第六話 白鷺庵(カーサ・アルデア)
何とか難を逃れたおれは、停まった心臓が動き出したかのような気分を覚えつつ、老人マイスタの後を追う。
あの
俺が死んだ体で動いていることを、ユディートという異人は気付いたはず。
彼女が何者なのかは分からないが、とにかくマイスタと知人のようで、助かった……。
そんなことを考えているうちに、俺とマイスタは、ようやく目指す建物にたどり着いていた。
あの心を締め付ける歌声も、まだ聞こえてきている。
「さあさ、着いたでな」
玄関扉の前に立ったマイスタが言った。
飴色になった、木製のドアだ。
ちょっとした高級感の漂う重厚な扉で、上質の宿屋の玄関を思わせる。
扉の中央やや上寄りには、太い環が付いたくすんだ銀色のノッカーが付けてある。
ふと鴨居を見上げると、掲げられた看板の共通文字は、”
俺が板額を見上げている間に、マイスタがガツンガツン、とノッカーを鳴らした。
同時に、この『白鷺庵』という建物から聞こえていた歌声も、ふっと聞こえなくなった。
「さあさ、入っておくれ。今は客もないようだから、遠慮は要らんよー」
気のいい言葉とともに、マイスタが扉を引き開けた。
すっと脇に身を流したマイスタの横を抜けて、俺はずりずりと”白鷺庵”の戸口をくぐった。
戸口の内側は、窓はなく小ぢんまりとしているが、どこかゆったりとした部屋。
天井に吊るされた円い照明器具が、この部屋が夜闇に埋没するのを防いでいる。
十数個のキャンドルスタンドを車輪型の枠に付けた、一風変わった灯火だ。
そんな灯りの真下には、大きな円形のローテーブルと、それを囲む布張りのソファーがしつらえてある。
壁に据えられた暖炉といい、その壁を飾る湖水画の壁紙といい、この部屋はサロンか待合室のようだ。
部屋を見回す俺の目が、左手の壁にくぎ付けになる。
そこに掲げられた、一枚の絵。
質素な額縁に収められたその風景画に、俺は引き寄せられるように近付いた。
木々に囲まれた建物を描いた、静かな絵だ。
緑の滴る木々に、平穏なたたずまいの白壁の館。
だがどことなく黄昏た色調が、そこはかとない郷愁を催す。
どこかで見た気のする風景だ。
微妙に心がざわめく。
俺がぴきぴきと首を傾げたとき、マイスタが俺を呼んだ。
「さて、あんたが泊まる部屋はこっちじゃよー」
ゆらりと振り向く俺に、笑顔のマイスタが右手の壁を示した。
煉瓦の暖炉の横に、一枚の扉がある。
「一階の裏手に小部屋があるでね。せまっ苦しいが、一応ベッドもあるから……」
そこでマイスタの言葉を遮るように、ガツンガツンと何かを叩く音が玄関扉から聞こえてきた。
何者かがノッカーを打ったらしい。
マイスタが小さなため息をついた。
眉根を寄せたその顔には、深い憂いを帯びた笑みが浮かぶ。
憐憫の情にも諦念にも似た、哀しげな顔だ。
「……お客のようだねー。ちょっと待っておくれよ」
マイスタが応対に向かった。
彼が扉を開けると、誰かが玄関口に立っている。
俺がきちきちと首を伸ばしてみると、戸口を挟んでマイスタと向き合っているのは、でっぷりと太った中年男。
身なりは豪勢で、金は有り余るほどありそうだ。
豪商か何かだろうか。
その男は声を大にして『入れろ』、とか『逢わせろ』、とか『金ならいくらでも』などと言っているようだが、マイスタは頑として戸口から下がらない。
そうして数分にも亘る押し問答の末、太った男は何か捨て台詞を吐いて、すごすごと帰っていった。
『また来る』と言い残して。
「済まんねー、待たせてしまって」
後ろ手に重厚な扉をぴっちりと閉じ、マイスタが苦笑を洩らした。
深いため息をついたその顔は、実に憂鬱そうだ。
一体何が起きているのか、気にはなる。
だが今の俺の呼吸のない体では、すぐには声が出ない。
その物憂げな様子の理由を、マイスタに問うこともできないのだ。
しかし追い返した男のことには微塵も触れず、マイスタが再び暖炉脇の扉を指さした。
「さあさ、では行こうかねー」
言いながら歩き出したマイスタだったが、暖炉脇で立ち止った。
彼は白い漆喰のマントルピースから小さなガラスのランプを取り、添えてあった火打ち石で炎を灯す。
古風な真鍮のランプに蝋燭ほどの灯りが点され、透明な火屋の中で炎がちろちろと揺らめく。
俺はランプを掲げたマイスタの後について、そのサロンから出た。
サロンの隣は、物置のような小部屋だった。
マイスタのランプに照らされて、木の丸椅子やら花瓶やら、無造作に積まれた什器が壁に入り組んだ影を落とす。
そんな突き当りの壁には、二枚の扉がある。
片方の扉には“厨房”、もう片方には“控室”と書かれた札が下がっている。
マイスタが、『控室』の扉を開けた。
「本当に狭い部屋で悪いんだが、とりあえずゆっくり休んでおくれ」
心底すまなさそうにそう言って、俺にランプを差し出した。
皮膚の破れた汚らしい手で、不器用に灯火を受け取る俺。
そんな俺に、マイスタが気のいい笑顔を見せる。
俺には分かる。
深い傷を負う客、つまり俺を不安がらせないための、気遣いでいっぱいの笑みだ。
「明日は朝一でハーネマン先生の医院へ案内するでね。それまでおやすみ」
それだけ言い残し、マイスタはサロンの方へと戻っていった。
俺があてがわれた控室は、ベッドの長さと同じだけの幅しかない、本当に小さい部屋だ。
テーブルを置くだけの空間さえなく、戸口から四歩先はもうベッドだ。
足もと側の壁には、小さな四角い窓が開けてある。
俺はベッドの枕元に作り付けられた細長い棚にランプを置き、ベッドによろよろと腰を落とす。
……静かだ。
彼方から男たちの粗野な笑い声の残滓が漂ってくる。
それ以外に、何の物音も聞こえない。
あの俺の心を締め上げる歌声も。
マイスタの言うとおり、狭苦しい空間には違いない。
しかし不死怪物にさせられた俺には、ようやく安全が保障された、貴重な部屋と時間だ。
俺は頼りない腐った頭を酷使して、考えを整理してみる。
俺が目指す場所は、アリオストポリの久遠庵(カーサ・アンフィニ)、女屍霊術師パペッタが待つ店だ。
ほうほうの体でこの街、ルディアの花街に潜り込んだが、俺はアリオストポリへの道を探さなくてはならない。
そしてこの道のりが、パペッタの言葉を借りるなら『贖罪の旅』だということになる。
しかし俺は、贖罪しなければならない大罪を犯したというのだろうか?
そんな大罪人の俺は、一体誰なんだ……?
その答えを探すための足掛かり、つまりアリオストポリへの第一歩がこのルディアだ。
躓く訳にはいかない。
だが気のいいマイスタは、明日、本当に俺を医師に会わせるだろう。
そうなれば、俺が死体だということがたちまち暴かれて、冒険者に退治されることになってしまう。
たとえば、あのユディート。
あの異人の少女は、明らかに俺を疑っている。
とはいえ、今この状況でこの白鷺庵から姿をくらますのは、却ってまずい。
どうしたものか……。
考え込んだところで、腐れた俺の内から出た知恵など、たかが知れている。
しかしマイスタの良すぎる世話と、冒険者たちの魔手をしのぐには、今はその浅知恵に頼るしかない。
俺は棚に置いたランプを不器用極まる無様な手に取った。
そしてねじるようにして火屋を外すと、俺は裸の炎に向かって大きく口を開いた。
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