第二十話 白鷺庵の少女エステル

 発酵し尽した酒粕にも及ばない脳の中に、ついさっきの像がもう一度蘇ってくる。


 異様な白い靄の中に浮かび上がる火の手と、武器を手にいがみ合う男たちの群れ。

 間違いなく、あれは交戦の一場面だと思う。


 しかしそれが俺と、どんな関わりがあるというのだろう? 

 あのパペッタの言う『贖罪』と関係があるとでもいうのか?


 往来の只中に打ち棄てられた案山子のように、俺は突っ立つ。

 どうして俺の脳は、あの識別表に反応したのだろうか? 

 ただ悩むばかりの俺の耳元で、ユディートが囁く。


「キミの記憶には、幾つもの“封印ロック”が掛けられてるみたいね。その封印は、何かの言葉に反応して、順番に解かれていく仕組みになってる。その言葉が何かは、その時にならないと気付けないの」


 なるほど。

 あの時パペッタが言っていた『贖罪の理由は自分で気付け』とは、こういうことか。

 また遥かな話だ。

 だが俺の脳が『マルーグ峠』という言葉に反応したからには、そこでの交戦や、全滅したという軍隊とも関係があるのは、ほぼ間違いない。

 そして全ての封印が解かれたとき、俺は何を目にするのだろう……?

 ぞわぞわとした違和感が、腐肉に包まれた俺の心にまとわりついてくる。

 何か恐ろしい予感しかしない。


 そんな身震いさえ覚える俺の前に、ユディートが立った。

 ほんの少し下にある左目が、俺を静かに見上げている。


「……キミが何をしたのか、それはまだ分からない。でもキミの『贖罪』は、もう始まってるの。キミの苦悩とともに」


 彼女の切れ長の目に、不思議な光が宿る。

 冷たい湧水のように、深い憐れみが滾滾と湧き出る、そんな眼差し。

 あの輪廻の環に還された嬰児を抱いた時と、同じ目だ。


「もし耐えられなくなったら、あたしに言って。あたしが……」


 そこでハッと口を閉じたユディート。

 表情が変わる前に、彼女がくるりと俺に背中を向けた。


「何でもない。忘れて」


 それきり口を閉ざしたユディートが、歩き始めた。

 俺も何も言葉に換えないまま、弓鋸が揺れる聖騎士の後ろ姿を追った。


 だんだんと陽が陰ってきた。

 マイスタの白鷺庵も、近付いてきている。

 同時に、歌声が聞こえてきた。

 白鷺庵からのあの少女の歌だ。

 そのどこのものとも知れない、麗しい歌を聞いて、ユディートが長い沈黙を終えた。


「よかった。元気みたい」


 あれは誰だ? 誰が歌っているのだろう?

 俺の心の疑問が聞こえたのか、ユディートが肩越しに振り向いた。


「あの歌? あれはエステルが歌ってるの。あの子の愉しみだから、花街では誰も邪魔しないのよ」


 再び前を向いたユディートが、ぽつりと言う。


「きれいな声でしょ? みんなの癒しでもあるの」

 

 しんみりとした、悲哀の漂う口調だ。

 しかしそれ以上は何も言わず、ユディートは歩き続ける。


 すぐに俺とユディートは、白鷺庵の玄関先に立った。

 扉の向こうは、沈黙が詰まっているようだ。

 かしましい娼婦たちの声は、もう聞こえない。


 ユディートが扉のノッカーに手を掛けた。

 ココンと素早く二回打ち、一瞬の間を置いてさらに二回コンコンと打つ。

 変わった鳴らし方だ。

 すると、今まで聞こえていた歌声はふっと途切れた。


 そうしてそのまま待つこと三分ばかり。

 きしっと玄関の扉がわずかに開き、か細い声が聞こえてきた。


「ユディートさん……?」


 儚くも硬質で、透明な少女の声だ。


「こんにちは、エステル」


 ユディートがにっこり声を掛けると、大きく開かれた戸口に一人の少女が立った。

 楚々とした雰囲気の、可憐な少女だ。

 年は十六になるかならないか、だろうか。

 ユディートよりも少し年下に見える。

 わずかに波打った栗色の髪に、抜けるように白い肌。

 それに、大きく円らな翡翠の瞳。

 とても愛らしい少女だ。

 だが身に着けた衣装は、丈の長い黒いドレス。

 薄手の生地で、下着にも近い印象が漂う。

 年不相応に扇情的な姿だ、とも言える。 

 この娘も娼婦なのだろうか? 

 それにしては化粧っ気もなく、娼婦という印象はものすごく薄い。


 このエステルと呼ばれた不思議な少女は、何となく寂しさの漂う笑みを浮かべ、ユディートの方を向いている。

 エステルの愛らしい顔を見ながら、ユディートがふふーん、と笑う。

 今度は鷹揚に響く、姉御肌な笑いだ。


「元気そうで安心したよ、エステル。今日もいい声ね」

「ありがとう」


 ちょっとはにかんだ様子で、うつむき加減に礼を返したエステル。

 わずかに頬を染めたエステルを見ながら、ユディートが後ろ手に扉を閉じた。

 周囲が急に暗くなり、天井からの灯りがサロンを濁った赤橙色に照らす。


「マイスタさんは?」

「他のお店に。修繕に呼ばれたみたい。すぐに帰るけど、ユディートさんともう一人誰か来るから、来たら待っててもらって、って」

「そう。あたしもマイスタさんにお話があるから、ちょっとだけ待たせてもらうね」

「どうぞ、上がって下さい」


 そう答えたエステルが、ゆっくりとサロンの奥へと戻ってゆく。

 一歩一歩確かめるような、どこか危なげな足取りだ。


「ありがとう。お邪魔するね」


 ユディートが断りを入れてから、奥へと踏み出す。

 俺もブーツを一歩進もうと足を引き摺った瞬間、エステルがくるりと振り向いた。


「どなた、ですか……?」

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