第十二話 召天せる嬰児
聖騎士ユディートが
昨日の白鷺庵から聞こえてきた歌声を思い出す。
ユディートの歌うように紡がれる言葉も、俺には理解できない。
だがその子守歌にも似た哀愁漂う詠唱は、瘴気の溜まった俺の胸をぐうっと締め付ける。
だんだんと、ユディートの全身に夜色の靄がまとわりついてきた。
ぱりぱりと毛羽立つ音がして、蛇のような昏い紫電が、曲線美を誇る彼女の体に幾筋も絡み付く。
同時に、床の聖印がぐるぐると回り始めた。
轟轟という風の猛りが、聖廟の中に響き渡る。
天窓から差す光も、目映さを不自然に増してくる。
光に吸い上げられるように、布の包みが猛然と回転する聖印からゆっくりと浮き上がった。
自分の目を疑い、目玉を剥くばかりの俺の前で、女医ハーネマンから託されたガラガラも、一緒に宙へと持ち上がってゆく。
布の包みが緩み、中から小さな光の玉が現れた。
完全な純白の、無垢な光の塊。
今の俺なら分かる。
あれは、あの光は生まれたばかり、いや、この世に生を享けられなかった魂だ。
光の中から、何か聞こえてくる。
笑う声だ。
どこまでも無邪気で透明で、罪のない嬰児の声。
感覚のないはずの俺の胸に、何かがぐうっと衝き上げてくる。
俺の腐った体が、じんじんと打ち震えているのが分かる。
感動、憐れみ、驚嘆。
何とも言いようのない、長いこと忘れていた複雑な感情が、俺の体を鷲掴みに捕らえた。
体を強張らせ、茫然と突っ立つばかりの俺の視界が、水が張ったように揺らめいてくる。
どうしようもない切なさに、胸が潰れる。
天窓から差す光の中に、何かの形が浮かび上がってきた。
女性の手だ。
ぼんやりとした大きな二つのしなやかな手が、光の玉へと差し伸べられてゆく。
そして、その両手が光の玉をそっと受け止めた瞬間、この聖廟の内側は真っ白な光輝に祖洗い晒された。
圧倒的な質量と光量が瞼のない俺の目を灼き、俺は仮初の盲目へと換えられる。
俺が明るい闇から解放されたときには、もう聖印の中には何も残ってはいなかった。
聖廟は、不思議なできごとがまるで夢だったかのように、もとの静けさを取り戻している。
そのしじまの中に、両手を下ろしたユディートの低い声が響いた。
「……“イテ、リトゥス、エスト”」
その意味の分からない言葉を最後に、沈黙したユディート。
深く静かな呼吸を繰り返し、華奢な両肩をゆっくりと上下させる彼女へ、俺は問いを投げてみる。
「何、ヲ、シタ……?」
ユディートが、おもむろに振り返る。
「あの子の魂を、ひいひいひい……おばあさまに託したの」
答えた彼女の横顔が、複雑な表情を湛えている。
ほのかな笑みの浮かぶ口元に、哀しさと憤りの渦巻く左の瞳。
「愛のない営みから宿った命、望まれず生を享けられなかった魂を、もう一度輪廻の環の中に返してあげること。それも、あたしたち死の女神に仕える祭司の役目、だから」
天井を見上げたまま、ユディートが目を伏せた。
「ここは娼館街。愛のない営みの結果、身ごもってしまう娼婦も少なくない。そういう娼婦の中には、どうしても産むことが許されないひと、産むことが危険なひと、それに産んでも育てることができないひとがいる」
この女聖騎士の目許に、涙が光ったように思えた。
「どうしても堕ろさなければならないとき、そういう“処置”を独りで引き受けちゃってるのが、あのハーネマンさんなの。女のひとの気持ちも体も、女のひとでないと本当の意味で理解できない。だからこの娼館街の医者は、女医さんなのよ。あのひとも、この娼館街になくてはならない、大切なひとなんだから」
――堕胎医――
後ろ指をさされ、心無い陰口の対象となる、後ろ暗い裏仕事の医師だ。
そんなものに手を染めざるを得なかった女医の想いが、俺には本当の意味で理解できないしても、どこか痛々しく感じられる。
ユディートが、憂いに満ちた吐息をついた。
「さっきハーネマンさんの診療室の扉に、百合の花輪が掛かっていたの、キミも見たでしょ?」
「見、タ……」
「あれはね、ハーネマンさんの“処置”があって、輪廻の環に返さないといけない魂がいるっていう、あたしへの合図なの」
聖騎士ユディートが、俺を正視した。
「だからあたしは、ハーネマンさんの診療室に百合の花輪が掛かっていないか、毎晩確かめに行くのよ。昨夜もハーネマンさんの花輪を見た後で、白鷺庵に様子を聞きに行ったときに、キミとマイスタさんに出会ったの。話はできなかったけど、歌が聞こえてたから安心した」
彼女の俺を見る目が、細くなる。
酷薄な冷たい光が宿り、腐って感覚などないはずの俺の体が凍り付く。
「ねえ、キミも娼館で女の人を買ったこと、あったりするのかな……?」
ものすごい迫力だ。
返答次第では、この場で解体されてしまいそうな、圧倒的な威圧感。
さすが聖騎士だ。
だが元々の記憶が欠落している俺だ。
本当のことも言えなければ、嘘もつけない。
今ここで俺が答えられるのは、一言だけだ。
「分カラ、ナイ……」
「ふーん……」
何か馬鹿にしたような相槌を入れたユディート。
凍った剃刀の左目から、少し厳しさが薄れたようだ。
それでも非難がましい眼差しを俺に送りつつ、文句をぶつけてくる。
「でも大体ね、“シたらデキる”の! 分かるでしょ!? “ツクるためにスる”んだから! そんな単純な真理も忘れるなんて、人類もどうかしちゃってるのよ! キミ、分かってる?」
立ったまま、ユディートが不快感も露わに腕組みした。
そのまま前屈みに身を乗り出すようにして、俺を凝視する。
「地上の人類は、体も事情も抱えてるから、それ自体は否定しないけど。だから本当は、人類は地上に生まれてこない方が幸せなのよ。大昔、ひいひいひい……おばあさまたちが考えたように」
ユディートの左目が、またもや細くなってくる。
「男っていうのが“出せば落ち着く”生き物なのは、理解してあげるけど。でも誰彼構わず出したら終わり、っていうその姿勢が、全人類共通に無責任過ぎるのよ! もっと考えて欲しいわね、男って生き物は!」
そこでユディートが、俺に向かって憤然と床を指さした。
「キミ、ちょっとそこ座って! ハーネマンさんがここに来るまで、しっかりと教え諭してあげる。 ひいひいひい……おばあさまの名において」
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