第46話 ある村での出来事 ー2ー
黒の館の一階は、本棚が置かれているスペースと、その本を読むための椅子が置かれたスペースに分かれており、その北東の一角にいつも私が座る丸椅子があった。
この黒の館を訪れて以来、私はずっとその椅子に座り続けており、その丸椅子は、半ば私専用の椅子と化していた。
私は今日もその椅子に腰をかけ、虚ろな目で古代アッカルク語辞典を眺める。以前アシュリーから勉強するように言われていたあの本だ。
だが、いくら文字を眺めても、全然内容が頭の中に入ってこない。
虫たちの鳴き声がキンキン耳の奥に響き、村人たちの声も煩わしく感じた。すべて館の外から響いてくる小さな音だというのに……
私はその音が気になる度に、姿勢を変え、座る向きを変え、ついには座る椅子まで変えてみたのだが、どうも上手くいかない。
風邪をひいた時のように頭がふわふわして、何も脳みそに入ってこないのだ。
もちろん原因は分かっていた。
ゾビグラネの死だ。
彼の死が私から集中力を奪っていたのだ。
私は大きく息をついた。
何も手につかない、とはこのことだ、と思った。
私はゾビグラネの死に少なからずショックを受けていた。
今のところ、カルニバルの召喚陣がどこにあるのか分からない以上、ゾビグラネを説得し、彼の口をとおしてこの時代の魔術師たちを啓蒙することこそが、たぶん、最も平和的にフェンリルの出現を防ぐ手段なのではないかと、思っていたからだ。
私は彼の死を予見はしていた。
でもひょっとして……とも思っていた。
私の行動が未来になんらかの影響を与えたかもしれない、と思っていたし、彼は自信満々で私に言ったからだ。あの言葉を。
『この私が死ぬとでも思っているのか? 私は天才なのだぞ?』
嘘つき、と思った。
とにかく、私はこの世界を滅ぼすためにカルニバルを召喚した狂人と独り向き合わなければならなかった。その顔の見えない誰かに……
「大馬鹿者よ、本当に」と私はつぶやくように言った。
カルニバルを召喚するなど、自殺行為そのものである。
だが、歴史の不思議はそんな大馬鹿者が実際にこの世にいて、ヤツを召喚し、世界を滅びに導いたことを証明していた。
魔の波動を流し込むことができるのは、魔導士だけ。
一体どんな馬鹿な魔導士が、魔の波動を召喚陣に流し込み、この世を滅ぼしたというのか。
私には到底理解不能だったし、可能であれば、その人間を自分の手で殺してやりたかった。
もうこうなれば、この世界のどこかにはあるであろうカルニバルの召喚陣を否が応でも見つけ、フェンリルの到来に備えるしかなかった。
でも、一体カルニバルの召喚陣など何処にあるというのか。
そもそも古代アッカルク文明とは一体どの地方にあった文明なのだろうか?
だから、それを確かめるためにも古代アッカルク語の勉強をしなければならないのに、私の頭は頑としてそれを受け付けなかった。
生理でもないのに、頭が割れそうな気分になった。
大体このアッカルク語なるものがいけない。
動物の形をした印や植物の形をした印が折り重なって、一つの意味を指し示すように出来ている言語らしいのだが、そもそも文字が文字とも呼べないほど、おかしな形をしているせいで、とても読みこなせそうにないのだ。
こんなもの、私のような素人にわかるわけがない。
もういっそ、この本をどこかに放り投げてやれば少しは気が晴れるのかもしれない、とも思った。
そんな時である。
「ねぇ」とユーリが話しかけてきて、私の隣に腰をおろしてきたのだ。
今日の図書当番はユーリの日であった。
全くそんな気分になれなかった私は、それとなくユーリを追い返そうとしたのだが、ユーリは聞かず、他愛のない話をし始めた。
最初はくだらない、と思ってこの子の話を聞き流していたのだが、不思議なことに、この子の話を聞くと段々と心が穏やかになってゆく自分に気づいたのだ。
たぶん、その言葉の一つ一つに優しさが込められていたからかもしれない。
ユーリの言葉はまるで、焦らないで、落ち着いて、と言っているようにさえ聞こえた。
私は段々、どちらが年上なのか分からなくなってきた。
気づけば、私は逆にユーリに話をせがんでいた。
彼の家族の話だ。
「ねぇ、ユーリの家族ってどんな人たちなの?」
「どんなって、別に普通だよ」
「その普通を聞きたいの」
すると、ユーリの口から愛があふれだした。
それは、誇りと、信頼と、慈愛に包まれた家族への愛の言葉だった。
不思議な感覚だった。
暖かく穏やかな気持ちになる反面、心の奥底が揺さぶられそうになった。
私にはもう家族と呼べる人間はいなかったから余計にそう思えたのかもしれない。
ユーリが家族への小言を言うたびに、それが愛のささやきに聞こえた。
すぐ傍からアシュリーの声が聞こえてくるような気がした。
途中ユーリは少し不安な面持ちで私に尋ねた。
「ねぇ、クアドラ。僕の家の普通の話がそんなに面白い?」
「普通の話というものを私は聞きたいの。それはたぶん私にとっては普通でないだろうから」
そう、それはもう私にとって、今は亡き幻であった。
ユーリは一通り話し終えると、次に私を観光名所に誘ってくれた。
この村の水路だ。
ユーリは言った、あの水に触ると、とても気持ちいいんだよ、と。
そういえば、ゾビグラネもそんなことを言っていたような気がした。
あの水路の水に触れるといい、必ず気持ちよくなれるから、などとアイツは言っていた。
まぁ別に見るぐらいいいかもしれない。
それにこの子といると楽しいし、どこか穏やかな自分でいることができた。
「分かったわユーリ」と言い、私は椅子から腰をあげた。
その水路までのエスコートはユーリがした。
鉄の扉をあけ、黒の館をあとにし、広場へと向かう。
ユーリのウェーブのかかった茶色い髪の向こうに村の広場が見えた。
水路かぁ……
細長い螺旋状の水路が遠目に見えた。
たしかに村の広場から伸びた水路はその渦をだんだん大きくしてゆき、家々の真下を通っているようだった。
普段あまり注意深く見ることなど無かったのだけど、たしかにこの螺旋状の水路は村中に張り巡らされているようだった。
私たちは広場の中心の螺旋状の渦の中心部分に辿り着くと、その水路をまじまじと見つめた。
「これが、この村の観光名所である水路さ」とユーリが手を広げて言った。
私はたぶん生まれて初めてまじまじと水路を見たので、これが一体どのように特殊であるのかが分からなかった。
恐らく見る人によっては、感動的なのかもしれない。
むしろ私が注目したのは違うところだった。
この水路の材質だ。
木でも石でもない。恐らく鉄。
たぶん黒の館と同じ材質のものがこの水路にも使われていた。
私は、しゃがみこみ、艶のある銀髪をかき上げた。
「綺麗な水ね。ねぇユーリ。この水路に名前はあるの?」
「名前?」と素っ頓狂な声をあげたユーリは、何もない空を見上げ、頭をかいた。
私はふとねじまき水路の中央に目を落とす。
そこには月が半分欠けたような形の石板があった。
円を半分にぶった切ったようの形の石板だ。
そのすぐ隣には溝があった。同じようにそれも月が半分欠けたような形の溝だった。まるでそこに元々円形の石板でもあったのではないか、と思えるようなデザインだった。
恐らく長年の風化でどこかにいってしまったんだろう。
それか、ひょっとすると、こんなデザインもあるかもしれない、と思ったその時だった。私の目に不思議な映像が飛び込んできたのは。
それは、半円の石板に描かれた模様であった。
そう、この石には模様が刻み込まれていたのだ。
訳の分からない、動物や植物のような模様が……
――まさか。
私は片手にもっていたアッカルク語辞典を広げ、その印を目でなぞる。
そうだ。間違いなかった。
それは模様ではない。
文字だ。
確かにそれは古代アッカルク語で書かれていた。
妖しい風が私とユーリの間に吹き抜けた。
心臓の鼓動が鳴っていた。
大粒の唾が喉を通り抜ける。
もしかして、と思い、水路の模様を眺めた。
この螺旋状に広がる水路を。
次に私は立ち上がり、首を回して、グルグル伸びるそのねじまき水路を見渡す。
その水路の螺旋はこの村中に広がっていた。
そう……、そうだったのね。
黒の館の魔導書の中に『召喚陣の歴史』という図書があった。
そこには、現代召喚陣と古代召喚陣の違いが詳細に書き記されていた。
現代召喚陣のほとんどは、木の棒を使い、その場で模様(召喚陣)を描き、そこに魔の波動を流し込んで召喚獣を呼び出す、という方法が一般的だが、古代アッカルク時代の召喚陣は、巨大な模様(召喚陣)の水路や建物を建造し、そこに魔の波動を流し込み召喚獣を呼び出す、といった方法が用いられていたと書かれていた。
私の瞳の中にねじまき水路が螺旋状に広がる姿が見えた。
どうして今まで気づかなかったのだろうか、と思った。
たしかに、このねじまき水路はこの時代の多くの人々が物珍しがるほどに奇妙な形をしていたのだ。
別にそうである必要なんて微塵もないのに、まるでそのような模様にしなければならない、と言った具合に水路は力強い螺旋の形をしていた。
ねじまき水路の中心にある半円の石板にはアッカルク語でこう書かれていた。
カルニバルの泉、と。
そう、それはつまり、このねじまき水路そのものが、カルニバルを呼び出すための召喚陣であることを指し示していた。
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