第二十三話 招かれざる客

 俺は激しく反感を覚え、つい歯噛みした。


 ……全く心外な反応だ。


 腐った臓腑の底に、憤懣が溜まってくる。

 表情を変えられない俺の目の前で、マイスタがさも愉快そうに、朗らかに笑う。

 ユディートに至っては、すらりとした脚をばたばたさせて、涙さえ滲ませて爆笑している。

 彼女のこういう仕草は、何と言うか、まるっきり子供だ。


 やはり只では世話になれない。

 真剣にそう考えた結果の行動だったのだが、ユディートはともかく、まさかマイスタにまで笑われてしまうとは。

 不満で胸郭が弾けんばかりに膨れ上がる俺。


「ごめんね。気を悪くしないで」


 ユディートがひいひい言いながら、左目を手の甲で拭う。


「キミ、本当に真面目なんだね。びっくりした」

「いやー、ユディートちゃんの言うとおりだよー」

 

 しみじみと洩らしたユディートに続き、マイスタも何度もうなずいた。

 この老人の素振りと言葉には、心底からの感嘆とが見て取れる。

 俺を見る目に、もう疑念の暗い陰は窺えない。


「マノさんは律儀だねー。うん、本当に……」


 マイスタが目を伏せた。

 しわの寄った口元に浮かぶのは、かすかな笑み。

 何か噛み締めるような、深い思慮と隠しきれない過去を偲ばせる、そんな笑みだ。

 ふう、と小さく息をついたマイスタが、低く静かな口調で、ゆっくりとエステルに聞く。


「お嬢様、ここに銀貨と銅貨が十枚ずつあります。マノさんが、ここに寝泊りするお代と言われておりますが、どうしましょうねえー。わしは別に欲しくないですが、お嬢様はいかがです?」

「ああ、そんな……」


 困ったように洩らし、エステルが正面へと向き直った。

 曖昧なその翡翠の目線が、俺に相対する。

 感謝の気持ちの表れだろうか。

 白い頬をほんのりと桃色に染めて、エステルが微笑んだ。

 腐った男の俺の心にさえ、ぐっさりと突き刺さる可憐な笑みだ。


「お気持ちはありがたいと思います。確かに、わたしにはちょっとでもお金が必要です。でも、困っているマノさんから頂くことなんて、わたしにはできません」


 奇妙な物言いだ。

 彼女の言葉を素直に受け取れば、エステルはお金に困っている、ということか。

 娼館街でお金に困っている女といえば、やはり借財を負って体を売る身、そんな先入観を持ってしまう。

 だがそれを本人に直に確かめるなど、仮にそうだったとしても、非礼の極みだろう。

 俺にはそんな勇気はない。

 しかしそれはそれとしても、俺も一度出した中身を、また財布に戻すような無粋な真似はごめんだ。

 

 さて、どうしたものか……。

 考え込む俺と、柔らかな、ともすれば母性的とさえ思える笑みで沈黙を守るエステル。


 その間に割って入ってきたのは、ユディートのふふーん、という甘い笑いだった。


「それなら、このお金はあたしが預かるね」


 素っ気なく言ったユディートが、しなやかな手をひょいと延ばしてきた。

 彼女は片手でちゃりちゃりとコインを拾い集めながら、俺とエステルを好意的な眼差しで交互に見遣る。


「後でハーネマンさんに渡しておくね。今日のマノくんの診察代と、これからの包帯代。残った分は、困った女の人のために使ってもらうから。いい考えでしょ?」


 悪戯っぽく、にっと笑ったユディート。

 その顔が、いつになく眩しい。

 マイスタも、即座に膝を打った。


「いいねー。さすがユディートちゃん。とてもいい考えだよー」


 マイスタがもろ手を上げて賛成すると、エステルも屈託なく、うふっと笑った。

 その透明な声も、とても嬉しそうだ。


「ありがとう、ユディートさん。リベカ先生によろしくお伝えくださいね」

「分かってる。任せて」


 ユディートが貨幣を腰のあたりにしまい込みながら、にっこりとうなずいた。


「ハーネマンさんも、エステルのことを心配してたから。ちゃんと伝えておくね」


 このサロンの空気が、何だか軽くて温かみを帯びたような気がする。

 もちろん俺の肌など死人の皮だから、暑さ寒さなど関係がない。

 たぶんこの感覚は、俺の内側からきた精神的なものだろう。 


 ユディートが、さっぱりとした笑みを留めたまま、お尻をぼふんとソファーに落とした時だった。 

 玄関扉のノッカーがコンコンと鳴らされた。

 特徴のない、誰でも鳴らすやり方だ。

 

 よっ、とひと声上げて、マイスタが腰を上げた。

 おもむろに玄関口に立ったマイスタが扉を開くと、戸口には一組の男女がいた。

 どちらもまだ若く、二十代の初めというところか。

 割と小奇麗で、少し余裕がある庶民といった風情が漂う。

 マイスタの正面に立つ男に対して、女の方はその陰に半歩隠れ、恥ずかしそうに顔を伏せている。

 その若者が、マイスタに気さくに聞いた。


「こんにちは。部屋は空いてる?」

「ああ、こんにちは。今日は空いてるよ。いつまでにする?」


 マイスタも若者とは顔見知りなのか、慣れた様子で言葉を交わす。

 そんな好々爺のマイスタに、若者がポケットから取り出した銀貨を手渡した。


「明日の朝まで休ませて。銀貨一枚で良かったよね?」

「ああー、分かってるねー。いつも使ってくれて、ありがとうね」


 勝手を知った様子の若者に、マイスタが気安い笑顔で何度もうなずく。


「じゃあ部屋へ案内するよー。二階の三号だから……」


 男女が玄関の内側に入り、マイスタが扉を閉じようとした、その瞬間だった。

 今しも後ろ手の彼が引くドアと枠の隙間に、何かがガシッと挟み込まれた。


「ああー!?」


 いきなりのことで、がくんとマイスタの姿勢が崩れたその刹那、今度は扉の隙間から片手が捻じ込まれてきた。

 贅沢な指輪がいくつも光る、太い指だ。

 肉付きはいいが、締りはない。

 体を使って働く者の手ではなさそうだ。

 玄関口に向き直ったマイスタが、呆れ切った声を上げた。


「ありゃー? またあんたかい。もう来るなって、何度も言ってるじゃろ。いい加減諦めてくれんかねえー……」

「いいや! 俺は諦めないぞ! また来ると言っておいただろう!」


 野太い男の声が、扉の隙間から入り込んでくる。

 確かに、俺にもどこか聞き覚えのある声だ。

 続けて拳一つほどの幅に開いた扉の隙間から、片方の目がサロンを覗き込んできた。

 やはり中年男のようだ。やはり何となく見覚えがある。

 

 ふと目の前のエステルを見ると、顔を曇らせたまま、うつむいている。

 可憐な唇も堅く引き結ばれ、その強張った華奢な身は小刻みに震えているようだ。

 よほど怖いのだろう。 

 ユディートがエステルの側にスッと寄り添い、そっとその肩を抱く。

 訳あり過ぎる光景だ。

 マイスタが開こうとする扉を引っ張り返しながら、あからさまに迷惑そうな声を上げた。


「今はお客がおるんじゃよー。邪魔じゃから帰ってくれんかなー」


 確かに、扉の内側で待つ男女も、見るからに不安で迷惑そうだ。

 扉を閉ざそうとぐいぐいノブを引くマイスタに対し、男の方はこの白鷺庵のサロンに押し入ろうと、ドアをこじ開けるのに必死だ。

ユディートがスッと立ち上がった。

 異常を察した黒猫のような、優美でしなやかな仕草だ。

 彼女は横に座るエステルの耳に、そっと耳打ちする。

 

「奥に行っててもらえる? エステル。危ないから」

「あ、はい……」


 青ざめたエステルがこくこくとうなずき、固い動作で立ち上がる。

 つられた俺もぎこちなく腰を伸ばして直立すると、ユディートは俺をびしっと指差して、小声を飛ばしてきた。


「ああ、キミはそこにいて」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る