第47話 ある村での出来事 -3-
フェンリルを封印するための召喚陣を手に入れてから数日、私は不思議な感覚を胸に抱きながらねじまき村で過ごしていた。それはたぶん常人には味わったことがないであろう感覚だった。
人類を危機から救い出したような高揚感が胸の奥から常に湧き上がってくるのだが、すぐそばにフェンリルがいる、という恐怖に肌が粟立ち、背筋に悪寒が走るのだ。
まったく、喜んでいるのか怯えているのかよく分からないような感覚だった。
だから、たぶん上手く考えが整理できないのかもしれない。
私はねじまき水路を眺めながら、これからどうすべきか、ということに頭を悩ませていた。
このねじまき水路の処遇と言い換えてもいい。
このねじまき水路をどうすることが人類にとって最も良いことなのか、ということについて、日がな一日頭を悩ませていたのだ。
私には二つの道があった。
まず第一の道は、このねじまき水路の存在を世界に発信し、カルニバルがこの世に出現したとしても、封印できる環境を整えておくことだった。
カルニバルの召喚陣を世界中で共有することで、カルニバルに備えるのだ。
だが、この道には一つ大きな欠点があった。
カルニバルの召喚陣を世に広める、ということは同時にカルニバルが召喚されやすい世の中をつくる、ということでもあった。
恐らく千年もの間この地上が平和であったのは、その間にカルニバルが召喚されなかったからで、たぶんそれはこのカルニバルの召喚陣が人々の記憶から忘れ去られたおかげであった。
つまり、第一の道はカルニバルが封印されやすいが、その分召喚されやすい、というパンドラの箱を開ける行為に等しく、私はそれを躊躇していたのだ。
第二の道は、このねじまき水路を破壊し、この召喚陣自体を歴史の闇に葬り去ってしまうことだった。
この水路さえ破壊してしまえば、カルニバルは永遠に召喚されることなく世界に平和が訪れる。
ただし、このねじまき村以外にもカルニバルの召喚陣がもしもあった場合、今この水路を破壊する、という行為は我々が探し求めていた唯一の召喚陣を自ら手放すことと等しく、それはつまり、封印という手段をもってカルニバルに対抗できなくなることを意味していた。
当然カルニバルに対抗できなければ、元居た世界のように地上はカルニバルによって支配され、人類は深く暗い穴倉の中にドブネズミのように永遠に閉じこもり暮らすことになるだろう。
――どちらが正しい道なのだろう?
私はねじまき水路の前に座り込み、そのことばかりを考えていた。
そして、輪をかけて不気味なのが、フェンリルをこの世に出現させ、この世界を終わらせた謎の人物の存在である。
仮にこの人物の名前をエックスと名付けたとしよう。
エックスは一体どこでこのカルニバルの召喚陣のことを知ったのだろうか?
私のように偶然発見してしまったのだろうか?
それとも私が広めた情報によってカルニバルの存在を知ったのだろうか?
私が一番恐れていたことは、私が情報を広めたことによって、むしろ世界が終わってしまった、という結末であった。
つまり、エックスはこの場にきて魔の波動をねじまき水路に流し込むのではなく、私が拡散した情報を元にカルニバルをこの地上に呼び寄せた、という結末だ。
そんなことなど断じてあってはならない。
絶対にあってはならない。
でも、ならば、と思いねじまき水路の破壊に心が傾くのだが、もしものことを考えると、恐ろしくてその一歩を踏み出せずにいた。
もっと情報がほしかった。
なんでもいい。
私がこの問題を決断できるような、なにか決定的な情報がほしかった。
それにねじまき水路を見れば見るほど、私は何か重要なことを見落としているのではないか、という気になってくるのだ。
それが何かは分からないし、ざわつく胸がそう訴えかけているだけなのかもしれないが、とにかくそんな気がしてくるのだ。
その日の朝、私は生まれて初めて霧をみた。
はじめて見る霧にドキドキしながらも私はいつものようにねじまき水路へ向かう。
白いモヤの層が幾重にも重なり視界を狭める。
アッカルク語辞典を懐にたずさえた私は頬を柔らかに濡らす霧の中をゆっくりと進む。そして代り映えしないねじまき水路の前に座り込むと、私はそっとつぶやくのだ。まるでねじまき水路に語りかけるように。
「ねぇどうすればいい? どうすれば皆は笑顔になってくれる? どうすることが一番いいことなの?」
ねじまき水路は答えない。当然だ。水路に意志などないのだから。
そしていつものように、二つの案が私の中をかけめぐる。
それはまるで、はじまりも終わりもないぐるりと円を描く道をずっと走り続けているようなものだった。
絶対に間違えられない二択に、終わりのない問い。
一つの答えが近づくと、もう一つの答えが手招きし、もう一つの答えが近づくと、さきほどの答えが手招きする。
あっちが正解かもしれないし、こっちが正解かもしれない。
もしかしたら、正解なんてないのかもしれない。
すべては滅びの道に繋がっているのかもしれない。
そんなことをずっと考えていると、ある一人の人物がどうしようもなく憎たらしく感じてきた。
エックスだ。
そもそも、その訳の分からない大馬鹿者のせいで私がこんなに頭を悩ませているのだ。
エックスさえいなければ、私がこんな重圧を背負うこともなかっただろうし、未来の人々も穴倉に閉じこもる生活をしなくて済んだのだ。
殺したかった。
できることならその肉体を八つ裂きにし、生きたまま熊にでも食べさせてやりたかった。
いっそ、ゾビグラネがエックスであったらよいのに、とさえ思った。
ゾビグラネならもう死んでいるし、彼がエックスならばこれ以上怯えることはない。
ゾビグラネかぁ……
そういえば彼が何かを言っていた気がした。
古代召喚陣についてだ……、彼は何を言っていたっけ?
何か重要なことを言っていたような気がしたのだ。
だが、小骨が喉の奥に引っかかってとれなように、ここまで出かかっているのに出てこない。
溜息がでてきた。
まず一旦自分の頭を整理する必要がある、と思った。
この決断はきっと人類の歴史上で最も大切な決断になる。
どれだけ遅く決断したとしても正確な決断を下さなければならない。
そして、そのためにはもう一度最初からすべてを考える必要があった。
このねじまき水路の召喚術だけではなく、召喚術そのものについてもっと深い理解が必要だと思ったのだ。
ハウスで魔法の修行をするときはお婆からいつもこう言われた。
何事も基礎が大事。
そして、実践こそが大事、と。
実践をつみ、原理を学んでこそ立派な魔導士と言える、と。
よし。ならばやってみよう。
本当に初歩的な召喚術から自分で。
一旦カルニバルのことは忘れて、と思い水路から腰をあげたちょうどその時である。
足音が聞こえたのだ。人気のない中をゆっくりと歩く音が。
それは、ひたひたと鳴っていた。
誰だろう? こんな人気のない霧の日の朝の水路に……
ゆっくりと近づく足音がどこか不気味な気がした。
「誰?」と思わずこえをあげた。
しかし、足音は返事をせず近づいてくる。ゆっくり、ゆっくりと……
私は右手を鋼鉄化させた。
嫌な予感がしたのだ。とても嫌な予感が。
だって一体誰が、こんな時間にねじまき水路に近づくというのだろう。
人気のない時間を狙いこのねじまき水路に近づくやつなんて……
――エックス。
私は大地に深く足をつけ、その足音がする方に向かって静かに構えた。
すると、草木が風でたなびくように霧がよけ、その先から姿を現したのは。
可愛らしい瞳をしたユーリであった。
「あら、ユーリだったの」と言い、私は鋼鉄化の魔法を解いた。
しかし胸のドキドキは何故か消えない。
不思議な感覚だった。
これまで感じたことのないほどの脅威を私はユーリから感じていたのだ。
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