第八話 少女ユディート
溢れる陽光を背に、玄関口に立つのは、短髪の少女だ。
丸みを帯びた顎の線が愛らしく、朝の光を照り返す黒髪の艶が美しい。
色白の痩身をぴっちりとした黒い衣装に包み、右目を長い前髪に隠している。
右肩に見えている棒状のものは、背中の得物の柄だろう。
……そうだ、ユディート。
昨日偶然に出くわした、あの
“
無邪気風な十代少女の笑みが、どこか空恐ろしい。
しかしその表情のどこかに、何かちぐはぐな哀しみが漂う気がする。
「ハーネマンさんのところなら、あたしもちょうど用事があるから。マイスタさんは、みんなのお話をゆっくり聞いてあげて」
ユディートの言葉を聞き、娼婦たちの殺気立った怒り顔が、瞬時に喜びの表情へと塗り替えられた。
「嬉しいわぁ、ユディートちゃん! さすが、分かってるぅ!」
「マイスタさんとのおしゃべりは、ここのみんなには大事な時間だもん。あとはあたしに任せて」
このユディートという異人の少女も、娼婦たちの間ではかなりの信頼感があるようだ。
だがマイスタ自身は、困惑の表情を崩さない。
「でもわしは、このお人に約束したのだからねえー……」
さすが、マイスタは義理堅い。
しかし、ここで本当にマイスタを連れ出してしまえば、俺もマイスタも立場が危くなるだろう。
とりあえず、この白鷺庵から一度出た方がいい、という判断に、間違いはないと思う。
独りで出てしまえば、そのままどこかに隠れてしまうこともできるだろうが、ユディートが一緒では、そうはいかない。
彼女の申し出には何か作為を感じるが、他に手はないようだ。
俺はもう一度、首をぐいぐいと横に振る。
「大丈夫、ダ。アリ、ガトウ……」
ちらりと目玉を戸口に向けてみると、ユディートも驚いたように左目を丸くしている。
他愛もない俺の言葉が、ユディートには何か引っかかったようだ。
つい首をひねった俺の耳に、マイスタの安堵に満ちた息づかいが聞こえてきた。
「すまないねえ……」
ゆらりと向き直った俺、それに戸口のユディートを交互に見るマイスタ。
彼の老成した顔に、感謝と気遣いが色濃く漂う。
「それじゃあ、ユディートちゃんにお願いしようかねー。よろしく頼むね」
「任せてね」
コロッと笑ったユディート。
ちょっと首を傾けて、愛嬌よく振る舞う彼女は、愛想のいい笑みを浮かべている。
昨日の鋭い狩人顔とは別人のような、この豹変ぶり。
確かに可愛い少女だとは思うが、微笑ましい思いとともに、警戒心を新たにした俺だった。
そのユディートが、左の目を細めて俺を手招きする。
「さあ、一緒に行こうよ。ハーネマンさんのところへ……」
可憐な口元はふっくらと笑っているが、切れ長の瞳は真剣そのものだ。
作為を越えた謀略を感じたが、もう手遅れだった。
諦めと覚悟、それに皮肉を込めて俺は臭い息を吐く。
「行ッテ、クル……」
「気を付けてなー」
俺はマイスタと娼婦たちから離れ、ずりずりと戸口へ向かう。
背後では、もう俺などいなくなったかのように、女たちの弾んだ声が響く。
「じゃあ、お台所を借りるわね。お茶を淹れなくちゃ」
「今日はマイスタさんに聞いて欲しいこと、いっぱいあるのよー」
「ほら、マイスタさんは座って座って」
明るくかしましいやり取りとは対照的に、俺は重苦しい気持ちを抱え、ユディートの前に立った。
少女のふっくらとしたみずみずしい頬が、ほのかに赤く染まっている。
何を考えているのやら、全く読めない女の子だ。
そういえば、元より彼女は
人間だった俺には、読めなくて当然かも知れない。
俺は玄関から表へと踏みだした。
今日はよく晴れているようだ。
隠すもののない太陽の光が、瞼のない俺の目玉に突き刺さる。
俺は頭に被ったフードをグイッと引っ張った。
同時に後ろでかちゃん、と音がして、サロンの賑わいが聞こえなくなった。
玄関が閉じられたのだろう。
続けて、無言のユディートが俺の手を握った。
彼女の白い手は、黒革の手袋に包まれている。
いくら素手ではないとはいえ、俺の手は腐汁が滲み、汚らしく臭いことこの上ないと思うのだが、この精人の少女は意に介さないようだ。
俺を見上げるその顔を見ると、ついさっきまでの笑顔は、きれいさっぱり消え失せている。
頬が膨れているのは、怒っているせいだろうか?
それにしては、冷たい左の眼差しに、憤りは感じられない。
本当に何を考えているのだろうか?
何も分からないまま、俺はユディートに手を曳かれて歩き出した。
傷み切った足でとぼとぼと進む俺だ。
その速さなど、たかが知れている。
百歳の老人にも及ばないほどの歩みで、俺は白鷺庵まえの広場を行く。
朝の広場に人影はまばらだ。
あの青銅の蓮の泉から、甕に水を汲む人の姿もある。
円形の広場を行き来する人々は、俺を見ては驚きと戦慄に顔を引き攣らせ、俺を連れ歩くユディートの勇姿に安堵の息を洩らす。
俺を見る誰もが騒がないのは、恐らくはユディートが一緒にいるからだ。
このユディートといい、それにマイスタといい、全く得体が知れない。
突然、俺の手を曳いて前を行くユディートが、前を向いたまま口を開いた。
「キミ、あたしやマイスタさんのこと、不思議に思ってるでしょ」
さらさらの短い黒髪が揺れる彼女の後姿を見ながら、俺はびくんと体を揺らす。
図星を刺された俺に、ユディートが振り向かないままに続ける。
「キミを助けたマイスタさんは、あの“
なるほど、マイスタはこの娼館街の裏方を支える人物という訳だ。
その位置に収まった経緯は、まだ分からないが。
結構な時間をかけて、ユディートが俺を白鷺庵から十軒ばかり離れた路地裏へ導いた。
ひと二人が並んで歩くのがやっとな程の、家々の間の狭い道。
その壁を背に俺を立たせ、ユディートが手を放した。
俺の正面で腕組みするユディート。
周囲に誰もいないことを確認してから、彼女が改めて俺に対峙した。
わずか下に見える左の眼差しは薄く鋭く、蒼く光ってさえ映る。
昨夜に垣間見せた、まぎれもない狩人の視線だ。
瞬きもしない切れ長の片目に捉えられ、俺は生きた心地さえしない。
死体の癖に……。
怯える俺を無表情に見つめ、ユディートがゆっくりと俺に問う。
「ねえ、キミって“
ユディートの左目が細くなる。口角も吊り上がり、笑っているようだ。
だがこれまでの十代の笑顔ではない。
売笑婦さえ凌駕する海千山千の熟女の微笑、それ以外の何物でもない。
俺の萎びた全身の皮膚に怖気が走った、気がする。
「ハーネマンさんに診せる前に、あたしがキミを視てあげるね、屍者くん。じっくりと……」
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