第十七話 仮初の名前

 女医ハーネマンの質問を受けた瞬間、俺の腐敗した脳が激しく疼いた。

 眼球を剥いて、俺は頭を抱える。


 ――俺の身元が分かるもの――


 そもそもが俺は無一物でパペッタの前に牽き出され、山中の墓場に打ち棄てられた死体だ。

 この体それ自体が他人の死体で、おまけに装備は俺を襲った辻強盗から奪った物ばかり。

 俺の物など何一つない。


 だが一つだけ、俺が最初から持っている、いや持たされているものがある。

 俺はかすれ声を絞り出す。


「餞、別。マン、ト……」

「マント? 今、あなたが羽織ってる?」


 顔を見合わせたハーネマンとユディートが俺の前に身を屈めた。

 横に並んだ彼女たちの視線は、俺の胸元辺りを注視している。


「メダリオン? これ……、マントの留め具? 屍者くんの?」

「ちょっとごめんなさい」


 一言断りを入れたハーネマンが、俺のマントの襟元から、ピンで留められたメダルを取り外す。

 彼女が掌に載せた円い留め具。

 まともにこれを見るのは、俺も初めてだ。

 パペッタと鬼火たちが俺にくれた餞別だが、確かめる前に『贖罪の旅』へと放り出されてしまった。

 今の今まで、首に着けていたことさえ、きれいさっぱり忘れていたほどだ。

 

 俺はハーネマン、ユディートと一緒に、女医の手の中のメダリオンを注視する。

 ハーネマンの右手で光るのは、てらてらとした照り返しを見せる、円い七宝のメダル。

 濃緑の地に山吹色の盾模様。

 その盾に刻まれているのは、白い掌だ。

 文様化したその手には小さな五芒星が三つ書いてある。


「これは魔法陣でも聖印でもないね。何かの紋章? 旗印?」


 ユディートが素っ気なくつぶやいた横で、ハーネマンが眉根を寄せた。


「この紋章、どこかで見た気がするけれど……」

「えっ? 本当?」


 ユディートの見開かれた左目と、俺の眼球が女医に集中する。


「ドコ、デ、見タ……?」


 俺も、問わずにはいられない。

 俺とユディートの前で、ハーネマンは小さく唸りながら、じっと考え込む。

 二つの視線を受けながら、女医がおもむろに顔を上げた。


「これ、旦那が持ってた『識別表』に似たものがあった気がする」


 ぴくりと反応した、ユディートと俺。


「あれ? ハーネマンさんの『旦那』って、今どこで何してるんだっけ?」


 まず気になったのは、やっぱりそこか。

 俺と同じだ。

 しかし余り関心なさそうにユディートが聞くと、ハーネマンはふふっと柔らかく笑った。


「さあ……、どうだったかしら?」


 だがその響きと伏しがちな目には、どこか自嘲的な雰囲気が漂う。


「まだ生きていれば、国軍の軍医をしてると思うけれど」


 曖昧な笑みを浮かべた女医ハーネマン。

 寂しそうにも見えるが、どこか諦念めいた面差しだ。


 ……人妻だったのか。

 何かの理由で、軍医だという夫とは別居状態なのだろう。

 何となくもやっとするのと同時に、朽ちて止まったはずの心臓がむずむずする、ように錯覚した俺だった。

 ほとんど無意味な胸のざわめきを、俺は密かに自分で嗤う。


 すぐ脇のユディートが、無頓着に質問を続けた。


「『識別表』って何? あたしも初めて聞く」

「識別表っていうのは、国軍の部隊ごとの標章を集めた図録なの。前に旦那が来たとき、診療室に忘れていったのよ」


 ハーネマンの形のいい眉が、きゅっと顰められる


「あの本がないと、担ぎ込まれた負傷兵がどの部隊のひとなのか、分からないのに。あのひと、ちゃんとお仕事できてるのかしら」


 苦笑めいた息を洩らして、ハーネマンが手の中のメダリオンを取り直した。

 その七宝の留め具を眼鏡に映しながら、俺のマントに付け直す。


「識別表はわたしの診療室にあるから」


 ハーネマンが後片づけを始めた。

 汚らしくべたついた辻強盗の覆面、それにユディートの食べ残した林檎の芯まで、持参した薄手の麻袋に詰め込むと、厳重に口を縛ってカバンに押し込んだ。

 それに自分の手袋と、顔を覆った布も外して同じカバンにしまい込む。


「それじゃ、診療室へ戻って診断書と識別表の準備をするわね。あなたたちも一緒に来る? ユディートさんと、ええと……」


 ゆっくりと腰を上げたハーネマンの顔に、困惑の色が浮かんだ。

 たぶん、俺を何と呼ぼうか迷っているのだろう。

 彼女を追うように立ち上がったユディートが、淡々と口を挟む。


「“マノ”とでも呼んでおけば? 屍者くんの標章は、”手”みたいだし」

「そうねえ……」


 提案された女医が、頬に片手をあてて考え込む。


「確かに『マノ』は、ルカニア方言では“手”の意味だし、識別表にもそんな言葉が出ていた気がするから……」


 ハーネマンが俺を見て、静かに微笑む。

 陰をまとわせつつも、懐の深い、安心させられる微笑。

 同じ笑顔でも、誰かとは大違いだ。

 と、考えた瞬間、辺りに濃厚な殺気が漂った。

 もちろん、その殺意は俺に向いている。

 殺気の主が視界に入らないように、俺は微妙に頸椎を傾ける。


 そんな俺に、改めて女医ハーネマンが聞く。


「それじゃ、マノさん。あなたも私と一緒に来ますか?」


 俺には断る理由がない。


「行ク……」

「儀式は終わったし、あたしも行くね。屍者くん、まあ一応マノくん、と呼んでおこうかな」


 ころっと態度が軟化した、聖騎士ユディート。

 彼女は屈託のない笑顔を俺に見せつける。


「後で白鷺庵まで送るから。あっちの様子も見ておかないと……」

「それじゃ、私の診療室まで一緒に戻りましょう、マノさん」


 お医者カバンのがま口をぱちんと閉じて、ハーネマンが肩にそのカバンを下げ直した。


「ついでにどこかでお茶でも、と言いたいけれど……」


 そこで口を濁した女医。

 眼鏡の奥で、蒼い瞳に灰色の陰が被さってくる。

 彼女の言わなかったことが何となく伝わってきて、俺は胸郭の内側へ密かに苦笑を洩らした。

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