ガム狂の詩

塩塩塩

ガム狂の詩

 夫の運転で夫婦は楽しくお喋りしながらドライブをしていた。傍目には、お洒落で落ち着いた雰囲気の素敵な若夫婦だった。


 妻は言った。

「眠たくない?ガム食べる?」

 妻はグリーンガムを包み紙から半分出して夫の口元に近付けた。

 夫は言った。

「ガムか、久しぶりだな」

 夫はよそ見運転をしない様に前を向いたまま、ガムを口に入れた。


 夫は思った。

 いや待てよ。そうじゃない。ガムを食べると表現するのは適切なのだろうか。

 ガムは最終的には吐き捨てるではないか。

 飲み込まない物を食べると表現して良いのだろうか。それはいけない。

 という事は、ガムは食物ではないのだ。

 それに一度口に入れたものを吐き出す様に強いるとは、ガムは何と下品な物だろうか。

 食物なら粗末にしてはいけない。これは世界の常識だろう。

 しかし、ガムは食物ではない上に、極めて下品であるから、粗末にしても構わないという事になる。

 いや、むしろ粗末にすべきという事ではないだろうか。そうだ、これはガム側の謙遜だ。うむ、そうに違いない。

 だがしかし、だからこそ如何に粗末にするかというのが、噛む側には問われてくるはずだ。

 …おっと危ない。これは迂闊に噛めないぞ。こいつは一旦、口の中で保留だ。


 夫は言った。

「おい、お前危なかったぞ。それと『ガム食べる?』は可笑しいぞ」

 妻は言った。

「ん?何が?」

 夫は言った。

「何ってお前…いや、ガムありがとう」

 妻は言った。

「あはは、変な人ね」


 妻は思った。

 おい、変人。誰に向かって言うとんのじゃ。

 糞ジジイめ、体が痒なってきたぞ、見つけ次第ムヒ屋かウナコーワ屋へ寄れ。

 わしゃ、お前がペラッペラ喋りよるから、口封じにガムを食わせとんのじゃ。気付けよ阿呆め。黙れよ阿呆め。ドライブ終わり次第、速やかに天寿を全うせい。

 アズスーンアズポッ死ブル。

 プリーズ保険金。


 夫は思った。

 俺よ待て、早まるな。妻は俺の事を想い『事故をしない様にとガムを勧めてくれた』のではないか。

 …いや、これではネガティブだな。俺は言霊を信じるタイプの人間だ。よって、今のは無しだ。ポジティブに言い直すぞ。

 『安全な運転が出来る様にとガムを勧めてくれた』のではないか。よし、これで良い。言葉はやはり気を付けて選ばないといけない。

 おっと脱線してしまった。つまり、妻のその優しさを汲むでもなく『ガムを食べる』という言葉尻に噛み付く程に、俺は小さい人間なのであろうか。否、俺は大きい人間だ。

 そう、それは正にゾウぐらいに。


 夫は言った。

「おい、お前。俺はだいたいゾウぐらいだぞ。それもアフリカゾウぐらいだ。インドゾウより大きいのだ…」


 妻は外の景色に見とれて、ゾウの話は聞こえていない様だった。


 夫は思った。

 良かった、聞こえていなかった。危なかった。俺が馬鹿だと思われるところだった。突然ゾウの話はすべきではなかった。

 しかし、何故俺は危うく馬鹿になりかけたのだろうか。ゾウさんになりかけたのだろうか。

 そうだ、ガムさんだ。今、俺の口の中に鎮座ましますこのガムさんのせいだ。ガムさんを如何に粗末にするか、それが問題さんなのだ。


 妻は思った。

 こいつ聞こえとらんと思うとんな。無視してやったんじゃ。しかし何じゃゾウて。全ゾウに踏まれろ、阿呆めが。

 ん?…おいおい、ちょっと待て待て。こいつまだガムを噛んどらんぞ。歯が無いんか。

 無歯無歯無歯むばむばむば

 糞ジジイめ、いよいよ頭沸きよったな。


 妻は言った。

「あなた、運転疲れたんじゃない、大丈夫?」

 夫は言った。

「あぁ、まぁな」


 夫は思った。

 確かに疲れたな。何故だ。何故疲れたのだ。そうだガムのせいだ。俺はガムを噛まずに口腔内でキープするのが、ここまで辛いとは思っていなかったのだ。今にもヨダレという名の悲しみが溢れそうではないか。

 悲しみがヨダレのように積もる夜には〜。

 …あれ、どこまで考えただろうか。そうだ、如何にガムを粗末にすべきかだ。

 しかし、粗末にするという事には罪悪感が伴うぞ。そうだ、ガムを噛むというのは、罪悪感を噛んでいると言い換えても差し支えない。

 つまり、ガムとは罪悪感で間違いない。


 夫は言った。

「もはや罪悪感だぞ、お前」

 妻は言った。

「へ?」


 妻は思った。

 はいクスリー!クスリキメとるの確定ー!

 さてはヒロポンか?糞ぅ、ろくに働きもしやがらんくせに、お前にメタンフェタミンは贅沢じゃ。

 心身共に麻薬犬の歯型だらけになれ。


 夫は思った。

 ガムが罪悪感だという事は、即ちガムのひと噛みひと噛みが悪行の積み重ねという事になるな。

 それでも尚、噛み続けなければならないという人間の業と矛盾、並びに背徳心と無頓着、それからイノセントに向こう見ず。それらを抱えながらも、噛んでゆくという強い意志が試されているに違いない。俺は意志薄弱ではないぞ。

 それと、問題はガムを如何に粗末にするかだ。それはまだ味のある内に噛むのを止めて、ガムを吐き捨てるという事ではないだろうか。そうだ、1分位噛んだらペッだ。よし、これだ。これに間違いない。

 待っていろよガム。


 夫はヨダレが溢れない様に、めいっぱい下顎を突き出していた。


 夫は言った。

ざぁ、はむろーさぁ、噛むぞー

 妻に言葉は無かった。


 妻は思った。

 猪木さんやん、顔面猪木さんですやん、新日なめとんのか…って、ワォ!

 糞ジジイめヨダレが溜まって溺れかけとるぞ。構わん溺れてしまえ、Mr.ヨダレ壺。

 カモーン保険金。

 おっとイカン、イカン!糞ジジイがハンドル握っとるから溺死はNGじゃ!NO無理心中!

 車を止めろ、ファッキンベリーマッチ!!


 妻は引きつった笑顔で、右手のピンと立ち上がった自らの中指を左手で包み隠した。


 その時、信号が赤に変わり、夫は急ブレーキを踏んだ。

 夫はシートベルトで胸部を圧迫された為、口から大量のヨダレと伴に一度も噛まれていないグリーンガムが、スローモーションでベローっと垂れ落ちた。


 が最もに垂れ落ちた。

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