第5話 虹の門出
もうもうと濃い土煙が上がる中、振り下ろされた二本の斧が深々と地面に突き刺さっている。不気味な沈黙の中、誰も動かない。動けない。言葉を発することすらできない。魔獣の青年の顔からは血の気が引き、魔法使いの少年は呆然と立ち尽くしている。操られている二体の魔獣は、電源を落とされた機械のように固まっている。
最初に動いて沈黙を破ったのは、アルドだった。少しずつ晴れゆく土煙の中、ゆっくりと立ち上がる姿が確認できた。その両手は空だ、子供の姿はない。即ち今回も、子供は幻だったということ。けれど、彼を嗤う者はなかった。我に返った少年が、顔を紅潮させて怒鳴りつける。
「な、何やってるんだよ! 死んじゃうかもしれないんだぞ!」
「ああ、そうだな……でも、それはあの子供も一緒だ。俺が何もしなかったら、あの子が死んでたかもしれない」
「でも、あれは幻だ! 判ってたんだろ! 幻なんかのために命を懸けるのかよ、あんたは!」
「幻だって保証はなかったよ。だったらそれは、命を懸ける理由になる」
「なんだよそれ……なんだよそれ!」
少年が叫ぶ。その目には大粒の涙が浮かんでいた。
アルドは理解した。彼もまた限界だったのだと。自分の行いを正しいとは思っていなかったのだと。自分の行動に、疑問を感じていたのだと。
けれど、アルドは理解できなかった。アルドの今の言動こそが、少年の心に痛烈な一撃を見舞ってしまったということを。今のアルドの姿は、死んだ青年によく似ていた。その事実が少年の心を乱したのだ。そして同時に、魔獣の青年の背中を押した。
「……ありがとう、目が覚めたよ」
その言葉はアルドに向けられたものか、それとも。
魔獣の青年が駆ける。動かなくなった二体の魔獣を迂回しようとはせず、真っ直ぐに。それはすなわち、アルドへの信頼の表れだった。アルドに視線を向けることなく、短く叫んだ。
「頼むぞ!」
「任せろ……!」
アルドは短い返事をした。取り落とした剣を拾い上げ、二体の魔獣と対峙する。魔獣たちはまだ動かないが、アルドは警戒心を緩めなかった。さっきまでの動きを見るに、通常の個体よりも戦闘能力が高いのは明らかだったからだ。操られているせいで、体の動きに本来あるはずの制限がかかっていないのだろう。魔獣たちの体は今頃、肉離れや捻挫、骨折が多発しボロボロになっているはずだ。
魔獣の青年は、二体の魔獣が動きを止めている隙にその脇を走り抜けた。少年が我に返ったのはその時だった。二体の魔獣が同時に、水平に斧を振りかぶる。斧の間合いを考えれば、魔獣の青年にはまだ届く。だが。
「……」
少年は躊躇った。動揺が尾を引いているのか、今更情が湧いたのか、誰かを殺すという行為に恐怖したのか。あるいは、死んだ青年との思い出という幻影に、自らの目的を見失ってしまったのか。その答えは、彼自身にもわからなかった。ひとつ確かなのは、この一瞬の躊躇が原因で魔獣の青年を素通りさせてしまったことである。
魔獣の青年は走る。あの時と違って、足取りは決して重くはなかった。なぜだろうと、他人事のように考える。背中を押されたからだろうか。恐ろしい魔獣と戦ってくれる協力者がいるからだろうか。
(……いや、違う)
分かっている、そうではない。彼の心の変化は、今に始まったことではないのだから。
あの日から、ずっと考えていた。青年の喪失は自分の弱さが招いた結果だ、繰り返したくなければ強くならねばならない。強大な敵とも戦えるように、強くならねば。けれどそのためには、戦わなくてはならない。戦って強くならねばならない。彼にはその勇気がなかった。
だから、彼には少年を止められなかった。少年の行為と思想は明らかに間違っていたが、それでも彼なりに戦おうとしていた。研鑽を怠らなかった。思うばかりで何もできない魔獣の青年より、幾分も上等であった。だから、協力するほかなかった。それ以外に、できることなどなかったから。
けれど、もしも。少年の計画が、正しい形で頓挫する時が来たなら。すなわち、誰かの純粋な善意に触れ、自らの罪を認めなければならない時が来たなら。その時こそ、きっと命を懸けよう。命を懸けて、彼を止めよう。きっとやれる。だって、敵と戦うのではないのだ。彼の忘れ形見を、守るのだ。
「うおおおおっ!」
魔獣の青年が雄叫びを上げ、自らを必死に鼓舞する。覚悟を決めていても、頼もしい味方を得ていても、怖いものは怖い。背後に斧を持った魔獣がいるという事実が、彼の全身を震え上がらせる。けれど、決して振り返らない。足は止めない。それは二人の勇敢で偉大な青年を、侮辱する行為だ。たとえ普段の歩みより遅くなろうとも、走ることをやめてはならない。一度止まれば、もう歩くことすらできなくなるだろうから。
決死の覚悟で青年が走り抜けた、直後。剣戟の音が高らかに鳴り響いた。魔獣の斧とアルドの剣が、何度も何度もぶつかり合う。その度に、アルドの口から小さく呻き声が漏れた。斧の魔獣の攻撃は、そのことごとくが重く鋭かった。防御が間に合わなければ、まず間違いなく体のどこかが欠けるだろう。しかし受け止めることができたとしても、その衝撃はアルドの全身を襲い、激しい痺れを発生させる。長期戦は明らかに不利だった。
「……」
だが、重い衝撃を浴び続けながらもアルドは冷静だった。だから気付いた、魔獣たちの攻撃が単純であることに。二体の魔獣は、交互に斧を大振りで振り下ろしてくる。それ以外の行動はとっていない。操っている少年の、実勢経験の不足による弊害であろう。付け入る隙はある。
(……けど、悠長にはしてられないぞ。早いとこ、タイミングを掴まないと)
全身に嫌な汗をかきながら、アルドは神経を研ぎ澄ませる。睨んだ通り、魔獣たちの攻撃のリズムは一定だった。激しい衝撃に耐えながら、機を待つ。一度、二度、三度……。四度目の攻撃、その交代の瞬間にアルドは両目を大きく見開いた。
「そこだ……!」
両足に渾身の力を籠め、カエルのように大きく跳躍する。魔獣たちは、防御の構えを取ることすらしなかった。アルドは跳躍の勢いそのままに、両手で握った剣を鋭く横一文字に振り抜く。一体目の魔獣は胴を両断され、噴水のように血を吹き散らしながらその場に倒れこんだ。
「まだだ……!」
着地してすぐ、アルドは振り返って二体目の魔獣と対峙した。魔獣はすでに斧を大きく振りかぶっている。一見虚を突いた攻撃のようであったが、さっきまでと全く同じ動き。読めないはずもなかった。アルドは落ち着いた様子で斜め前方に飛び込み、剣を振りかぶる。魔獣の斧とアルドの剣が、ほとんど同時に振り下ろされた。
着地と同時に、アルドが地面に片膝を着く。右肩付近には血が滲んで、じわじわと広がってゆく。アルドは痛みに苦悶の表情を浮かべ、動きを止めた。それは明らかな隙であり、斧の魔獣にとっては追撃するに絶好の機会だったが、攻撃は行われなかった。魔獣の体は左肩から袈裟斬りにされ、勢いよく血飛沫を飛ばしながらその場に倒れ伏した。アルドの勝利だった。
その様子を目の当たりにした少年は、首を大きく横に振った。
「違う、違う違う! あいつは強いんだから、助けに行って当然だ! 僕たちとは違う!」
「いいや、何も違わない。誰も違わないんだよ」
魔獣の青年は少年の目の前で足を止め、静かに告げた。その表情は悲しげであったが、同時に穏やかでもあった。
「彼は確かに強い。だが、勝てると踏んで行動を起こしたわけじゃない。……あの日のあいつと同じだ。勝てそうだから体を張るんじゃない。勝算があるから命を懸けるんじゃない。助けたいから、考えるより先に体が動くんだ」
「でも! 僕たちにはできなかった! 彼がやられるのを、黙って見ていることしかできなかった!」
「そうだ。だがそれは私たちの罪で、それ以上でも以下でもない。ほかの誰かの行動によって罪が軽くなることは決して……」
「分かってるよ、そんなこと!」
少年は涙交じりに叫ぶ。短時間の間に喉を酷使した結果、声は枯れ、ほとんど聞き取ることもできないほどだ。だが、魔獣の青年にはしっかり届いていた。仮に声が全く出ていなかったとしても伝わっていたはずだ。なぜなら少年の言葉は、思考は、想いは、絶望は、魔獣の青年が胸に抱えているそれと全く同じであるからだ。違ったのは、他人を巻き込んだ実験で自分たちの罪を少しでも軽くしようという、行動のみ。その計画も、アルドという協力者を得たことで頓挫しようとしている。彼が魔獣を倒したからではない。彼があの青年と同質の強さを見せつけたから、少年の心が揺れているのだ。今なら、届く言葉がきっとある。
「もう終わりにしよう。こんなことは無意味……それどころか、君の心を余計に傷つけるだけだ。自棄になって自分を見失っていたようだが、いたずらに他人を傷つけるなど本意ではないだろう」
「でも、だったらどうすればいいのさ!」
涙ながらに訴える少年に、魔獣の青年は沈痛な面持ちで告げた。
「……受け入れることだ。あの時何もできなかった罪を、あの時彼を助けられなかった弱さを、彼を犠牲にして生きているという責任を」
「……」
少年は答えない、答えられない。全身を震わせ、唇を強く噛んでいる。魔獣の青年の言葉に驚きはしなかった、なぜなら同じことをずっと考えていたから。それでも、改めて言葉にされると堪えた。
二人の間に重い沈黙が落ちる。けれど、それは長くは続かなかった。ゆっくりと近づいてくる足音に、二人が気付いたからだ。アルドだ。血が滲む傷口を右手で押さえ、痛みに顔を引きつらせながらも、二人に近づいていく。二人は呆気に取られて無言だったが、すぐに魔獣の青年が慌てた様子で口を開いた。
「ひどい傷じゃないか、動いてはだめだ!」
「……分かってる。でも、聞き捨てならなくてさ。このままだと、二人はまた間違った道を進むことになるから」
アルドの言葉に、二人は言い返せなかった。部外者は黙っていろ、と言うのは簡単なはずなのに、たったそれだけの言葉が出てこなかった。二人はすでに、アルドにあの青年を重ねて見ていたのだ。
「二人とも。助けられたことを罪だなんて思っちゃだめだ。生き残ったことを責任だなんて言っちゃだめだ。二人を助けた人は、そんな風に思ってほしいなんて、考えちゃいないはずだ」
「……分かってるよ、そんなこと」
答えた少年は、先ほどまでとは打って変わって消沈した様子だった。満身創痍の体で訴えかけてくるアルドの姿に、冷静さを取り戻した結果だった。
「それくらい、僕たちだって何度も考えたよ。彼は望んでない、僕たちは彼の分まで生きなきゃって……」
「違うんだ、二人とも」
少年の言葉を遮って、アルドは首を横に振った。二人の気持ちはよく分かる。助けられた命は、何か特別なことに使うべきではないのか。それこそが、助けてくれた者に報いる方法ではないのか。そう思おうとする気持ちは、そう思ってしまう心は、よく分かる。
だが、そうではない。アルドはそのことをよく知っていた。アルドには助けてくれた人を助けられる可能性ほんのわずか残っているが、それでも分かるのだ。生きなければ、と生きる。助けなければ、と助ける。それは違うと。
「……俺にも助けたい人がいるんだ。俺はその人に助けられた……でも、だからって助けなきゃいけないってことはないんだ。誰かの分まで生きるっていうのは、助けてもらった恩を忘れないで、自分らしく生きることだと思う。だから……」
思いの丈を、けれどアルドは吐露し切ることができなかった。言葉の途中で膝から崩れ落ち、その場に倒れこんだ。傷が思ったよりも深かったのだ。少年と魔獣の青年は顔を見合わせたが、すぐにアルドを介抱しユニガンに向かった。
それから三日後、アルドたちは再びカレク湿原に集まっていた。今度は剣呑な雰囲気はまったくない。少年と魔獣の青年の表情は、むしろ晴れやかですらあった。魔獣の青年が切り出す。
「怪我の具合はいいのか?」
「ああ、もうすっかり元気だよ。二人の方は、あれからどうしてたんだ?」
アルドが聞くと、二人は顔を見合わせて頷き合った。口を開いたのは、少年。
「僕たち、あれからみんなに謝りに行ったんだ。色んな人に迷惑かけちゃったから……まだ、半分も済んでないんだけどね。だから今日もこの後、二人で行くんだ。本当は、僕だけで行くべきなんだけど」
「半ば無理を言って、私も同行している。ややこしくなりそうだから正体は隠しているが……まあ、やりたいようにやっているということだ」
「そっか、それはよかったよ」
アルドが安堵したように頷くと、少年が照れ臭そうに切り出した。
「……ありがとう。兄ちゃんのおかげで僕たち、あれ以上間違えずに済んだんだ。それから……ごめんね。ひどいことたくさん言っちゃったし、ひどいことたくさんしちゃった」
「気にするなよ、終わったことじゃないか。それで二人は、やることやった後はどうするんだ?」
「二人で旅に出ようと思う。この子の修行と……私の勉強を兼ねて」
「勉強?」
「ああ、医者を目指そうと思ってな。薬草に詳しい医者を」
「それって、もしかして……」
アルドの言葉に、魔獣の青年は力強く頷いた。亡き青年の夢を継ぐという選択。それが、彼の分まで生きるという命題に対する一つの答えだった。
「心配はいらない。そうしなければという使命感や義務感ではなく、私がそうしたいのだ」
魔獣の青年の言葉に、少年が誇らしそうに笑みを浮かべた。
「いい案でしょ? 僕の魔法で心を癒して」
「私の知識と技術で体を治す。そういう生き方を二人で目指そうと思う」
「……いいんじゃないか。きっとその人も喜ぶよ、それが二人の選択なら」
「そうだといいが」
天を仰ぐ魔獣の青年は、少し自信がなさそうだった。目的や目標をもって生きるということが、彼にとって初めてのことだったからだ。一方でその瞳は、希望の光に満ちていた。
「では、私たちはそろそろ行くよ。それから、しばらくここには来ないと思う」
「そうなのか?」
魔獣の青年が頷くと、少年が困ったようにはにかんだ。
「ちゃんと勉強して、医者になったら戻ってくるんだって。別にそこまでしなくてもと思ったんだけど」
「けじめというやつだよ。ここは私たちにとって大切な場所だから……大切な時に戻ってこようと思ってね」
「困っちゃうよね、生真面目でさ」
少年の言葉に、アルドが笑った。きっとこれが、二人の本来の姿なのだろう。
「それで、行くアテはあるのか?」
「特にないよ。着の身着のままで、気持ちの赴くままに旅をするつもりだ。……世話になったな」
「本当にありがとう、兄ちゃん」
「ああ、気をつけてな」
二人がアルドに背を向ける。するとすぐに、魔獣の青年が言った。
「あんたは、助けられるといいな。応援してるよ」
「……ああ、ありがとう」
アルドが力強く答えると、二人は振り返らず歩き出した。アルドは二人の背中が見えなくなるまで、その場を動かず見守った。
「……あの二人はきっと大丈夫だよ。だからあんたも、安心して見ててやってくれよな」
呟くと同時、そよ風が吹いた。暖かく、優しく、けれどどこか力強い。それは二人の新たな門出を、祝福するようであった。
二人の背中が見えなくなったのを確認して、アルドはその場を立ち去ろうと踵を返した。正確には、返そうとした。けれどそれは叶わなかった。突然空にかかった鮮やかな虹に、目を奪われたからだ。美しかった、けれど同時に妙でもあった。雨が降ったわけでもないのにどうして……。
「あ、ひょっとして」
アルドは気付いた。きっと、あの少年の魔法だ。彼らなりの、別れの挨拶だ。結局、虹が消えるまでアルドはその場を動かなかった。
助ける理由 天星とんぼ @shyneet
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