第二十一話 奇妙なノック
いきなりの少女の声に、俺はびくんとすくみ上る。
ここまで、まるで俺などいないかのように振る舞っていた、少女エステル。
だが俺の引き摺る足音が耳に障ったのか、いきなり俺へと向き直った。
その翡翠の視線は固く疑り深げだが、敵意までには至っていないようだ。
十代少女にありがちな人見知り、程度かも知れない。
しかし俺は気が付いた。
エステルの視線と俺の視線は、まだ一度も合っていない。
彼女の顔は確かに俺を見ているが、その瞳は俺を捉えきれていないように思える。
訝る俺に構わず、ユディートがエステルに素っ気なく教える。
「紹介が遅れちゃったね。そのひとはマノくん。酷い怪我人で、今ハーネマンさんのところから戻ったところ。昨日から白鷺庵にいるんだけど、マイスタさんから聞いてない?」
するとエステルも口に両手をあて、うふふ、と笑った。
いかにも少女っぽい、含みのない笑いだ。
仕草もどこか品があって、不思議な育ちの良さを感じさせる。
「ええ。マイスタさんから聞いています。かなりひどいお怪我だと聞いていますけど……、大丈夫ですか?」
初めてエステルが、俺と目を合わせた。
しかし、静かな笑みを絶やさないエステルに、俺の面相を怖がったりする様子は全く見えない。
「ダ、大丈夫……。アリ、ガトウ……」
あの世からの木枯らしのような俺の声を聞いてさえ、エステルは動じない。
それどころか、たおやかな眉を歪めて、俺を気遣う。
「あっ、凄い声! 本当に、全身酷い怪我なんですね。やけどでもしたんですか? ええと、マノさん、でしたよね?」
エステルの翡翠の瞳に、心配そうな陰が差す。
包帯を巻かれた死体の俺を見ても、感情が動かないとは。
逆に俺の方が、おかしな不安を覚えてくる。
怖じ気付きかけた俺の横に、ユディートがススッと寄ってきた。
その顔には、おかしそうな、それでいてどこか悲しげな表情が浮かぶ。
この女聖騎士は、数歩先に立つエステルを見ながら、そっと聞いた。
「ねえ、エステル。話しちゃってもいい? マノくんに」
何を意図した問いなのか、俺には見当も付かない。
だが、エステルは達観したような、どこか大人びた微笑を口元に留め、こくりとうなずく。
「ええ。わたしは大丈夫。気にしないから……」
エステルの何かを、俺に話そうというのだろうか。
本当にユディートが何か言いかけた時、玄関の扉がコンコンコンと鳴った。
一斉に、皆の顔が玄関へと向く。
だがユディートもエステルも、対応に動こうとはしない。
すぐにもう一度、コンコンコンと扉の外でノッカーが叩かれた。
俺はユディートに眼球を向ける。
「イイ、ノカ……?」
「あれはマイスタさんでもハーネマンさんでもないから、ほっとけばいいよ」
ユディートが涼しい顔でうそぶくと、エステルもうなずく。
「マイスタさんがお留守の時、知らない鳴り方で玄関がノックされたら、無視するように言われていて」
「誰、カラ……?」
「マイスタさんご自身から」
さっきのユディートのノックも独特の鳴らし方だった。
この白鷺庵を出入りする者は、それぞれにノックのやり方を合図のように決めているのだろう。
マイスタは、このエステルという娘を守ろうとしているようだ。
理由は分からないが、やはり娼婦とは違うのだろうか。
そこまで考えた時、また玄関扉のノッカーが鳴らされた。
今度はガツンガツンと力強く二回鳴ったかと思うと、さらにもう一回ガツンと締めた。
この変わった鳴らし方を聞き、ユディートが足早に玄関口へと向かう。
そして彼女が扉を開けた途端、聞き覚えのある老人の声が明るく響いた。
「ああー、お帰り、ユディートちゃん。わしの代わりを押し付けて、済まんかったねー」
いかにも済まなさそうな、明るく人好きのする声。
マイスタだ。
玄関の内側に入ったマイスタに、ユディートがにっこりと笑って答える。
「マイスタさんもお帰りなさい。あたしなら、ちょうどハーネマンさんに会わなきゃいけないところだったから。気にしないで」
「本当、悪かったねえ」
重ねて詫びを入れ、頭を掻くマイスタ。
そんな老人に、エステルがいたわりの笑みを湛え、深く頭を下げた。
「お帰りなさい、マイスタさん。他のお店のお手伝い、お疲れさまでした」
「いやいや、お嬢さまにもご不便をお掛けして、申し訳なかったです」
『お嬢さま』。
マイスタの一言が、俺の耳に引っかかった。
そういえば昨夜も、そんな言葉を聞いた気がする。
やはりこのエステルは、どこか良家の娘だったのだろうか。
それがこんな娼館街に住むとは、何かよほどのことがあったのに違いない。
だが俺の腐った脳の回転は、マイスタの声に止められた。
「それで、お加減はどうじゃね?」
老人マイスタが、俺に顔を向けてきた。
その目には、今朝と変わらない深い気遣いの色が浮かぶ。
「ええと、ああ、そう言えば、まだお名前を聞いておらなんだかー……」
どこか決まり悪そうなマイスタに、口を両手で覆ったエステルがくすりと笑う。
「マノさん、です、マイスタさん」
その瞬間、マイスタの目の奥に陰が走った。
人懐っこい表情それ自体に変化はない。
だがこの老人のまなこに垣間見えたのは、確かに警戒と不審の欠片だ。
しかしマイスタは、何気ない笑顔で俺に問う。
「ところで、あんたはどこから来なさったねー? マノさん」
今の俺には答えられない質問だ。
返せる言葉は一つしかない。
「分カラ、ナイ……」
「思い出せないのよ、マノくんは」
脇から助け船を出してくれたのは、ユディートだった。
彼女は切れ長の左目に真摯な思いを映し、マイスタを見つめる。
「記憶喪失、っていうのかな? その辺のことも合わせて、ハーネマンさんから『診断書』をもらってきたから。ちょっと話せる? マイスタさん」
そうして、俺たちはサロンのソファーに分かれて座った。
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