第三話 老人マイスタ
途方に暮れた俺は、夜の中にそびえ立つ、目の前の城門を茫然と見上げた。
俺の丈の倍はある、鋼鉄の城門だ。
その見上げるような鴨居の真ん中に、共通文字が大きく彫り込まれた石のプレートが掲げられている。
『ルディア』。
間違いない。
この城門の向こうが、俺の目指して来たルディアの街だ。
思いどおりには動き難い両脚を酷使して、俺は倦むことなく、無人の街道をひたすらに歩き続け、ここまでたどり着いたのだ。
あの辻強盗からブーツを失敬しておいて良かった。
ぐすぐすに傷んだ裸足では、たかだか四時間程度の道程を踏んだだけで、俺の足首から下は崩れ去り、夜の街道で野晒しになっていただろう。
だがルディアの閉門時刻には、やはり間に合わなかった。
こうなった以上は、明日の開門時刻を待つほかない。
恐らく日の出直後の開門時間の前から、城門には開門待ちの人々が集まってくるだろう。
その中には、冒険者も必ずいる。
歩く死体“
何とか夜闇に紛れてルディアに潜り込み、俺が最後に目指すべきアリオストポリの
どうしたらよいのか分からなくなったまま、俺はゆらゆらと立ち尽くすばかりだ。
ため息もさえも出てこない俺の腐った体と、役に立たない脳が、例えようもなくつまらない。
そんな俺の真横で、不意にしわがれた声が響いた。
気のよさそうな共通語だ。
「おやまあ、城門に入り損ねたお人かな?」
俺は声の主の方へ、ゆらりと向き直った。
途端に深いため息が、夜を揺らす。
「ああ、ああ、顔にそんな包帯を巻いて、相当ひどいケガをしたんじゃねえ……」
見れば、声の主は小柄な老人だ。
背中に大きな袋を背負っているが、その中身は分からない。
老人はしわくちゃな顔をさらにくしゃくしゃにして、気の毒そうに何度も首を振る。
「医師に掛かりに来たのかな? 早く医師に掛かりたいのに、街に入れなくて難儀じゃろ」
独りで勝手に作った話を進めていく老人。
しかし簡単には声の出ない俺に、老人を止めることはできない。
それに、どうやらこの老人は俺の正体には気付いていないようだ。
俺はこのまま、老人の流れに任せることにした。
この老人は、包帯に隠された鼻も唇も削ぎ落ちた顔を見上げ、にっこりと笑う。
「わしはこのルディアに住んでおっての。そこの山で薬草摘みをしておったが、つい夢中になってしまってな。閉門に間に合わなんだのじゃよー」
なるほど、老人の言うことが本当なら、背中の袋は積んだ野草と道具だろう。
俺は何度もうなずいた。
同時に、俺の頸椎がぎちぎちと鳴る。
人間離れした音を立てた俺だったが、しかし老人は全く物怖じしない。
誰にでも寛大なのか、あるいは目も耳も勘も鈍いのか、それとも何か魂胆があるのか……。
毛先ほどの不審も嫌悪も感じさせない、無邪気な老人。
逆に俺の方が疑り深くなってきているようだ。
老人は人懐っこい笑顔を崩さずに、一方的にしゃべり続ける。
「でも心配はご無用。通用門の番兵さんなら店の顔なじみだし、わしとは昵懇だからのー。こういうついうっかりの時には、何気ない縁に助けられるもんだて」
ぴったりと閉ざされた城門へ向かって、老人が一歩踏み出す。
と、そこで俺へと向き帰り、手招きしてくる。
「さあさ、あんたもおいで。通用門から入れてもらおう」
なるほど。
この老人は、こういう不測の締め出しに役立つ、何か裏の伝手を持っているのだろう。
それなら使わない手はない。
仮にこの老人に何か善からぬ企みがあったとしても、もう死んでいる俺だ。
何を仕掛けてこようと、意味などない。
俺は老人を追おうと、ずずっと右足を出す。
続いて左足も半歩出す。
ブーツの底を引きずる俺の無様でとろい動きを見て、老人が気の毒そうに首を横に振る。
「ああ、ああ、、ひどい状態じゃねえ、あんたの怪我は。とにかく早くルディアに入れてもらわんと」
俺がじりじりと近寄るのを待って、老人が再び鋼鉄の門扉へと向き直った。
歩き出した老人の足は、街の正門ではなく、その脇に造り付けられた一枚の扉へと進んでゆく。
あれが通用口だろう。
すぐに老人が通用口の前に立った。
鉄の鋲で補強された、頑丈な木の扉だ。
目の高さ辺りに、細長い鉄の覆いが被さっている。
俺も老人の背中によろよろと追いつくと、老人が握った拳で扉を四回叩いた。
くぐもった音が夜に響いてわずか数秒だろうか。
扉の細い覆いが持ち上がり、二つの目が覗いた。
命の宿った生者のまなこだ。
続けて聞こえてきたのは、中年男の呆れ声。
「ありゃ、なんだ。またマイスタじいさんかい」
「毎度毎度すまんねえ」
愛想笑いの老人に、扉を挟んで男の大きなため息が聞こえてきた。
「世話好きなのはいいけど、もっと気を付けてくれよな。何べんも言ってるけど、火急の時でないと、閉門後は通用門を開けられないんだよ」
「分かっとるよ。そこを何とか……」
マイスタと呼ばれた老人が、手を合わせて頼み込む。
この様子だと、老人マイスタは閉門時間過ぎでの押し入り常習者なのだろう。
今度は押し殺した苦笑が、扉の内側に響いた。
嫌味も怒りも感じられない、どこか諦念が滲む気安い笑いだ。
「分かった分かった。その代り、またイイ娘が入ったら、世話してくれよ」
「大丈夫じゃよー。わしに任せておき」
奇妙なやり取りだ。
そこはかとなく、堅気ではない匂いが漂う。
老人マイスタが深くうなずくのと同時に、通用口が開いた。
オレンジの灯火が洩れ、マイスタの顔のしわを一層深く刻む。
顔半分が赤橙色に染まったマイスタが、俺に言う。
「さあさ、早く中へ入ろうかの。街の外で長居は無用じゃよー」
そそくさと通用門をくぐったマイスタ。
俺も老人の後について、通用門の中へと這入り込んだ。
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