第二話 凶刃
俺は山道を下り始めた。
背の高い木々に囲まれた林道は、夜闇が迫りつつある。
血の色をした最後の残照が、山林の中に幾重もの赤い襞を張っている。
間もなく陽が沈む。
夜になれば、山をうろつく冒険者など、ほぼいなくなるはずだ。
夜は人外の時間。
いかに手練の冒険者でも、無用の危険を冒す愚か者は、長生きできない。
俺は、さっきの冒険者どもが言っていた『ルディア』の街、とやらへ向かうことにした。
恐らくは、そのルディアがここから最も近い街なのだろう。
ここから二時間なら、住民が完全に寝静まってしまう前には到着できるはずだ。
枯れ枝のような両脚を斜面に突っ張らせ、山林のうねうねとした坂道を下りきったころには、すでに日没を迎えていた。
月はない。
ただ夜空を彩るのは、細かな砂金を振りまいたかのように映る銀河だけだ。
夜天を二分するその大河の星々も、本当は一つ一つ色が違うのだろう。
赤、黄色、白、青と。
だが今の俺の濁った眼では、どれも同じ真鍮色に見えてしまう。
……どうでもいいことだ。
無駄な感傷などやめて、俺は山裾の平坦な街道へと踏み入った。
星明りが照らす街道は、荒涼とした原野を一直線に突っ切る、枝道などない細い道だ。
まだ宵の口だとは思うが、人の姿はない。
考えてみれば、俺が一旦目指すルディアは、あの冒険者どもの健脚で二時間、ということなのだろう。
この杖にも劣る脚では、二時間での到着は無理かも知れない。
だが俺は歩き続ける。
動きの悪い、朽ちかけの脚だが、逆に疲労感など皆無だ。
おまけに空腹感も、死体の胃袋には無縁のもの。
ただひたすらに、俺の腐った体は、街道の先にあるというルディアの街へと向かう。
どのくらい経った頃か、不意に後ろから人の声が飛んできた。
「おい、お前」
俺にも理解できる言葉だ。
共通語だろう。
同じ男の声が、背後から乱暴に命じてくる。
「止まれ。止まってこっち向け」
言われたとおり、俺は立ち止った。
だがそれ以上は、腐乱した体が俺の意志について来られない。
振り向くことができず、死体の俺はもたもたと立ち往生した。
ふらふらと芯もなく立ち尽くす俺の背後から、あからさまに不愉快そうな舌打ちが聞こえた。
次の瞬間、背中から何者かに掴みかかられたかと思うと、ざくっ、という鈍い音と振動が、俺の脇腹を襲った。
瞼のない目線を下げてゆくと、何か刃物が俺の脇腹に突き立てられている。
……ああ、そうか。
“
そう気付いた俺の腹の底から、奇妙な可笑しさが込み上げてきた。
無一文の腐った死体から、こいつは何を奪おうというのだろう?
命だって、今の俺にはないというのに。
悲しいのか滑稽なのか、複雑に絡み合った妙な感情が、俺の固まりきった肺を大きく広げた。
気管から押し出された濁った空気が、笑いにも似た音を立てる。
「キ、ヒ……」
自分でも呆れるほどに、人間離れした音だ。
もうとても声とは言えない。
俺を捉えた辻強盗の手が、ぶるぶると震えはじめた。
マントを鷲掴みにした指から力が抜け、その手が下へとずるずる落ちてゆく。
続けてどさりと何かが地面に落ちた音が聞こえ、俺の体は自由になった。
ようやく振り返ってみると、一人の男が俺の足もとにへたり込んでいた。
星の光を浴びた、地味な身なりの痩せた男だ。
黒い頭巾に白い覆面。顔を覆う布の隙間に見開かれた目が、絶望的な恐怖をありありと湛え、俺を見上げている。
俺は腰の少し上あたりに刺さった刃物の柄を握り、ずるりと引き抜いた。
粘ついた黄色い腐汁の曳く糸が、傷口と刃をぬるりと結んでいる。
星明りに刃をかざしてみると、しっかりと研ぎ澄まされた、なかなかいい短剣だ。
生きた人間なら、ひと刺しで殺されていただろう。
俺は短剣を手にしたまま、瞼のない両眼を揃え、辻強盗の目を斜に見下ろす。
その途端、路上に座り込んだ辻強盗は、びくんとすくみ上った。
「は、た、助け……」
引き攣った呻きを洩らし、皿のような目がぐるんと裏返ったかと思うと、辻強盗は仰向けに倒れて動かなくなった。
脅すつもりはなかったが、短剣を持つ腐った顔の死体に、剥き出しの目玉で睨まれたのだ。
さすがに恐ろしかったと見える。
俺は関節をぴきぴき鳴らし、辻強盗の横に膝を着いた。
半開きの白目で倒れたままの辻強盗の男。
胸は上下していて、小癪にもまだ息がある。
さて、どうしたものか。
これから街へ入ろうという俺だ。
まず何よりも、辻強盗さえ気絶するほど醜い俺のご面相を、何とかしなくては。
この腐乱した、鼻も唇も、瞼もない死体の顔では、お話にもならない。
俺はぶっ倒れた辻強盗の頭に、小指の欠けた手を延ばす。
頭巾を脱がせ、男の顔から覆面を引き剥がした。
辻強盗の覆面は、細長い包帯のような布だ。
これを顔に巻いておけば、怪我人のように見えるだろう。
俺は即座に爛れ切った顔に包帯をぐるぐると巻き付けた。
まだ辻強盗は目覚めない。
次にその体から短剣の鞘とベルト、それに革のブーツを奪い取った。
腐った皮膚の下に浮き出た腰骨の上にベルトを巻き、短剣を鞘に収めると、くたびれたブーツに足を突っ込む。
最後に、俺は仰向けた辻強盗の懐から配布を拝借した。
手には軽く、中身はさしてなさそうだが、死体の俺に食い扶持は無用だ。
万一の時に、少し用立てばいい。
俺はぎこちなく立ち上がった。
地面に伸びたままの辻強盗を見下ろしながら、思考を巡らせてみる。
今の状態なら、この辻強盗を殺してしまうのは、死んでいる俺でも容易いことだ。
しかし普通の人間なら即死の刺し傷はもらったものの、何か盗られたわけでは訳ではない。
逆にこちらがこの男の命まで奪うには、忍びない。
放っておこう。
野獣か怪物に食われるかもしれないが、食われないかも知れない。
これ以上は俺の知ったことではないのだ。
この男も、これが初めての辻強盗でもなさそうだ。
仮にここでこの男が死んでも、それが応報というものだろう。
そう決めた俺は、辻強盗に背中を向けた。
その時、マントを揺らす夜風に乗って、鈴を振るような女の笑い声が聞こえたような気がした。
だがそんなことはすぐに忘れ、俺は夜の街道をふらふらと歩き出した。
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