トマホーク小野田

柿尊慈

トマホーク小野田

 ビショビショのおっさんの頭に、斧が刺さっている。20歳の平均的な男性である僕の目の前に、ショッキングな光景が広がっていた。

 何度も目を擦り、目を瞑って開き直してみても、そこにいるのは頭に斧が刺さったビショビショかつマッチョなおっさん。まるでモヒカンのように、斧が刺さっているのだ。もみ上げと口ひげとアゴひげが一体化した、ふさふさで毛深い顔に、さらに斧が刺さっている。ちなみに、血はまったく出ていない。痛がる様子もなかった。

 どうして彼がビショビショなのかというと、彼が泉の中から出てきたからである。美しい女神様が「あなたが落としたのは金の斧ですか?」なんて聞いてくれる童話のシチュエーションとはほど遠い。むしろ状況的に、お前がこの斧を落としてくれやがったのかと怒鳴られそうである。もちろん僕はこの斧に一切心当たりがない。

 おっさんはガッチリムチムチで、下半身より上半身の方が圧倒的に太い。超絶逆三角形だ。上腕二頭筋なんかは、僕の頭と同じくらいの大きさに発達している。あの腕にラリアットでもされたら間違いなく即死だ。僕は冷や汗をかいた。

 ボディビルダーのように色黒ではなく、むしろ色白の肌。それが太陽とは無縁の、泉の中での長い生活を想起させる。いや、おかしい。どう考えてもおかしいではないか。おっさんは普通、泉の中で生活しないはずだ。少なくとも、僕の知ってる「おっさん」にそんなタイプの人はいない。もしこれがおっさんの型のひとつなのだとしたら、僕の辞書の【おっさん】の後ろに「水中で生活するタイプもいる」と書き足す必要があった。

「――この斧は、汝のものか?」

 強そうな声が聞こえる。どう考えても、このおっさんから発されているものだ。僕は首を振る。首が取れそうなくらい振った。あの上腕二頭筋から放たれる大技で首が飛ぶくらいなら、自分で首を取った方がよほどマシな気がしたのである。

 おっさんは黙り込んでしまった。とても気まずい。どうせ黙るなら、泉の底に戻ってから黙ればいいのに。まるで、僕が何か言うのを待っているみたいじゃないか。

 ねぇ、私に言わなきゃいけないことあるんじゃない? 少し前に別れた恋人の言葉を思い出す。あの頃は「何だよ、そっちこそハッキリ言えよ」と思ったが、なるほど、君が正しかったようだ。頭に斧が刺さったおっさんに比べれば、よほど君の方が言うべき言葉があった。

 天罰だ。女心を読めなかった僕に、神はいかついおっさんを寄越してきたに違いない。


 ふと僕は、おっさんの組んだ腕の先に見覚えのあるものを見つける。彼の手には、先ほど僕が泉に蹴落としてしまったゼリーの缶が握られていた。振ると砕けて、ゼリーになるというあれだ。間違いない。あれは僕のものだ。彼はあれのことについて起こっているに違いない。ああ、なんてこった。

「あの……その缶なんですけど、僕がさっき落としてしまったものでして……」

「ああ、これか」

 おっさんは組んだ腕を解く。

「これが頭に落ちてきてね。おかげで、永い眠りから覚めることができた」

 頭に、ぶつかったのか。あの斧の刺さった頭に、さらに未開封の缶が落ちてきたのかよ。とんだ災難じゃないか。本当に申し訳ない。

 僕はラリアットが飛んでこないよう警戒しながら言った。

「あの、お詫びといってはなんですけど、それ差し上げますので……」

 どうか、今日は見逃してください。そう言おうとしたところで、彼の手が動く。ビクリとするが、おっさんは缶をまじまじと見ては、指先で突いたり叩いたりしているだけだ。

 もしかすると、開け方がわからないのかもしれない。どう見てもこの世の理から外れた存在だ。プルタブなんか知っているはずがなかった。

 僕は「ちょっと貸してください」と小声で言ってから手を差しのべる。おっさんが缶を渡した。僕はそれを振ってから、プルタブを引く。パキンと、心地のいい音がする。僕はおっさんと目を合わせると、缶を口元で傾けて飲む真似をした。そして再びおっさんに返す。おっさんは見よう見真似で缶を持つ。おっさんの喉が動く。ゼリーだ。ゼリーが飲みこまれていく。ゼリーがこの究極生命体の糧になっていく瞬間を、僕は目の当たりにしているのだ。

 次は僕が飲み込まれる番か……。そう思っているところに、おっさんの声が飛んでくる。

「汝は選ばれし勇者か?」

「いや、そんなわけないでしょ」

 へんてこな質問に無礼に即答してしまい、僕はハッと口を押さえた。

 首が、飛ばされてしまう! 首を守ってみるが、おっさんは攻撃するどころかうな垂れてしまった。

「あの……どうしたんですか?」

 心配で声をかけてしまったが、我ながら「どの部分を」心配したのかわからない。悲しそうなその表情か、それとも頭に刺さった斧か。

 おっさんが語り出す。


「私はトマホーク小野田おのだ。勇者にしか扱えない、聖なる斧を守護する者だ」

 斧の刺さった、小野田さんですか。

「前回この斧が使われたのは、いつのことだったか……。この星、地球とは別の世界で起きた魔王の支配。それを終わらせるべく伝説の武器を求めた勇者。彼が私のもとを訪れ、正義の心を示したのを受けて、私は彼の旅に同行したのだ」

 正直、勇者より強そうですけどね、小野田さん。僕は口に出さない。ラリアットが怖いから。

「そして長い闘いの末、魔王は消え、勇者も力尽きた。闘いは終わっても、この世から悪が完全に滅びることはないと知っていた私は、伝説の斧が魔の手に渡ることを恐れ、平和なこの星に隠れ住むことにしたのだ」

 地球からすれば、迷惑な話である。僕は口に出さない。ラリアットが怖いから。

「そして私は、この穏やかな泉の中で、聖なる斧【小野田】を守りながら――」

「えっ」

 声が出た。おっさんがこちらを見る。

 聖なる斧【小野田】?

「斧の名前が、小野田なんですか?」

 僕は尋ねる。おっさんが頷く。

「斧が小野田で、私がトマホークだ」

「あなたの名前がトマホーク」

「ふたり合わせて、トマホーク小野田……」

「コンビ名だったんですね」

「私のことは気軽に、トマさんと呼んでくれ」

 トマさん。

 トマさんですか。

 随分とラブリーで、キャッチーな呼び名だ。もう少しそれに見合った容姿になって欲しいものである。どう見てもトマさんの顔じゃないよ。

「この斧は、選ばれし勇者にしか抜けないのだ。悪意に満ちた者に、これを握る資格はないからな」

 何も、あなたの頭に刺さなくたっていいでしょうに。聖なる石とか、何かあったでしょ。

「試しに引き抜いてみるといい。ビクともしないはずだから」

 そう言ってトマさんは、少しだけ水の中に体を沈め、僕が斧を触りやすい高さになってくれる。トマさんが近づく。手を伸ばせば、斧が手に届く距離。

「では、失礼して……」

 柄の部分を握り、僕は軽く引っ張る。

 ――すぽん。

「え?」

「え?」

 僕とトマさんの間抜けな声は、ほぼ同時に発せられた。

 抜けたのだ。伝説の斧【小野田】が、僕の手によって引き抜か――。

 僕は急いで斧を戻す。

 沈黙。

「……今、抜けたんじゃ――」

「抜けてません!」

 トマさんの言葉に被せて、僕は凄まじい剣幕で答える。トマさんが少し怯む。

「でも今、何だか頭が軽く――」

「抜けてません!!」

「もしかして、選ばれし――」

「抜けてません!!!」

 ついにトマさんは、そうかと小さく呟いて、その話はしなくなった。




 キャンプしている人を見るとキャンプしたくなるもの。しかし僕は遠くの素敵な山に安くない交通費をかけて行く気力もお金もなかったので、近くの山にレジャーシートと食べ物を持って出かけていたのだ。よく考えると、これではキャンプというよりピクニックである。

 そのキャンプもどきの先で出会った、聖なる斧【小野田】の守護者であるトマホークことトマさんは、自分が目覚めたのにはきっと何か理由があるはずだということで、なんと僕の住んでいる街に行って勇者を探し出すと言い出した。大迷惑この上ない。頭に斧の刺さった大男が街中に現れたら、穏やかに暮らしていた人々はきっと悲鳴をあげるだろう。何か凶悪な事件が起きたのだと思うだろうし、何ならトマさんが凶悪な事件の犯人のようにさえ思える。

 繰り返しになるが、彼が目覚めたのは僕が落としたゼリー缶のせいであって、そこに深い理由はないはずだ。決して巨悪が目覚めようとしているとか、世界が闇に包まれたとか、そういった兆しは何もないのだ。世界はまだまだ元気で、終わりなんて近づいちゃいない。むしろ、トマさんによって穏やかな日常が壊れ始めそうな気さえする。

 トマさんは「ゼリー」という食べ物にひどく感動したようで、今も僕の後ろで、先ほど僕が彼のためにコンビニで購入したゼリーを、とても大事そうに、歩きながらスプーンでちまちまと食べていた。体も口も大きいが、その所作からは女々しさを感じる。ひと口が小さいことをアピールする女子のようだ。繰り返すが、彼にそんな女子力アピールの意図はない。トマさんは本当に、大切にゼリーを食べているのだ。頭に斧が刺さったまま長いこと水中で暮らすとこうなってしまうんだ。気をつけろよ、僕。そして全ての人類。

「トマさん、その斧痛くないんですか?」

 頭に斧が刺さったままゼリーをちびちび食べているガチムチマッチョのおっさんと無言で街を歩くのはなかなか苦痛であったので、僕は世間話のようにそんな話題を振った。振ってから僕は、「その斧、痛くないの?」なんて世間話がどこの世界に存在するのかと悩む。

「もちろん、痛くない。むしろ安心感さえ覚えている」

 頭に斧が刺さっていることによって安心する人間がいったいどこに――。

 僕は頭を振る。いや、こうなったのは僕のせいなのだ。彼は何も言わないが、僕は勘付いている。彼が僕についてくるのは、僕が伝説の勇者だと思っているからだ。うっかり僕が彼の頭に刺さった伝説の斧【小野田】を引き抜いてしまい、それを必死に否定したのを怪しんでいるに違いない。これからは、知らない人に「この斧抜いてみてください」と言われても決して手を出さないことを誓おう。

 僕たちは山を降り、近くにある公園のベンチに腰かけた。トマさんの肩幅はやたら発達しているので、並んで座るととても狭苦しい。今更僕だけ隣のベンチに座るわけにもいかないので、僕は少しだけ、トマさんとは反対の向きに上体を傾ける。

 公園にはお母さんと遊ぶ子どもの姿が何グループか見られたが、トマさんを見るとお母さん方は子どもを抱えて逃走した。

「この公園には、たくさんの人が訪れます。きっとその中に、トマさんの求める勇者がいるはずです」

 僕は遠くを見ながら言う。笑っちゃうほど、その言葉に根拠はない。

 今すべきことは、僕が選ばれし勇者ではないことを証明することだった。そうしなければ、きっとトマさんは僕の家までついて来る。それだけは避けたい。何が悲しくて、ガチムチマッチョメンと同じ屋根の下で暮らさなければならないのだ。

 しかし、僕は実際に彼の頭から【小野田】を引き抜いてしまったわけだし、僕に勇者を期待する眼差しが向けられているのを今更覆すことは難しい。そうなると、「別の勇者」が現れてくれるのが一番よかった。僕以外にもこの【小野田】を引き抜ける人がいたとすれば、その人を勇者として祭りあげればいいのだ。責任、というかおっさんを押しつけることになるが、今まで僕は人にやさしくしてきたつもりだから、少しくらい自分勝手になってもいいだろう。

 もし……。もしあの時、僕が本当に【小野田】を引き抜いていたとすれば、僕には勇者の血が流れている可能性があり、僕の親戚の中には誰かしら、僕と同じように【小野田】を扱うことができる者がいるはずだ。

 トマさんがベンチでゆっくりとゼリーを食べているうちに、僕はスマートフォンのメッセージアプリを起動してイトコたち数人にメッセージを送る。

「おっさんの頭に刺さった伝説の斧を抜いてみないか?」

 完璧だ。依頼内容を端的に言い表している。これだけしっかりした文章であれば、話が違うじゃないかと怒られる心配もないだろう。これが、伝説の剣を抜いてみないか、だと大嘘になるが、間違いなくこれは斧だし、間違いなくそれはおっさんの頭に刺さっているのだ。トマさんに出くわした直後は混乱していたが、冷静になってもやはり斧は刺さっていた。これは夢じゃない。僕はおかしくなんかないぞ。間違っているのは僕でも世界でもない。トマさんの方だ。

 スマホがメッセージを受け取った。僕は急いでアプリを開く。来るか? 来てくれるのか、我がイトコたち?

「頭おかしくなったの?」

 ただそれだけのメッセージ。僕はスマホを投げた。




 証拠写真として盗撮したトマさんを送ってみたものの、イトコたちは返信をしてくれない。無視しているのか、あるいは僕のアカウントをブロックしたかのどっちかだろう。

 僕自身は決して情報を広めてはいないのだが、斧を頭に刺したマッチョのおっさんが公園にいれば自然と怖いものみたさの観衆ができあがる。オーディエンスの彼らに斧を引き抜いてもらおうとするも、トマさんから【小野田】を引き抜くことのできる勇者は現れなかった。挑戦者が失敗する度にトマさんは僕のことを意味ありげに見るのだが、僕はその視線に気づかないフリをする。

 そんなことを1時間ほど続けていたのだが、平穏な時間は突然破られた。

「―――――――――――!」

 大きすぎる音が、上空より聞こえたのだ。鼓膜が破れたのではないかと思われる爆音。ちょうどマイクがハウリングを起こしたかのような、キーンとした大音量。そこにいた誰もが耳を塞ぎ、その瞬間に空の異変に気づいた。

 シルエット。巨大な人型のシルエットが、青い空に浮かんでいたのだ。僕を含め、その場にいた人たちは何が起きているのかわからない様子だった。

「この邪気は……!?」

 唯一耳を押さえないでいたトマさんが、そんなことを言ったのがかろうじて聞こえる。彼の表情は、騒音に苦しむ僕たちのものとは違っていた。

「―――――――――――!」

 再び、壊れそうな音。僕はトマさんに向かって叫ぶ。自分の耳を塞ぎながらだったので、きちんと発音できていたかはわからない。

「トマさん、あれはいったい!?」

 トマさんが首を振る。さすが、この世の理から外れた聖なる存在。実際の肉体を有していないため、大きな音くらいではビクともしない。

「わからないが、邪悪な存在であるのは確かだ。どうやらここら一帯の人々に対して同時に語りかけているために、やたらと音が大きくなってしまっているらしい」

 邪悪な存在って、何だ?

 いや、邪悪な存在はどうでもいい。問題はその、邪悪な存在が出しているというこの騒音だ。これじゃあまともに意思疎通もできない。

「すみませーん! 脳内に直接語りかけてくる感じでお願いしまーす! 音が大きすぎて逆に聞こえませーん!」

 頭を押さえながら、僕は空に向かって思い切り叫ぶ。

『――ああ、それはすまなかったな』

 耳を塞いでいるのに、やたらとくぐもった声が体内に響いた。自分が発した声なのかと錯覚したが、僕は何も喋っていない。周囲の人たちもきょろきょろとあたりを見回しているので、おそらく今の声は他の人にも聞こえたのだろう。

『反応が思った感じじゃなかったからどうしたのかと思ったのだが、まさか音割れしていたとはな。すまないが、最初からやり直してもいいか?』

 どうやら声の主は、ちゃんと聞き取れなかった僕たち人類のために、最初から話をしてくれるらしい。

「はーい! お願いしますー!」

 僕は叫ぶ。向こうは脳内に直接語りかけているのでさほど苦痛ではないだろうが、僕は空の向こうにいるであろう「邪悪な存在」に声が届くように言っているので、喉が枯れそうになる。

『では、いくぞ。――フハハハハ! こんなところにあったのか、聖なる斧【小野田】!』

 今度は、ちゃんと聞き取れた。オーディエンスの方々も、耳から手を離す。

 どうやら、声の主は聖なる斧【小野田】を探していたようである。ここまで理解するのに、やたらと時間がかかった。

『我は、魔王ジャクナール・ザイソン! 宇宙の支配者だ! 今、貴様たちには宇宙から話しかけている』

 話しかけている、か。なかなかお茶目な響きだ。

 ジャクナールは続けた。

『先ほど、聖なる斧【小野田】が引き抜かれたときに発せられる強いエネルギーを感じた。どこからその気配が来たのか、近くの惑星をしらみ潰しに探していたところよ』

 僕は叫ぶ。

「引き抜かれただって!? いいや、【小野田】はまだこの通り、守護者トマホークの頭に刺さったままだ! 勘違いです! 帰ってください!」

 切実な願い。オーディエンスも「そうだそうだ!」と同調してくれる。

『いいや、間違いない。我は騙されんぞ。ほんの2時間ほど前に、【小野田】のエネルギーを感じたのだ!』

 2時間前。ちょうど、僕がトマさんと出会ったぐらいの時間だ。

 ……まさか。

『ここに辿り着くまでに、つい無関係な惑星を4つほど破壊してしまったよ。いや、脆い脆い。脆すぎる! 我の絶対的な力の前には、惑星など蟻も同然!』

 僕だ、僕のせいだ。

 僕がうっかり【小野田】を抜いてしまったために、ジャクナールの絶対的な力の前に、無関係な惑星が4つほど破壊されてしまったのだ!

 ジャクナールが言った。

『邪悪なる者を消滅させうる聖なる斧【小野田】……。しかしそれが我の手に落ちてしまえば、何も恐れるものはない! 斧が引き抜かれた気配はしたが、どうやらそれを扱う勇者はそこにはいないらしい。さあ、【小野田】の守護者とやら。私の元へ来たまえ。さもなくば、この地球ごと貴様を滅ぼすまでよ! フハハハハ!』

 なんてこった。笑いごとじゃないぞ、ジャクナール。笑うんじゃない。

 僕は焦る。オーディエンスの反応は様々だった。ジャクナールの言葉を鵜呑みにしてパニックに陥る者。ありえねぇよと笑っている男性。怖がる子どもに、祈る高齢者。

 彼らに罪はない。彼らはただ、頭に斧が刺さったおっさんを見物しに来ただけなのだ。

「――わかった」

 トマさんが、静かに言った。覚悟を決めた、おとこの言葉だ。

「ゼリーのある、すばらしいこの惑星を、消滅させるわけにはいかない。――必ず地球を見逃すと誓えるか?」

 トマさんが空に向かって堂々と叫ぶ。ジャクナールの、低い笑い声が聞こえた。

『ああ、約束するとも。我は、誇り高き魔王だからな』

 魔王の言葉なんか、信じられるものか。

「行かないで、トマさん!」

 子どもの声がした。男の子の声に、オーディエンスも続く。

「トマさん!」

「トマさん!」

「あんなやつやっつけろ!」

「トマさん!」

 トマさんを応援する声が、公園中に響いた。トマさんはその声に驚いている。感動しているようだったが、やがてすぐに顔に影を落とした。

「私はただの守護者。あれだけの強大で凶悪な魂を、私がどうにかできるとは思えん。すまないな、みんな……」

 暗く、重苦しい声のトーンに、オーディエンスも黙りこくってしまう。

「――だが、相打つことならできるかもしれん」

 僕は顔をあげる。周囲の人たちも、ハッとなった。

 トマさんが、一歩踏み出す。このまま、ジャクナールのところへ突っ込んでいくつもりだろうか。

 いいのか、それで。


「――その必要はないよ、トマさん」

 僕は二歩、前に出る。トマさんよりも、前に。

 トマさんの方を振り返ると、彼は驚きの表情を浮かべていた。そして、それよりも驚いていたのはオーディエンスだ。

 僕は手を伸ばしながらジャンプする。背の高いトマさんの頭に、かろうじて手が届いた。聖なる斧は、僕の右手に握られ……。

 引き抜かれた【小野田】。僕はジャクナールがいるであろう上空を見上げる。宇宙から話しかけていた、邪悪なる存在と対峙した。

 こちらから向こうの姿はロクに見えないが、向こうは僕の姿を見ているはずだ。僕の姿は、さぞ滑稽に見えるだろう。僕は勇者らしい格好をしていない。硬そうな鎧も、高価そうなマントもないのだ。

 だが、これがある。

「届けええええええ!」

 片手で握れるサイズ感であったため、【小野田】を空中に投げることは簡単だった。

 聖なる斧だから、そのまま真っ直ぐ宇宙まで届いてくれるんじゃないかと思ったが、僕の期待とは裏腹に、公園の木の高さを越えたあたりで、【小野田】は停止する。

 だめだ、届かない!

 そう思った矢先、【小野田】が光を放ち、僕たちの視界を真っ白に染め上げた。

『うおああああ!』

 ジャクナールの叫び声が聞こえる。次第にその叫びは途切れ途切れになり、ついには沈黙が訪れた。

 放たれた光が強すぎて、僕はしばらく目を開けることができない。公園が、魔王が、世界がどうなったのか、把握できないでいた。

 少しずつ、目を開ける。周囲の人たちもそれは同じだったようで、次第に彼らもあたりを見渡し始めた。

 まるで数分前の出来事が夢だったかのように、上空には何の影も浮かんでいない。脳内に直接語りかける声もなかった。トマさんが空を見上げている。頭には【小野田】の刺さっていた跡が残っているが、肝心の小野田が見当たらない。

「――邪気は消えた。魔王は消えたのだ、青年」

 トマさんが言った。満足そうな笑みを浮かべながら。

 取り戻された平穏に、周囲の人々は歓声をあげようとしたが、ひとつの変化にそれは遮られる。トマさんの体が、少しずつ発光していくのだ。光は段々と強くなる。

 いや……。トマさんが光に包まれているのか、トマさんが光の粒になっているのか、見分けがつかない。

「私の役目も、これで終わりか……」

 何かを悟ったような顔。

 役目は終わり? ということはまさか、トマさんは消えてしまうんじゃ――!

「トマさん! 消えちゃダメだ!」

 僕は叫ぶ。それに応えるように、トマさんはこくりと頷いた。

「ありがとう、青年。おかげで世界は救われた――」

 トマさんの姿が、見えなくなっていく。

「トマさあああああああん!」

 開いた口が塞がらない観衆。穏やかさを取り戻した公園の空。僕の叫び声が、残酷なまでにはっきりと響き渡る。




























「全然消えないじゃん」

 痺れを切らして、僕はついに口に出す。

 トマさんが光り始めて、おそらく5分ほどが経過した。

「誰も消えるとは言ってないぞ」

 腕を組んで、トマさんがやや不服そうに言う。

「じゃあどうしてトマさんは光ってるの?」

 同じく、不満げに僕が尋ねる。トマさんは頷いてから答えた。

「これは、【小野田】の入れ物である私を見失わないようにするためのシステムだ。遠くに投擲した【小野田】を拾いに行っても、これだけ光っていれば見つけやすいだろう?」

 見つけやすいだろう? じゃないわ。何だその謎システムは。

 僕は指を唇に当てる。

「――もしかして、【小野田】を見つけて頭に戻さないと、トマさんはずっと光り続ける感じ?」

「ああ、そうだ」

 彼は堂々と頷いた。




 と、いうわけで。

 僕が空中に投げた【小野田】を、オーディエンス総出で探すことになった。トマさんは公害レベルで光り輝いているので街中を歩くわけにはいかず、公園で待機することになる。僕が【小野田】を見つけて再び彼の頭に振り下ろすまでの90分間、彼はその勢いを落とすことなく、誰よりも光を放ち続けたので、ちょっとした神話になりかけた。

 さて、巨悪ジャクナールが滅んだので、これから先800年くらい、地球の平穏は約束されたも同然らしい。そうなると聖なる斧【小野田】はしばらく御役御免になり、必然的にその相方および入れ物であるトマさんも、世界の危機と勇者の誕生を泉の中で待ち続ける必要性がない。

 そういうわけでトマさんは、僕の住む街で暮らしていくことになった。かといってその辺に【小野田】を投げ捨てておくわけにもいかないので、相変わらず彼は頭に斧を刺したままであるが。

 冗談も言わないし通じないという堅すぎる人物ではあったが、誠実な人柄とどっしりした体格が安心感を与えるということもあって、すぐに街の人気者になった。 聖なる斧【小野田】を引き抜いておきながら、僕が改めて勇者の称号を辞退したので、代わりにトマさんが街の守護神のような立ち位置になる。彼のためにちょっとした神社のようなものが建立され、そこが彼の住処になった。


 その「トマ神社」には、今日もゼリーのお供え物が置かれている。賞味期限が切れてはもったいないからと、僕はトマさんに招かれて、お供え物のゼリーを一緒に食べることがしばしばあった。

 勇者だの何だの、そんな仰々しい呼び名はいらない。何よりも平和が大事だ。トマさんの頭に刺さった斧を見ながら、僕はそんなことを思うのであった。




(おわり)

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トマホーク小野田 柿尊慈 @kaki_sonji

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