第二十七話 街の記憶

 くたびれきった俺は、白目を剥いて天井を仰いだ。

 頸椎がきちきちと鳴り、顎がかくかくと痙攣している。


 あの聖騎士ユディートのご高説、『女を護る用心棒の在り方』は、概ね三時間を費やしたのち、ユディートの帰宅とともに終わった。

 

 しかし三時間、ひたすら教説し続けられる彼女の体力と気力には、ほとほと恐れ入る。

 高位の聖職者には、そういう才能も必要なのだろう。

 だがまあ嬉々としたユディートの顔を見られるなら、それはそれで良しとするべきかも知れない。


 夜も更け、しんと静まり返った白鷺庵のサロンにいるのは、俺独りだ。

 静かに天井を仰ぎ、俺は揺らめく車輪状の灯りを眼球に映す。

 腐敗した脳、それに固まった鼓膜の中に、ユディートの去り際の言葉が幾度も繰り返される。


 『“羅殯盤デス・コンパス”がキミに反応しなかったのは、キミの魂がまだ本来の生きた体とつながっているから。キミは本当の意味で、死んでいないの。気を確かに持って』


 彼女の励ましを噛み締めつつ、俺は思考を巡らせる。

 あの太った中年男の豪商アンフォラは、俺のメダルを見て『マノ大尉』と呼んだ。

 しかも『死んだはず』とまで言ったのは、マノ大尉と面識があり、しかも死の経緯も知っているのだろう。

 もしかしたら、それは俺の死にざまかも知れないのだ。

 そしてそのいきさつは、俺の『贖罪』とも……。


 往くべき途を思い、俺が胸の内をため息に満たしたその時、背後から高く澄んだ声が聞こえてきた。


「あの、どなたですか……?」


 それだけで声の主はすぐに知れる。

 俺の異形が見えていない少女に間違いない。

 俺は俺以外には出し得ない、怪物めいた声を絞り出す。


「エス、テル……?」

「あ、マノさん」


 俺の声にも怖気づく様子はなく、平然と答えたエステル。

 俺が振り向くよりも先に、彼女はゆっくりとした足取りながら、するりとテーブルを避けて、俺の向かいに座った。


「器用、ダナ……。危ナク、ナイカ……?」

「ありがとうございます」


 エステルが、白い両手で口を覆い、くすっと笑う。


「わたしの目はほとんど見えませんが、明るいか暗いかは分かります。それに、どこに何があるのか、マイスタさんが教えてくれましたから、白鷺庵の中は不自由ありません」


 穏やかに答えたエステルは、相変わらずほっそりとした小柄な身を、扇情的な黒いドレスに包んでいる。

 だがスッと伸ばした背筋、膝に重ねた白い両手は、やはりこの少女の育ちの良さを暗示するものに他ならない。

 続けてエステルは、曖昧な翡翠の瞳を曇らせて、すまなさそうに深々と頭を下げた。


「あの、わたしの“用心棒”、本当にごめんなさい。ご迷惑をおかけしてしまって」

「ユ、ディー、ト、カ……?」


 俺の掠れた問いに、エステルがこくりとうなずく。


「はい。ユディートさんが帰る前に、わたしのお部屋に来て。マノさんが、わたしの用心棒を買って出てくれた、って。マノさんなら強面だから、誰も近付けないから大丈夫だと」


 エステルがもう一度、膝に額が付くほどに首を垂れる。


「ごめんなさい。それに、ありがとうございます」


 確かに俺のこの顔なら、誰も近付いて来ないのは間違いない。

『強面』とは、ユディートもよくもまあ言ったものだ。

 心の中で苦笑を洩らす俺に、エステルが聞いてきた。


「あの、ところでマノさんのご出身は?」

「シュッ、シン……?」


 俺の意識に、灰色の波紋が広がった。

 思考が停止しかけた俺に気付かない様子で、エステルが続ける。


「ふと、昔のわたしの家で聞いた話を思い出して。わたしの家にも、確かマノさん、という軍人さんが何回か来ていたみたい。そのマノさんは、確かルカニアの首都ミロから来たって聞いた記憶があって」

「ミ、ロ……」


 俺の記憶が渦を巻く。

 脳内の霞みに浮かび上がるのは、どこか街の風景のようだ。


 石の建物。

 行き交う人々と、数十人の兵士たち。

 それに、落ち着いた造りの大きな邸宅。

 ……どこかで見た屋敷だ。


 幻に視界を占められる俺の前で、エステルがうつむいた。

 悲しみに覆われつつも、気丈に口元に笑みを留め、言葉を続ける。


「わたしは、生まれも育ちもケルヌンノスの街でした。でもケルヌンノスは、焼け落ちてしまって。今はもう、地図からも消されてしまったとか」

「ケル、ヌン、ノス……! 焼ケ、落チ、タ……!?」


 『ケルヌンノス』は、あの『識別表』にも書かれていた名前だ。

 街の名前だったのか。

 だが『焼け落ちた』とは……?


 その瞬間、俺の眼球が裏返った。

 俺の脳裏が、新たに沸き起こった別の幻に塗り替えられる。


 やはり紅蓮の炎だ。

 煌々たる焔が焼き尽くすのは、一つの街。

 逃げ惑う人々、同じ旗印を掲げながらも、互いに殺し合う兵士たち。

 何故、仲間同士で戦っているのだろう……?


 外れるばかりに顎を開き、俺は声にならない声で絶叫した。


 もちろん、この不潔極まる、血も凍る顔は、エステルには見えていないはずだ。

 それでも、何か異様な空気を醸していたのだろう。

 エステルが気遣わしげに俺の顔を覗き込む。


「大丈夫ですか? すごく具合が悪そうな感じ」


 ふっと我に還った俺は、ぴきぴきと首を横に振る。


「大、丈夫ダ……。アリ、ガ、トウ……」


 俺が胸の奥底へとため息を流し込んだ、その時だった。

 サロンの中にノックの音が密やかに響いた。


 コンコンコンコンコンコン、強く響き過ぎないように加減された音が、続けて六回。

 その特徴的な音を聞くなり、エステルがソファーからハッと立ち上がった。


「カイファ……!」

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