第33話 春に芽吹く3

 介護ベッドに横たわるのは痩せこけた老人。肺を悪くしているらしく、人口呼吸器を付けてる。

 爺さんには、小さい時にもあまり会ったことがない。でも数少ない遭遇で、とっても怖い人っていう印象があった。

 昔は恰幅が良くて、いつも眉間に皺を寄せて怖い顔をしていた気がする。


「あなた。春樹ちゃんと陣が、帰ってきてくれましたよ」


 婆さんがベッドの脇で声を掛けると、閉じていた目が、震えながら開かれた。その瞳がゆっくり動いて、順番に、俺と陣さんを映す。


「春樹ちゃんは結婚するんですって。許嫁の女の子も一緒に連れて来てくれたんですよ」


 婆さんが爺さんの肩をとんとん叩きながら話して、爺さんの瞳はじっと、陣さんに向けられてる。だけど爺さんは何も言わず、俺に視線を移して手招きをした。

 ためらいながらも近付いた俺の手を、爺さんの皺くちゃな手が掴む。

 何か言おうとしてるけど肺が悪い所為か、声が小さくて聞き取れない。

 口に耳をぐっと近付けたら、やっと聞こえた。


たかしとその嫁が、すまないことをしたな。……あの馬鹿息子、俺と、同じ間違いを犯しやがった」


 たかしは俺の親父のことだ。でも同じ間違いってどれのことだろう。たくさん、思い付く。


「歳をとってから後悔するとも限らんが、今は聞く耳を持ちゃあしねぇ。あんたと一緒で……俺の二番目の息子は優しい子だったんだ。それを俺は……」

「……お爺様。俺、父ともう一度話をしに来たんです。見捨てられて当然の、どうしようもないことをした俺ですが……今は陣さんのところで、頑張ってます。会ってもらえるかもわからないけど、謝りに来ました」


 俺の手を掴んでいた皺くちゃの手。震えながら移動して、俺の頭の上に置かれた。くしゃりと髪を撫でられて、俺は目を瞬く。

 これ、陣さんと同じ撫で方だ。

 もう一度手招きされて爺さんの口元に寄せた耳が拾ったのは、不安そうな呟き。


「陣は俺を、許してくれるだろうか」


 俺は顔を上げて、爺さんに笑って見せた。


「話してみてください。陣さんは、俺が世界一尊敬してる人です」


 そうか、って爺さんの唇が動いて、微かにだけど嬉しそうに見える。

 俺は立ち上がって陣さんを呼んだ。

 陣さんの表情は硬い。でも迷わず立ち上がって、爺さんのいるベッド脇に膝を付いて座った。

 俺達みんなが見守る先で、最初に動いたのは爺さんだった。皺くちゃの手が陣さんの肩を掴んで、みるみる爺さんの目には、涙が溜まっていく。


「陣……すまなかったっ」


 振り絞るような声。俺の耳にも届いた。

 途端に陣さんの顔がくしゃりと歪んで、陣さんは泣きながら、笑う。


「会いたかったです、お父さん。……俺、ずっとあなたと、話をしたかった」


 陣さんは俺と同じだ。グレて、迷惑かけて、追い出された。

 レストランで修行して、シェフになって立派になってから謝りに来たけど爺さんは、陣さんに決して会おうとしなかった。俺の親父も、誰もだ。

 だけど今。陣さんに、望んだ「いつか」がやって来た。

 俺の親父とはまだどうなるかはわからないけど、陣さんは両親と、やっと話せるんだ。

 何十年越しの想いが届けばいいなって願いながら俺は、隣に座る唯さんと手を繋いで、黙って見守っていた。


 陣さん達の涙と会話が一段楽してから唯さんを紹介したら、大喜びされた。

 本家の長男だけど勘当された身だし、爺さんも丸くなったのか、嫌な反応は特にされなくてほっとした。きっと全盛期の爺さんだったら猛反対したんじゃないかなって、俺は思う。


 その夜の夕飯はご馳走だった。


 爺さんのベッドがある部屋に机を出して、婆さんと陣さんが一緒に台所に立って作った料理をみんなで食べた。

 婆さんは陣さんが作った物を嬉しそうに食って、陣さんは婆さんの作った物を、噛み締めるようにして食べていた。


 食事の後片付けも風呂も終えて、並べて敷いた布団に俺は倒れ込む。


「お疲れ様でした」

「運転が?」

「他にも、いろいろ」


 俺の横で正座して、唯さんが頭を撫でてくれる。俺はのそりと動いて彼女の膝に頭を乗せた。


「明日が俺にとってのメインイベント。……釣り、早くしてぇなぁ」

「そうですね」

「釣り針にエサを付けるのに四苦八苦する唯さんを、早く見たいです」

「もう、意地悪なんだから」


 見上げた唯さんの唇は微かに尖ってる。でも柔らかい表情で、俺の頭を撫で続けてくれる。


「ここに嵌める物用意するために頑張るからさ、勇気を分けて」


 唯さんの左手握って薬指を撫でながら言ったら、顔を赤くした唯さんが、額にキスをくれた。


「死なないように祈っててください」

「死んだら困りますよ」

「昔殺されかけたからなぁ。でもまず、会ってもらえるかが先か」

「……待ってるから、帰ってきてくださいね?」


 俺が変なこと言った所為で、唯さんの瞳が不安そうに揺れてる。

 手を伸ばして唯さんの頬に触れて、俺は彼女を安心させるために笑った。


「ちゃんと帰ってくるから、良い子で待っててくださいね」

「……うん。待ってる」


 手を引くと唯さんは俺の隣で横になって、俺たちはお互いを抱き締めるようにして目を閉じた。


   ※


 身に纏ったのは陣さんからもらったスーツ。

 持ってて損はないって言って陣さんが買ってくれたんだけど、今まで一度も着るチャンスがなかった物だ。

 ケジメつけるなら服装もちゃんとすべきだろうと思って、それを着た。


 婆さんの家の車の運転席に、俺が座る。

 助手席は陣さん。後部座席には婆さん。唯さんは、申し訳ないけど留守番をしてもらってる。何がどうなるかわからない場所に、彼女はまだ連れて行けない。

 この件に関する協力者は婆さんだ。

 俺一人だと絶対に会ってもらえないから、婆さんが用事があるってことで、親父と母さんに会う約束を取り付けてくれた。

 ここにいた頃と今の俺の見た目は全然違うから、気付かれなかったりしてって考えて、少し不安。

 婆さんが一緒で車も婆さんのだから、敷地内には問題なく入れた。


 駐車場に車を止めて降りると緊張が増した。約五年ぶりの実家だ。

 婆さんの付き人の振りをしながら廊下を歩いて、懐かしさを感じる暇もなく、緊張がどんどん増していく。

 同時に不快な記憶が頭を巡り始めて、俺の手のひらには嫌な汗が滲んだ。


「そばにいる」


 ぼそりと陣さんに言われて、俺は頷いた。

 通された部屋で、婆さんの後ろに控えるようにして、俺と陣さんは並んで座ってる。俺は小さく深呼吸して、なんとか気持ちを落ち着けた。


 部屋に通されて少し経ってから、襖が開いて親父と母さんが入って来た。

 二人の後ろには東京にいるはずの一葉までいてギョッとしたけど、俺は付き人らしく頭を下げる。


「お母さんのご用は、そこにいるそれのことですか?」


 畳に正座で座った親父が視線で指したのは陣さんだ。やっぱり俺のことには気付いていないらしい。

 俺は目を伏せたまま、じっと様子を窺う。


「貴、血の繋がった弟をそれ呼ばわりするものじゃないわ。陣は、お父様と和解したのよ」

「それはそれは。死んでも和解は叶わぬものと思っておりましたよ」


 唇を歪めて蔑むように、親父は陣さんを一瞥した。でもすぐに興味無さそうに、婆さんへと視線を戻す。


「ご無沙汰しています、お兄さん」

「……あのゴミをお前が引き取って以来か。しょうもないゴミを回収してくれたことには感謝している」

「春樹はゴミなんかじゃない」

「はっ。似た者同士、傷の舐め合いか」

「貴、いい加減になさいっ」


 そのゴミはここにいるんだけどな。

 どうやら母さんも俺に気付いていないようだし、両親の様子に少しだけ、悲しくなる。

 二人の後ろに控えてる一葉は無表情を装ってるけど、膝の上の拳が微かに震えてた。

 陣さんも婆さんも、俺のために怒ってくれてる。このままだと無意味な言い争いになりそうだから俺は、正座したまま身を前に滑らせて注意を引いた。


「ご無沙汰しております。嘗てお掛けしたご迷惑、ご苦労について、お詫びするために参りました。この世に産んで頂き、育てて頂いたご恩を仇で返す行いをしてしまったこと、心から悔いています。本当に、申し訳ございませんでした」


 畳に額をすり付けて土下座する。

 部屋の中が静まり返って、誰も、何も言わない。

 俺は上半身を起こしてから、親父と母さんの顔を順番に見た。二人とも、困惑が表情に現れてる。


「ゴミの顔、忘れてしまいましたか? 春樹です」

「んなっ、何をしに来た! この家の敷居は二度と跨ぐなと」

「詫びを入れに来ました」

「詫びなどいらん! 出て行けっ!」

「あなたまた、一葉の足を引っ張る気じゃないでしょうね?」


 金切り声で叫んだ母さんは、一葉に擦り寄ったけど避けられてる。

 親父は立ち上がって、わなわな震えながら俺を睨んだ。


「俺がしたことは許されないことなのだとわかっています。でも俺は、前に進みます。ちゃんと生きます。許してくれとは言いません。ただ謝りたい」


 何十年後だって構わない。俺にも「いつか」は、来るだろうか。

 俺一人の想いだけではそれは叶わない。だから、前に進むため、最初にすべきことをする。


「父さん、母さん。迷惑ばかり掛けて、期待に応えられなくて、出来の悪い奴でごめんなさい。本当にごめんっ」


 畳に額を擦り付けてる俺の耳に届いたのは、二人分の足音が乱暴に遠ざかる音。


「あの二人こそ兄さんに謝るべきなのに」


 忌々しそうに吐き捨てられた一葉の声を聞いて、俺は顔を上げた。


「詳しいことはまた会った時に話そうね。あの二人のことは僕に任せて」


 俺のそばに屈んだ一葉はにっこり、邪悪な笑みを浮かべる。それを見て、俺は苦く笑った。


「報復とか謝罪とかは望んでない。俺は、あの人達が俺にしたこと以上の行動で仕返しをしちまってる」

「……うん。でも僕にとっては、兄さんが一番なんだ」


 一葉は囁くように言って、目を伏せる。鼻から息を吸ってから視線を上げると再び笑みを浮かべ、今度は婆さんを瞳に映した。


「お祖母様。今度僕もこっそり、伺ってもいいですか?」

「えぇ。でも……一葉ちゃんの立場が悪くならないかしら」

「大丈夫です。上手くやりますから」


 食えない笑みを顔に浮かべた一葉は、ひらひら手を振って部屋を出て行った。


「あいつは本当、いい性格してるよな」


 陣さんの、呆れたような感心したような呟きに、俺は苦笑で答える。その様子を見ていた婆さんが、頬に手を当てて不思議そうに呟いた。


「一葉ちゃんと春樹ちゃんは、今でも仲良しなのかしら?」

「はい。お祖母様が願ってくれた通りに」

「そう。それは……とっても良いことだわ」


 嬉しそうに笑った婆さんの顔は、陣さんの笑顔とそっくりだった。


   ※


 爺さん婆さんと交流して、唯さんの釣り初体験をした小旅行から戻って来てからも俺の日常は変わらない。


 毎日仕事して、修行して、勉強して。

 子猿や弟の相手をしたり、唯さんとイチャイチャしたりする。


 唯さんの生涯の伴侶ポジションを予約するための指輪は、二人で買いに行った。

 毎日身に付けてもらいたいから「俺が付けて欲しい物」じゃなくて「唯さんが毎日付けたい物」を選んでもらったんだ。

 本当は男がこっそり用意してサプライズしたりするものなのかなとも思ったけど、予約じゃなくて、本番でそれをしようと思ってる。


 唯さんは、夏が来る前に新しい就職先を見つけた。

 喫茶坂の上の近くにある、小さな会社で経理の仕事。彼女も前に進むことにしたらしい。


 坂の上では、昼のピークと休憩回しの時に来てくれるパートさんを雇った。


 いつもの時間は少し変わって短くなったけど、唯さんは会社の昼休憩時間に、店に来る。

 いつもの時間。いつもの席で、いつも同じ注文。

 静かなジャズが流れる店内で二人きりになれる時間はなくなったけど、同じ家に住んでるから、いつでも二人きりになれる。


「いつもの、ですか?」

「はい。いつものをお願いします」


 店に来た唯さんに水とおしぼりを運んで口にするのは、お決まりの台詞。

 彼女のお気に入りのミックスサンドを作って、ブレンドを淹れて持って行く。


「ごゆっくりどうぞ」

「ありがとうございます」


 笑顔で美味しそうにミックスサンドを頬張って、珈琲を飲む彼女を、俺は見守る。

 見守って、食べ終わった彼女に近付いた。


「フォンダンショコラは今日はないですけど……これ、受け取ってくれますか?」


 微かな音と共に机の上に置いたのは、手のひらサイズの箱。

 きょとんとした表情で首を傾げた彼女は箱を手に取り、開けるとみるみる、顔が赤くなっていく。


「調理師免許取った後も予約のまま待たせてしまいましたが、俺とお揃いで、付けてくれませんか?」


 唯さんが選んで今も付けてくれてる予約の指輪。手を伸ばして指先で撫でながら、俺の心臓は緊張の所為で早鐘を打ってる。


「……結婚しよう。唯」


 彼女が固まったまま答えをくれないから俺は、身を屈めて耳元で囁いた。

 家でまったりしてる時がいいか。レストランでも予約すべきかいろいろ考えて悩んだ。

 でもこれが、俺達らしいかなって思ったんだ。


「もう! 不意打ちです! いつまで私を翻弄するつもりですか!」

「一生。俺に翻弄されて、俺を翻弄してください」

「……仕方ないですね」


 赤い顔で唇尖らせて、わざとらしく渋々感を唯さんは出す。でもそれはすぐに崩れて、嬉しそうな笑みに変わった。


「よろしくお願いします」

「こちらこそ」


 店内でキスは出来ないから、軽く手を握り合う。

 珈琲の香りに包まれるここで俺は、寄り添って微笑み合える、生涯の伴侶に出会った。

 俺の「いつか」はまだまだ来そうにないけど、大事な弟も協力してくれてるし俺も諦めないから、きっといつか、手に入れる。

 その時が来たら陣さんも唯さんも一緒に、家族で話が出来たらいいなって思うんだ。


 静かな店内。

 控えめに流れるジャズ。

 いつもの席で珈琲を飲む彼女と俺の時間は、ゆったり穏やかに、流れていく。

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いつもの席で珈琲を よろず @yorozu_462

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