第十九話 記憶の端緒
いきなり眼球に飛び込んできたものが、俺を激しく当惑させた。
ユディートも同じなのだろう。
怪訝な声で、彼女が呻く。
「何? この
俺とユディートの前に開かれたページには、ほぼ目いっぱいの大きさで真っ赤な×印が描かれている。
そのページに描き込まれた標章と説明を、否定するかのように。
この筆で書いたような太い線の×印を凝視しながら、ユディートがハーネマンに聞く。
「これ、旦那が書いたの?」
「たぶん違うと思うけど……」
ユディートの呆れた目と声に、自信なさげに答えたハーネマン。
その女医は、片手で識別表を支え持ちながら、その赤い×印が占拠したページの下の方を指差した。
彼女の指が示すのは、紙面の真ん中にでかでかと居座る赤い線からは、外れた位置だ。
そこには濃緑の地と山吹色の盾、それに星を三つ持った白い掌が描いてある。
全員の視線が、俺の襟元のメダリオンに集中した。
確かに識別表の標章は、メダリオンと同じもののようだ。
これは一体どういう標章なのか?
ユディートが女医の開いたままの識別表に左目を戻し、が説明書きを読み上げた。
「『ケルヌンノス駐屯山岳猟兵中隊。百名。掲載の標章は、マノ大隊第三中隊所属のとしてのもの。計画実行中の統帥権はマノ大隊長帰属。当中隊は全滅のため、現在は抹消』……? どういう意味?」
ユディートの怪訝な左目が、俺を捉えた。
「それに『マノ』って名前が出てくるけれど、キミの名前って本当に“マノ”だったの? あたしは適当に呼んだつもりだったけれど……」
訳の分からないざわめきが、俺の肋骨を内側から揺さぶってくる。
理解できる記憶とは無縁な、目に見えない何かの陰。
俺はユディートの問いに、首を横に振るしかない。
「分カラ、ナイ……」
「これ、どういう軍隊? 計画って、それに全滅……?」
不可解な面持ちのままのユディートが、紙面に目を戻した。
彼女の視線は、ページの一番上に注がれている。
枠の外側に記されているのは、赤線で消された一行の文章だ。
「『マルーグ城塞陥落計画。峠の会戦で両軍全滅のため、記録抹消』……」
ぼそぼそと読み上げたユディートが、ハーネマンを見上げた。
「ハーネマンさんの旦那、何か言ってなかった?」
「旦那は何も言ってなかった。このページが何なのか、聞いてみたことはあるけど、旦那は答えてくれなかったから。知らないのか、言いたくなかったのか……」
困惑を隠せないハーネマンの言葉を聞いた途端、俺のぐすぐすに腐った脳の内側に、血の色の火花が散った。
何だろう、聞き覚えのある言葉のように思える。
だが、いい予感はしない。
むしろ吐き気を催す異様な臭気が、臓器の奥底からぬるぬると這い上がってくるようだ。
眼球に映る景色が霞み始めた。
意識が何だか遠くなる。
識別表、それにハーネマンの顔もユディートの左目も、俺の視野の中で色を失い、どことも知れない風景に変わり始めた。
燃え盛る炎、殺し合う男たち。
あれは……
そこでぱたん、という軽い音が聞こえ、俺の意識はユディートとハーネマンの前に引き戻された。
その女医ハーネマンが、閉じた識別表を手にしたまま、俺を見つめていた。
眼鏡越しに、彼女の蒼い目が険しい色を湛えている。
瞼も唇もない俺だが、それでも俺の異変に気付いたのだろう。
さすがは医師だ。
「今日はこのくらいにして、少し休んだ方がいいですね、マノさん」
識別表を小脇に抱え、ハーネマンが静かに微笑む。
「識別表が見たいときは、私に言って下さいね。いつでもお見せしますから」
柔らかな物腰とは裏腹に、口調は有無を言わせない硬さを帯びている。
識別表を俺に渡さないのは、恐らく俺に予期しない異変が起きるのを避けるためだろう。
控えめな彼女の言動の裏には、いつも深い意図と気遣いが見え隠れする。
やはりこの花街の娼婦たちを裏から支える存在だというのも、自然とうなずける。
俺はここまでのハーネマンへの感謝を込めて、声を絞り出す。
「色々ト、アリ、ガトウ……」
隙間風のような、ぞっとしない俺の声だが、ハーネマンは動じない笑みで答えてくれる。
少しは慣れてくれたのだろうか。
ちらりと眼球を動かすと、傍らのユディートも珍しく含みのない、正直な笑みを浮かべていた。
ハーネマンが、穏やかな笑顔を俺に向ける。
「マノさんは、当分マイスタさんのところにいますよね? もしそうなら、三日に一回くらい、包帯を換えに行きますね。必要なら、識別表も持っていきますから」
女医がユディートに蒼い目を移す。
その眼差しには、少女への全幅の信頼とともに、芯の強さが窺える。
医師としての使命感に裏打ちされた、仕事人の顔だ。
「それじゃ、マノさんを白鷺庵までお願いね。それと……」
「分かってる。任せて」
ユディートが優しい笑顔で応じる。
ハーネマンの腕にそっと手を添えて、ユディートは気遣わしげに女医を見つめた。
「ハーネマンさんも、いろいろとお疲れさま。今日はもうゆっくり体を休めてね」
「ありがとう。またね。マノさんもお大事に。何かあれば、すぐに知らせて下さいね」
そうして俺とユディートは、女医ハーネマンと今日の別れを告げた。
ハーネマンの診療室を離れ、マイスタの白鷺庵へと向かう俺とユディート。
例によって、俺はつっかえがちな両脚をぎこちなく繰り出し、ブーツを引きずって行く。
ユディートは、そんな俺の愚鈍な歩みにゆっくりと寄り添ってくれる。
細い腰の後ろで両手の指を組み、音を立てずに爪先歩きのユディートは、まるで黒猫だ。
しばらくの間、お互いに無言のままに路地を行く俺たちだったが、ふとユディートが俺に目を向けてきた。
「ねえ、キミ、何か思いだしてきたんじゃない?」
足をずるずると前へ運ぶ俺に、ユディートも止まらないまま、短く問う。
「何が見えたのかな……?」
俺の足が勝手に止まった。
二本の杖のような脚でゆらゆらと立ちながら、俺はわずかにうつむく。
ユディートも、識別表を見た俺の異状に気付いていたようだ。
俺は吐き出した重苦しい瘴気の中に、短い答えを混ぜた。
「
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