第一話 旅立ち
俺は大慌てで、無様に腐乱し緩みきった体をねじ込んだ。
森の小道の脇に鎮座する、大岩と大岩の間の隙間だ。
意志どおりに動かない両腕と両足を無理やりに折り畳み、体を暗く狭苦しい間隙の奥へと這いずらせる。
固まった全ての関節が、小枝を折るようにぱきぱきと鳴った。
だが痛みは感じない。
緑色の皮膚をおろし金のように削る、岩肌の感触さえも。
俺が隙間の奥深くに身を潜めたのと同時に、この大岩の周りは幾つもの苛立たしげな足音と、殺気を孕んだ息遣いに取り囲まれた。
しつこく俺を追ってきた、”冒険者”どもだ。
「確かにこっちに逃げてきてるはずなんだがな……」
冒険者どもの訝しげな声が聞こえる。
俺は岩の隙間にべたつく体を張り付けて、時が過ぎるのを待つ。
身じろぎ一つせずに。
もう鼓動も呼吸もなくなった死体の俺だ。
じっとしてしまえば、一切の気配は消え失せてしまう。
「あいつは“
「屍器にしちゃあ、妙だったぞ。普通の屍器は逃げたりしないからな。知能ゼロだから」
「じゃあ、さっきのあれって、まだ知能が残ってる、ってこと? やだ、気色悪い」
「厄介だな。知能を残した
「でも屍師はこんなところにいないし、逃げたりしないでしょ? 下手したら、こっちが先に殺されてる……」
不穏な会話を交わしながら、冒険者どもがこの大岩の周りをしつこくうろついている。
と、いきなり俺の首筋に違和感が走った。
ぐりぐりと、何か細く鋭い物が首の中へと刺し込まれてくる。
これは槍だ。
ご丁寧にも、冒険者が俺の隠れた岩の間に、手槍をねじ込んできたらしい。
だが今の俺には痛みは無力だ。しかも上げる声さえない。
死んだ体で良かった。
すぐに槍は引き抜かれ、不審そうな男の声が聞こえた。
「いないか。まあ仕方ない。始末しておいた方が無難だが、人里は遠い。放置してもそれほどの危険はないだろう」
「そうよね。日が暮れるまでには、ルディアの街に着きたいわ。ベッドでゆっくり寝たい」
「ああそういや、ルディアにはいい花街があるんだよな。久しぶりに気持ちいいことしてえ……」
「女の前でそれ言う? まったく、これだから男って生き物は……」
「まあそう言うな。とにかくルディアはここから道沿いに二時間くらいだ。急ごう」
くだらない話をしながら、冒険者連中は大岩から離れていった。
奴らの足音も気配も消えてから、さらに時間をおいて、俺はずるずると岩の間から這いずり出た。
辺りはもう黄土色の斜陽に包まれている。人の姿はない。
忘れていた安心が、俺の爛れ切った全身に広がってゆく。
……疲れた、ような気がする。
よろよろと崩れるように下草の上に座り込み、岩にもたれかかった。
だが俺の体は、何の感触も覚えない。
ここまで逃れてきたごつごつの砂利道も、柔らかなはずの下草も。
この『疲れた』という感覚それ自体が、やはり俺の気のせいに過ぎないのだろう。
俺の体はとうに腐りはてた死体に過ぎない。
呼吸も鼓動も、この体からは一切生じない。
何とも言えない、突き放されたような寂しさと虚しさが、俺の内に重苦しい。
ため息の一つでも出れば、我と我が身を憐れむ気分にも浸れるだろう。
だが今の俺には、それさえも許されてはいないのだ。
心の中で自嘲的な笑いを思い浮かべてから、俺は改めて周囲を見渡した。
ここは、どこか山林の只中だ。
人気のない小道と、俺が隠れていた大岩だけがひっそりと存在している。
鳥も鳴かない静けさに身を置いて、俺は心の中で吐息をつく。
一体、俺に何が起きているのか?
そもそも、俺は何なんだ?
その答えを求めて、俺は今までのことを思い返してみる。
――気が付いたら、俺は浅い穴の底に転がされていた。
暴かれた墓穴だった。
文字どおり、墓穴から這い出た俺が見たものは、鬱蒼と生い茂った藪の中にぽつり、ぽつりと頭を出した、十数基の石碑。
あるものは倒壊し、あるものは摩耗しきった墓碑だ。
そこは打ち捨てられ、荒れ放題に荒れた共同墓地だったようだ。
地面に散乱した大腿骨や肋骨、それに髑髏は、何かの野獣が食い荒らした跡なのだろう。
もう百年は放置された、そんな荒涼とした場所だ。
だが腐りきった死体の俺が旅立つには、ふさわしい場所ではあった。
しかし俺はどこへ行って、何をすればいいというのだろう?
『因果の呼ぶ方へ行け』?
『贖罪』?
頼るには、余りにもあいまい過ぎる言葉だった。
唯一、あのパペッタとかいう怪しい女が口にした具体的な地名が、『アリオストポリの
アリオストポリ、聞いたことがある気もするが、今の俺の腐れた脳に、確かな記憶は見つからない。
ああ、何が何だか分からない。
だが俺の本当の体、生きた体がそこにあるのなら、行くしかない。
今いる場所がどこで、目指すべきアリオストポリがどこなのか、何も理解できないまま、俺は山中に打ち棄てられた共同墓地を出た。
とにかく人里を目指し、アリオストポリへどう向かえばいいのか、情報を得なければならなかった。
だが今の俺は、動き出した腐った死体。
言ってみれば、一匹の“
山道を彷徨ううちに、不覚にも流しの冒険者たちに見つかってしまった。
連中からすれば、今の俺はいい獲物だ。
腕試しにもなるし、酒場でのちょっとした武勇伝や名声にもつながる。
しかし距離があったため、追い付かれる前に岩の間に隠れ、何とか連中をやり過ごした。
だが冒険者など、世間ではありふれた連中だ。
これからも幾度となくこういう目に遭うと想像すると、先が思いやられる。
パペッタの嘲笑めかした忠告『退治されないように気を付けろ』。
それが、今さらながら身に染みた――
そこまで思い返し、俺は滲み出る腐汁に塗れた両手で、髪もまばらな頭を抱える。
『贖罪』、とはどういうことだ?
俺が何をしたというのか?
俺はさらに記憶を辿る。
あのパペッタに逢った暗闇のその前に、俺の知りたいことがあるはずだ。
それなのに、思い出すことができない。
鏡で死体の俺と対面した、その時以前の俺を。
霧がかかっているとか、見えない壁があるとか、そういう感覚とは違う。
空隙なのだ。
あたかも俺など存在していなかったかのように。
だから糸口さえ掴めないのだ。
俺が本当は何なのか、俺の名前さえも。
それだからこそ、行かなくてはならない。
女屍霊術師パペッタの待つ、アリオストポリの久遠庵へ。
自分の体と、自分自身を取り戻すために。
夕闇の迫る中、俺はゆらりと立ち上がった。
事あるごとに固着してしまう膝と肘が、ぴきぴきと音を立てる。
同時に、俺の手からポロリと左の小指がちぎれ、地面に落ちた。
岩の隙間に潜り込んだ時に、岩肌に押し付けて過ぎて、折れていたのかも知れない。
他人の死体にいる俺だ。
痛みなどはないし、小指を惜しいとも思わない。
だがこの小さな出来事は、間違いなく俺に告げている。
俺に与えられた時間は、この腐乱死体が崩壊するまで、だということを。
それまでに、アリオストポリの久遠庵へ辿り着かなければ、俺は……。
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