第十八話 つかの間のひなたぼっこ
不意に、ふふーん、という甘ったるくも揶揄するような、ユディートの笑いが割って入った。
「屍者くんは飲み食いできないよ。下手に何か食べたら、腐敗が進んで体は余計に崩れるし。それにたぶんどこへ行っても、入店お断りになるんじゃない? 白鷺庵以外はね。その見た目と臭いだもん」
ハーネマンがわざと
全く酷い子だ。
とは思うものの、ユディートの発言は正しい。
ぎちぎちとうなずくしかない俺だった。
そんなうなだれる俺と、にんまりとした笑顔のユディートを見比べて、ハーネマンが柔らかな苦笑を洩らす。
「とりあえず、戻りましょうか」
そうして死の太母の聖廟を出た俺たちは、女医ハーネマンの診療室へと向かった。
太陽がわずかに傾いたのか、降り注ぐ昼下がりの陽光は、幾らか和らいだようだ。
それでも剥き出しの俺の眼球には、かなり堪える。
俺はマントのフードを目深に被り直した。
その時、どこかで鐘の鳴る音が聞こえてきた。
午後三時だろう。
足をひきずって路地を戻る屍者の俺は、道行く人の奇異と嫌悪の眼差しを受ける。
その一方で、傍らに聖騎士と女医の姿を認めると、この花街の人々は安心しきった表情へと変貌する。
こうしてみると、ユディートとハーネマン、それに老人マイスタと出遇えたことはこの上ない幸いだったと、しみじみ思う。
身の安全のことばかりではなく、気持ちの面でも、三人の存在は途方もなく大きいと感じる。
ゆったりと温かく、誰か他人に何もかもを任せられる安堵感。
どこかで感じていた気もするが、もう長いこと忘れていた気分にもなる。
そんなことを腐敗した脳に取り留めもなく思い流し、俺はハーネマンの声で我に還った。
「ここでちょっと待っていてもらえるかしら?」
気が付くと、俺たちはもうハーネマン診療室の前に到着していた。
診療室の玄関扉には、『午後休診』と書かれた小さな札だけが下げられている。
そのせいだろうか、診療室前に人の姿はない。
患者は来ていないのだろう。
周囲に急患のいないことを念入りに確認して、向き直ったハーネマンが俺に詫びる。
「ごめんなさい。すぐに診断書と識別表を持ってくるから、五分だけ、ここで待っていて下さいね、マノさん」
「分カッ、タ……」
即座に承服した俺の横で、ユディートが申し出た。
「あたしも、ここで待ってるね。えっと、マノくんと」
腕組みの聖騎士が、左の横目に俺を流し見る。
自信に溢れた、落ち着き払った眼差しだ。
「あたしがいれば、面倒は起きないから」
「そうしてもらえば助かるわ」
にっこりと笑ったハーネマン。
こういう時のユディートは、誰の目にもやけに頼もしく映るから不思議だ。
「すぐに戻るから、ごめんなさいね」
短く言い残し、女医ハーネマンは自分の診療室の中へと消えた。
俺とユディートは、二人して路地に佇む。
すぐに彼女は扉の横の壁に腕組みでもたれかかり、軽く目を伏せた。
低く何か歌を口ずさむその勇姿は、まさに余裕に満ちた腕自慢の用心棒だ。
斜陽の気配を漂わす陽光を浴びる、聖騎士ユディート。
黒髪が艶やかに陽光を照り返し、陽炎が彼女の体に揺らめく。
実に気持ちが良さそうだ。
だが腐った死体の俺は、そうはいかない。
下手に陽の光を浴び続ければ、俺の体は見る間に劣化して、崩れ去ってしまうだろう。
――ひなたぼっこ――
他愛もない言葉が、俺から遥か遠くへ行ってしまった。
もう一度、元の生きた体で思いっきり日光を浴びたい。
しんみりとした気分になった時、診療室の扉が開き、女医ハーネマンが再び姿を現わした。
本当に五分程度の待ち時間。
つかの間のひなたぼっこは、瞬く間に終わってしまった。
「お待たせ。ごめんなさいね」
申し訳なさそうな女医の詫びを聞き、ユディートが壁から離れた。
「気にしないで。ちょっとゆっくりできちゃったから」
またちろっと舌を出して、ユディートがへへっと笑う。
ハーネマンもふふっと笑って答えると、小脇に抱えた薄い物を俺たちに差し出した。
「これが診断書と『識別表』よ」
ハーネマンが両手で持っているのは、厚紙の表紙に綴じられた大きい薄手の本と、その上に載せられた白い封書だ。
封筒には、几帳面な共通文字で『診断書』と書いてある。
ユディートが封筒に白く滑らかな手を延ばした。
「診断書、あたしがマイスタさんに渡しておくね」
俺も余計な異議は挟まずに、彼女に任せる。
眼鏡を理知的に光らせるハーネマンも、深くうなずいた。
「そうね。その方がいいかも。あなたからもちょっと言い添えて。お願いね」
「任せて」
屈託なく、十代少女の笑顔でにっこりと応えたユディート。
彼女がスッと封筒を持ち去ると、ハーネマンがその手に残った薄い本を、俺たちの前に開いて見せた。
「それで、この本が識別表」
俺とユディートは、顔を並べるようにして、女医が両手で支える本を注視する。
ほんのりとセピア色に染まったページには、紙面を六段ばかりに分ける横線が引かれている。
その列のそれぞれに書かれているのは、標章と簡潔な説明文だ。
それぞれの標章は丁寧に着色されていて、似たような意匠の標章でも正しく判別できる。
ハーネマンは、自分で支えた本を上から覗きつつ、俺とユディートにぱらぱらとページをめくって見せる。
そして十数ページ目で、女医が手を止めた。
「このページなんだけど」
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