第十三話 ハーネマン再び

 辟易し切った俺は、座り込んだまま白い床に目玉を逃がす。

 その途端に、目の前で胡坐の少女、聖騎士ユディートから怒りの声が飛ぶ。


「ほらそこ、よそ見しない! ちゃんと真面目に聞く!」


 そして俺はびくんと顔を上げ、不機嫌なユディートへと視線を戻す。


 ユディートが延々と続くお説教を始めて、三時間あまり。

 うんざりした俺がうつむくたびに、彼女は俺に鋭く突っ込む。

 そんなやり取りを、俺とユディートはもう幾度となく繰り返している。


 ……よく飽きないものだ。


 生に対する死の優越、それにこの世の男の身勝手さについて、何時間も似たような話を聞かされ、同じやり取りをもう十数回も繰り返した俺。

 俺の方はもう呆れたを通り越して忍耐の限界だが、ユディートの方は全く集中が途切れない。

 

 そう言えば、“精人アールヴ”という人種は、我々人間ホムスとは比較にならない長命を誇るそうだ。

 だから精人たちは、何かに「飽きる」とか「くたびれる」とかう感覚がないらしい。

 そんなユディートに逆らったところで、どうにもならないだろう。


 俺の乾きかけた眼球が下を向き、ユディートの左目が睨むような半眼になったとき、どこかで重厚な鐘が鳴り響くのが聞こえてきた。

 恐らく正午の鐘だ。

 

 もうあと少し辛抱すれば、女医ハーネマンがここへ現れるはず。

 そうなれば、このユディートのお説教だかご教説だかからも、解放されるだろう。


 そう考えた次の瞬間には、ユディートの不機嫌な言葉が容赦なく俺の耳に突き刺さった。


「ねえキミ、もしかしてあたしの話がもう終わると思ってたりする……?」


 低く抑えた声で、念を押してきたユディート。

 とんでもない勘の鋭さ。

 冴え冴えとした上目遣いの左目が、恐ろしくも蠱惑的だ。


「ちょっとキミ聞きなさい! 生命の女神ヴィータ死の女神モリオールの密約がまだ……」

 

 苛立たしげなユディートの言葉も終わらないうちに、開け放たれたままになっていた聖廟の出入口から女の声が聞こえてきた。

 聞き覚えのある、しっとりとした声だ。


「ユディートさん、いるかしら?」

「あっ、待ってたよ!」


 弾んだ声を聖廟の壁に反響させて、ユディートが跳ねるように立ち上がった。


 彼女の左目が見つめる先には、戸口に立つ女の姿がある。

 純白のローブの上から、臙脂色の外套を羽織った、年増の眼鏡美人。

 結い上げた赤っぽい髪に、外套と色を合わせたベレー帽を乗せている。

 身なりには気を使っているようだ。


「早かったね、ハーネマンさん」


 ユディートが、戸口に立つハーネマンへと歩み寄ってゆく。


 鴨居の下で静かに微笑む女医ハーネマン。

 左の肩から下げた大きな黒革のカバンが、まさに彼女の職能を物語る。

 その落ち着きつつ、どこか隠しきれない陰のある佇まいは、憂いを帯びた女神を思わせる。

 まさに俺を拷問から救済してくれる救い主だ。


 そんな思いが俺の頭に浮かんだ瞬間、ユディートの左目が俺を肩越しにじろりと睨む。

 思わず頸椎と脊椎とをぐきぐき鳴らし、仰け反った俺だった。


 ユディートには俺の考えが聞こえるのだろうか?

 恐るべき勘の鋭さだ。


 しかしすぐに俺から目を逸らし、彼女がハーネマンの腕にそっと手を添えた。


「診療室の方は大丈夫? 患者さん、いたんじゃない?」


 するとハーネマンが、ふふっと柔らかに笑った。


「急患のひとはいないから大丈夫。午後からユディートさんの神殿に行くって言ったら、みなさん納得してくれたから」


 そう言って、ハーネマンがカバンのがま口をパチンと開いた。

 立ったままの女医が中から取り出したのは、薄茶色の紙に包まれた丸いもの。

 鼻を転がすような甘い匂いが、ふんわりと漂ってくる。

 紙包みをユディートに差し出すハーネマンの微笑に、ふと陰が差した。


「今日のお母さんから。ユディートさんへのお礼だって」

「そんなの気にしなくていいのに。あたしの役目なんだから……」


 ユディートの顔が、切なげに綻ぶ。

 黒い目をわずかに細めて、彼女が受け取った紙包みを開いた。

 中から出てきたのは、赤い林檎だ。

 磨かれていない林檎は、どこか靄った風合いを見せている。

 しかし手を加えていないその素朴さが、却ってその林檎を贈る気持ちの純粋さを伝えてくる。


「あたしの好物なんだよね、林檎。みんな知っててくれて……」

「ユディートさんは、母になれなかったひとたちの心の支えだから。産めなかった子が、いつかもう一度、この世に戻って来られるって」

 

 しんみりとした言葉の空隙が、聖廟を覆う。

 俺も胸郭の中に重苦しい閊えができたような気がして、うなだれかけた。

 

 だがすぐにハーネマンの気丈な声が響いた。


「それで、あのひとの様子は?」

「ああ、屍者くんね」


 しゃりっと爽やかな音を立てて、ユディートが林檎にかじりつく。


「そこにいるよ」


 しゃりしゃりと林檎を頬張るユディートの左目が、にんまりと細められる。

 まるでネズミをいたぶる猫のような、嗜虐的な眼差しだ。

 ユディートの意味ありげながら、何か意図不明な悪意を秘めた笑みは、神経の死んだ俺の体をぞわぞわと怖気づかせる。

 やっぱり得体の知れない少女だ。


「しっかり診てあげて、ハーネマンさん。それでこれからどうするか、ハーネマンさんとも相談して決めたいから」


 そううそぶくユディートの横で、ハーネマンも俺を見ている。

 女医は女医で、真剣そのものの眼差しを俺に注ぐ。


「分かったわ。このひと、かなり特殊な状態のようだから、医師の私に分かることは少ないかも知れないけれど、かなり興味深いのは確かね……」


 カバンの中から薄い手袋を取り出しながら、女医ハーネマンが座ったままの俺の方へと寄ってくる。


「さ、楽にして下さいね……」

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