第十話 女医ハーネマン
ふふっ、という穏やかで柔らかな風のような笑いが、優しくユディートに吹き寄せた。
俺は声の主へと目玉を向けてみる。
ユディートと俺がたどり着いたのは、路地に立ち並ぶ建物の一つだ。
石と漆喰、それに木材で組まれた正面玄関。
軒を連ねる屋並みの中でも、佇まいもとりわけ小ぢんまりとして映る。
褐色の玄関扉には、『ハーネマン診療室』と共通文字が刻まれたプレートが見える。
そのブロンズ色の看板の下に飾られているのは、白百合のリースだ。
新鮮な切り花らしく、楚々とした風合いと清々しい香気が、死体の俺には眩しすぎる。
そしてその扉の前に立つのは、一人の女性。
ちょっと年増で、しっとりとした雰囲気がある。
だが眼鏡の奥の蒼い目にはどこか翳りが窺うが、芯はしなやかで強そうだ。
柔らかそうな布包みを胸に抱くその女性が、深いため息をつく。
途方もなく重苦しい吐息だが、どこか自嘲的で、諦めにも似た響きを帯びている。
「ユディートさんには、今日も辛いお役目を押し付けてしまって、本当にごめんなさい……」
眼鏡越しに、女性の目許に薄く涙が滲むのが分かった。
うなだれた女性の肩に、そっと手を添えたユディート。
哀しげに微笑む彼女の左目にも、深い陰と憤りに近い熱が籠ってくる。
「あたしは平気。それがあたしたちの役目だもん。本当に辛いのは、全部かぶって手を汚してる、ハーネマンさんの方。あたしたちは分かってるから……」
「ありがとう、ユディートさん」
涙ぐんだ女性は、気丈な笑みを浮かべてわずかにうなずいた。
この眼鏡の女性が、マイスタも言っていた『ハーネマン医師』のようだ。
聞いた名前から、男だとばかり思っていた俺には、かなりの驚きだった。
うなだれた女医ハーネマンに、ユディートが静かな仕草で両手を差し伸べた。
「あとはあたしに任せて。さあ、こっちに……」
「お願いね、ユディートさん」
腕の中の布の包みを、ハーネマンが慎重にユディートへと引き渡す。
両腕で布包みを受け止めて、ユディートが潤んだ左の瞳を注いだ。
「もう大丈夫。一緒に帰ろうね……」
密やかに、腕の中の包みに語り掛けたユディート。
その面差しは息を呑むほど清廉で、例えようもないほど美しい。
切れ長の目に宿る、慈愛に満ちた眼差し。
愁いを漂わせる柔らかな唇。
俺の内に積み上げられた彼女の印象は、今まさに音を立てて崩れ去った思いだ。
”樹海の佳人”と謳われる
生きた心と腐った体が切り分けられたかのような、奇妙な気分に襲われた。
もし俺の心臓が動いていたら、間違いなく早鐘を打つだろう。
そして彼女さえ望むなら、この心臓を捧げてもいい、そう思えたことだろう。
女神そのもののようなユディートを前に、ハーネマンがローブのポケットへ手を突っ込んだ。
「ああ、これを……」
言いながら取り出したものを、ハーネマンがユディートの胸の布の上にそっと乗せた。
俺が目を向けてみると、それは木製の小さなトウモロコシだった。
いくつも穴が開いていて、どうやら赤ん坊に持たせるガラガラのようだ。
よくよく見てみれば、ユディートが抱く布は、真新しい産着のように思える。
「うん。ちゃんと持たせてあげるね。ありがとう」
ユディートがこくりとうなずいた。
少女の答えを聞き、女医ハーネマンもわずかにうなずき返す。
同時に、ハーネマンの重苦しい表情が、少しだけ和らいだように映る。
そんな女医が、ユディートに聞いた。
「それで、エステルさんの様子はどう? 私では大して役には立てないけれど……」
「昨日と今日は、あたしも会えてなくて。でもマイスタさんの様子だと、特に変わったことはなさそうだった。マイスタさん、昨日からこの人の面倒を……」
ユディートの左目と、ハーネマンの眼鏡越しの視線が、同時に俺に注がれる。
途端に、ハーネマンが眉をひそめた。
円い眼鏡を鼻先に下した女医が、上目づかいの裸眼で俺の顔を凝視した。
「死後一か月と半……? いえ、そうじゃない。もしかして、死んでない……?」
思いがけない女医の言葉。
そのハーネマンが眼鏡をずらしたまま、顔を見合わせた俺とユディートを見比べる。
「動く死体を連れてるユディートさんは初めてじゃないけれど、こんなのは……」
ハーネマンが両目を寄せて、俺の顔をまじまじと観察している。
さすが、俺を検分する女医ハーネマンに、俺を怖がったり気味悪がったりする様子は、欠片もない。
死体を見慣れているということだろう。
だがハーネマンがすぐに眼鏡を掛けなおした。
「ああ、もう開院時間だわ。でもここまで不潔なものは、ちょっと私の診療室には入れられないわね……」
厳しいお言葉だが、まあ無理もない。
俺は無理に呼気を吐かず、肋骨の内側に苦笑を溜め込んだ。
そんな俺をよそに、ハーネマンがユディートに眼鏡の奥から視線を注ぐ。
「今日は午後から休診日にしてあるの。後で聖廟に行くから、お話はその時に」
「うん。儀式はきちんと済ませておくから、安心して」
「ありがとう、ユディートさん」
心からほっとした表情を見せ、ハーネマンが扉にかけられた白百合の花輪を丁重に取り外した。
刹那、ため息を洩らした女医の面差しに、深い陰が被さってくる。
「しばらくこれは見たくないわ……」
だがすぐに顔を上げたハーネマンが、作った笑顔をユディートに向けた。
「でも来てくれてありがとう。また花輪を見たら、ここへ来てね」
寂しげな笑みを浮かべ、ユディートがこくんとうなずく。
続けて女医が、俺に視線を移した。
「そのひとのことも、午後に診るから。じゃあ後で、聖廟でね」
そう告げて、花輪を持ったハーネマンは診療室の中へと消えていった。
同時に、時を告げる重厚な鐘の音が、このルディアの街中に響き渡った。
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