第十四話 診断
座り込んだ俺の前に、女医ハーネマンがゆっくりと両膝を着く。
わずかに眦(まなじり)の下がった蒼い目が、眼鏡越しに俺を注視している。
その視線には、一切の感情がない。
仕事に徹する、いわば職人の眼差しだ。
繊細な両手に手袋をはめ、鼻から下を白い布に覆ってから、ハーネマンが目深に被ったフードへと手を延ばす。
そっとフードをめくりあげ、後頭部へと脱がし遣った女医。
俺が無造作に巻いた顔の布をそっと剥がしてゆく。
膿んだ皮膚に貼り付いた布が、ぺりぺりと音を立てる。
程なく、瞼も鼻も唇も欠け落ちた俺の死人の顔が白日に晒された。
しかし女医ハーネマンは落ち着いたものだ。
眉ひとつ動かさない。
彼女の後ろから俺を眺めるユディートに至っては、薄気味悪い微笑で林檎を齧り続けている。
よく食欲を失わないものだ。
どういう神経をしているのだろうか?
途端に、林檎に白い歯を立てたまま、じろりと俺を睨んだユディート。
俺は慌てて眼球を床に逃がす。
そんな俺の顔に、ハーネマンがそっと手を触れた。
眼窩の周り、鼻孔の上下左右、それに頬と顎。
いわゆる触診というやつだろう。
俺の首の左右を揉むように確かめて、女医が俺の左の手首を両手で取った。
目を伏せて、じっと何かに聞き入っていた風なハーネマンが、ふっと小さく息をついた。
「……ないわ」
「やっぱり?」
細い糸巻状にまで林檎を齧り尽したユディートが、ふふーんと甘ったるく笑う。
床に膝立ちのハーネマンと立ったままのユディートが、顔を見合わせている。
不審げで困惑の女医と、妙に楽しそうな聖騎士。
二人を見比べながら、俺は問いを吐き出す。
「何、ガ、ナイ……?」
「あっ!? しゃべった!?」
さすがに驚きの声を上げたハーネマンに、ユディートがにんまりと笑って言う。
「そう、この屍者くん、しゃべれるの。それだけじゃなくて、思考力を残してる」
いきなり真顔に戻ったユディートが、膝を屈めて俺の顔を注視した。
「ねえ、ハーネマンさんはどう思う? 診立てはどんな感じ……?」
「うーん、そうね……」
冷静さを取り戻したハーネマンも、俺をじっと見ながら、真摯な口調でユディートに答える。
「脈なんか、なくて当然ね。私の検死の経験では、やっぱり死後一か月半程度。まだ原形は保っているけれど、あと一か月もすれば、股関節と上腕の関節は外れてしまうかも」
淡々と俺の死に具合を語る女医ハーネマン。
「年齢は三十歳程度の男性。
ハーネマンが俺のマントをめくり、汚らしくべたついた胸に右の掌をあてた。
「心機能は停止中。肺機能も失われてる。でも話せるから、一応横隔膜の機能は残ってるみたい。それでも生体機能はほとんどなくなってるから、”死体”とみなして間違いないわ。外傷はなさそうだから、死因は病死、窒息死または中毒死。でも……」
ハーネマンの眼鏡の奥で、蒼い瞳に困惑の影が広がってくる。
「このひとの眼球は、きちんと機能していて、死んでないの。これは死人の目じゃない。これ以上は医術の領分を超えるから、私に分かるのはここまで。ここから先は、ユディートさんたち“
「そうだよね。うん、そう思う」
ここまで黙っていたユディートが、小さくうなずいた。
左の目を細め、ユディートが俺を手招きする。
「さあ、立ってもらえる? 屍者くん……」
もちろん選択肢はない。
俺は肋骨の内側に、ため息の雰囲気を溜め込んだ。
座っているうちに固まりかけた関節をぽきぽきと伸ばし、俺はぎこちなく立ち上がる。
その俺の正面に、ユディートが立った。
不敵で曖昧な笑みを浮かべ、この聖騎士の少女は俺を見つめる。
左目が細くなり、口角が上がってきた。
ユディートのにんまりとした薄笑い。
ここまで笑顔が怖く思える少女も、そうそういないだろう。
と思いかけて、俺は慌てて思考を閉じる。
へへっと声を洩らしたユディートが、芯だけの林檎を横向きに咥えた。
そんな状態のまま、彼女は両手の人差し指と親指で矩形を形作ると、そのアングルの中に俺の顔を捉える。
ユディートが指で作った四角形越しに見える左目が、大きく見開かれた。
そして林檎を加えたままの唇で、何かふにゃふにゃと詠唱を始めたユディート。
こんないい加減なことでいいのか、と疑う俺の目の前で、彼女が指で作った矩形の中に、薄桃色の光の膜が張った。
同時に、その手を横からのぞき込んでいたハーネマンが、あっと小さな声を上げた。
ユディートの左目が、細くほくそ笑む。
「やっふぁりね」
俺の体に何の変化もないところを見ると、何かの術を掛けた訳ではないようだ。
女医ハーネマンも、ユディートの指のアングルを凝視している。
その魔術の薄い膜を通して、何かが見えているのだろう。
「何、ガ、見エ、ル……?」
俺が聞くと、ユディートが指の四角を保ち、林檎の芯を咥えたままで俺に答える。
「“銀の緒(ひルわー・コーろ)”。魂ろ体をむふぶ紐が、ひミの体から外へ延びへる」
……俺に瞼があれば、俺の視線も半眼になっているところだ。
こんな子の行使した術が、きちんと効果を顕わすとは。
ユディートの能力はよほど高いのだろうか。
さすがに見かねたのか、ハーネマンが苦笑交じりにユディートの口から林檎の芯を取り上げた。
「このひとの頭から、どこかへ銀色の糸が延びてるのは私にも見えたけれど、それはどういうことなの?」
「それはね、屍者くんの魂と元々の体が 、まだつながっているってことなの」
ユディートの左目が細くなり、漆黒の瞳に蒼い光が宿る。
笑うのかと思いきや、至極真面目な表情になったユディート。
その彼女が、ゆっくりと告げる。
「屍者くん。キミはね、やっぱり本当の意味で、まだ死んでいないの」
ユディートの口元が、ふっくらと不気味に綻んだ。
「ここでもう一度、あたしの最初の質問。キミを創ったのは、どこの誰? 何のために、キミを屍者にしたの? それに、本当のキミは誰なのかな……?」
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