステルに振られてるんだから、潔く身を退いた方が傷も浅くて済むと思うけれど? いろんな意味で。この花街の娼婦には、客を断る権利も恋をする権利だってあるのよ。分かってる?」
アンフォラのこめかみに、血管の陰が浮かび上がってきた。
戦慄く口角から泡を飛ばし、男が吠える。
「そっちこそ、俺がどれだけの金を積もうとしてるのか、分かっているんだろうな!? 金で体を切り売りする売春婦の分際で、何を偉そうに……!!」
ユディートの冷ややかなせせら笑いが、さらに凍てついてくる。
「この花街、生きるために仕方なく体を売ってる女の人は、少なくないよ。でもね」
彼女の左の瞳の奥底に、蒼い深淵が大きく顎を開いたかのような、藍色の闇が蟠る。
「お金で心を売り渡すような女は、この花街にはいないよ。たったの一人もね」
ユディートが、言葉を失って身を震わすばかりのアンフォラを指差した。
「キミみたいに、娼婦を物のようにしか考えられない男には、普通の女だって寄り付くはずがないじゃない。そんな男、あたしが教え諭す価値もないわ」
アンフォラの顔が、また赤くなってきた。
今度は怒りのためだろう。
ぎりぎりと歯ぎしりする中年男を斜に見遣り、ユディートがねっとりと笑う。
「でもキミは諦めが悪いからね。マイスタさんやあたしがいないときに間違いがあっても困るから、あの子に用心棒を付けることにしたの」
「よ、用心棒……!?」
ひくっと顔を引き攣らせたアンフォラに、ユディートが絡みつくような口調でゆっくりと言葉を綴る。
「そう、用心棒。そこにいるでしょ……?」
そう言ったユディートの親指は、肩越しに俺を指し示している。
アンフォラの茶色の目が、彼女の親指が示す先を追ってくる。
そして三秒。
俺の眼球と、この肥満した男の視線が初めてかち合った。
途端にアンフォラの顔に浮かんだのは、蔑みの色だ。
馬鹿にしたように厚ぼったい口を曲げ、彼が嘲笑う。
「何だ? 汚い男だな。それに臭うぞ。どこから拾ってきた貧乏人……」
アンフォラの粘着質の視線が、俺を値踏みするように睨め回す。
実に厭らしい目つきだ。
あんな目で舐めるようにじろじろ見られたら、俺だって気色悪いのだ。
女性、特に繊細そうなエステルなら、なおのことだろう。
しかしそんな中年男の視線が俺の襟元を捉えたその瞬間、その目が大きく見開かれた。
だらしなく開かれた口からは、ひゅうひゅうと乾いた息が洩れてくる。
脅え切ったアンフォラが、がくがくと震えながら俺を指差した。
「その部隊章、マ、マノ大尉!? あんた死んだはずじゃあ……!?」
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