第五話 花街の少女

 想像の裏を掻かれ、呆気にとられた俺の顎が、かくんと落ちる。


 八人が並んで歩ける、広い街路。

 その石畳の道を毒々しい紅色や、劣情を催す桃色に染めるのは、街路の左右に等間隔に吊るされた無数の提灯だ。

 心やましい仄明るさに包まれたその街路には、同じような二階建ての建物がずらりと軒を連ねる。

 一階部分には大きな窓と、そこに張り付く男たち。

 そして二階の飾り窓からは、派手な化粧の扇情的な女たちが行き交う男を手招きする。

 後ろ暗そうな控えめな喧噪。

 武装した男たちの捨て鉢な笑い。


 俺はマイスタや番兵が口にした言葉を思い出した。


 ――花街――


 なるほど、つまり歓楽街だ。

 それも、春をひさぐ女たちが犇めく娼館が屋台骨を支える、“売春窟スーブラ”か。

 道理で、この背徳の街路を行くのは男しかいない訳だ。

 

 女を漁る男たちの病的な熱気、それに娼館から漂ってくる女たちの臭気が、通りにむんむんと立ち込める。

 健全な男なら、この生きた人間が醸成する瘴気に当てられて、まず間違いなく正気を失う。

 そして最後には女の体に溺れ、心はぐすぐすに腐蝕してしまうだろう。


 だが残念ながら、俺は文字どおりに体が腐っている。

 どうやら股間の一物は辛うじて残っているようだが、この状況にあっても何の反応も示さない。

 ここまで役立たずでは、魚の餌にもならないだろう。


 と、固着した心臓で自嘲的に笑い、俺はふと思う。


 腐乱死体に押し込められ、それこそ二目と見られない身にされた俺だ。

 だがおかしなことに、死んだ体を得た今、空腹や性欲が俺を悩ますことはなくなった。

 腐った体がある種の解放をもたらすとは、全く得体の知れない話だ。

 

 きちきちと首を振った俺の前で、マイスタは構うことなく進み続ける。

 マイスタの後ろ姿も、提灯からの光が、鮮やかな毒花の色に染め上げている。

 

 これまでのマイスタの様子から見る限り、どう考えても彼はこの魔窟には不似合いだ。

 とてもこんな爛れた場所に住むような人間とは思えない。

 それともその実、何か裏のある人物なのか……。

 

 マイスタと俺は、饐えた空気が充満する歓楽街の中心をまっすぐに突き抜けた。

 十数軒の娼館と怪しい宿、それに酒場の前を通り抜けると、だんだんと男の姿もまばらになる。

 提灯の数も減り、路地は真鍮色を帯びた夜の本来の姿を取り戻してくる。

 

 そこで俺は気が付いた。

 女の歌声が聞こえる。

 かなり若い、少女と言ってもいいほどの高く澄んだ、物悲しい歌。

 歌詞こそ分からないが、鼓動を忘れた心臓も、萎びて固まった肺も、帯でじっくりと締め上げられたかのような錯覚に陥る。


 マイスタの背中が、涙声の嘆息を洩らした。


「お嬢さま……」


 路地の奥へ奥へと進むにつれて、その売春窟にはふさわしくない歌声もだんだんと近付いてくる。

 

 やがてマイスタが立ち止った。

 俺も何歩か遅れて引きずる足を休め、辺りを見回してみる。

 

 俺たちの前にあるのは、中央に円い泉のある、小さな円形の広場だ。

 差し渡しは二十数歩ばかり。

 周りはありふれた建物で囲まれている。

 提灯もここにはなく、暗くて人の姿はほとんどない。

 やはり歓楽街とは違うようだ。

 清楚な歌声も、この広場の建物から聞こえてくる。


 小さく鼻をすすって、マイスタが建物の一つを指さした。


「さあさ、あの建物だでな。もうそこじゃよー」


 ため息を一つ容れたマイスタが再び歩き出し、俺もその後についてずるずると広場を歩く。

 マイスタが泉の脇を通り、自分が指さした建物に向かう。

 その二階屋が歌声の元でもあるらしい。

 

 広場中央の泉は、きめの粗い石材を円形に組んだ、かなり古いもののようだ。

 その中心には青銅の睡蓮が咲き、花芯から滾滾と水が湧き出ている。

 たぶん地下水なのだろう。

 星々を映す水面は透明に澄み、まさに淫窟に湧く聖霊の住処、とでも言うべきか。

 

 そして、マイスタを追うように泉の横を通り抜けた途端、俺は気が付いた。

 泉の縁に、誰かが腰かけている。

 女のようだ。

 歌声の主とは別人らしく、緘黙を守っている。


 この娼婦街に現れる女は、たぶん二種類だろう。

 一つは娼婦。

 もう一つは娼婦ではない、娼婦街の住民だ。

 ところが泉の縁石に座る女は、どちらでもないような雰囲気を漂わせている。

 

 ふと足を止めた俺は、好奇心に駆られて女に目玉を向けた。

 その女は、まだ相当若い色白の美女だ。

 まとった黒い衣装は、その身にぴったりと合っていて、メリハリのある滑らかな身体の線が、露わに見て取れる。

 後ろ髪は短く刈っているが、漆黒の長い前髪に右目を隠し、すごい切れ長の左の瞳で、俺を凝視している。

 まだどこか幼気さが残る丸顔に、何か怒っているような、咎めるような色が浮かぶ。

 固く結ばれた薄桃色の唇も、少女の不愉快さを物語る。

 その険しい漆黒の視線の薄く、鋭く、冷たいこと、俺の魂と体とが切り分けてられてしまいそうなほどだ。

 

 “人間ホムス”ではない。

 特徴のある耳の形から見て、噂に聞く”精人アールヴ”。

 それも恐らくは、滅多に人間の前には現れないという、”樹精人アルボリ・アールヴ”だろう。

 しかもよく見れば、その背中には大ぶりの剣だか弓だかのような物を背負っている。


 しまった! 冒険者……!!

 まさかこんな娼館街の奥に女の冒険者がいるとは、全く予想していなかった……。

 

 厚ぼったく傷んだ俺の舌が恐怖にすくみ上がり、腐って鈍った俺の全身に、ぶるぶると戦慄が走った、気がする。

 この恐怖と危険の臭いは、押し付けられた体が感じているものではない。

 俺の魂自身が予期しているものだ。


 ほとんど瞬きもせずに、異人デモスの少女が動けない俺を凝視している。

 その左の目が細められた次の瞬間、少女の右手がスッと背中へと延びた。

 

 俺の口がだらしなく開き切った瞬間、俺の三歩先から暢気な声が聞こえてきた。


「どうしなさった?」


 黒衣の女の左目が、前髪を揺らして俺から逸らされた。

 同時に俺も女の目線を追うと、やっぱり行き着く先は、老人マイスタだった。

 その場に立ったまま俺と異人の少女を見比べて、マイスタが親しげに笑う。


「ああー、ユディートちゃん。こんばんは」


 『ユディート』と呼ばれた異人の少女も、応えてにっこりと笑った。

 ここまでの厳めしい表情が、まるで嘘のように快活で、真っ直ぐな笑顔だ。

 しかしやはり口は開かない。


 背中の得物に右手を掛けたまま、ユディートの左目が俺とマイスタの間をちらちらと往復した。

 一瞬で霜さえ降りそうなほどの冷厳さを取り戻した、少女ユディートの瞳。

 

 そんな彼女の変化を知ってか知らずか、マイスタが例のごとく悠長な口ぶりで少女に教える。

「ああ、この人かい? 城門の外で困ってたお人でねー。ひどい怪我で医師に掛かりにきたんだよー。明日、ハーネマン先生のところへでも案内しようと思ってねえ」


 マイスタの説明を聞き、少女の酷薄な眼差しが、俺を捉えた。

 反射的に、俺はかたかたと顎を鳴らしながら、きちきちと何度もうなずく。


 そうして二秒。

 瞬きをしないユディートの左目から、棘が消えた。

 それでも疑念の影を漆黒の瞳いっぱいに湛えたまま、少女が背中の得物から右手を離す。


 どうやら、危機は回避できたようだ。


 心の奥底で、俺は安堵の吐息をつく自分を想像した。

 全身が緩み切り、関節が離れ離れになりそうな奇妙な違和感が、俺の腐った体を覆う。

 ここで油断したら、体がバラバラになって動けなくなる。


 必死に直立の姿勢を保つ俺を尻目に、マイスタがユディートに軽く手を振る。


「じゃあまたね、ユディートちゃん。夜風は体に悪いから、早く神殿にお戻り」


 泉の縁に腰かけたまま、笑顔のユディートがこくりとうなずく。

 俺は彼女の刺すような視線を魂の背後に感じつつ、ずりすりと泉のほとりを離れた。

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