第6話 ある村での出来事 ー2ー



 僕がクアドラに熱をあげるようになるまで、そう時間はかからなかった。

 浅黒い村の女たちとは違う艶かしい白い肌。バランスの整った美しい顔立ち。高い背丈に、青い瞳。そしてなりより、クアドラはそのすべてがミステリアスだった。


 たぶん、そのミステリアスというのが良かったのだろう。ねじまき村は小さな村だから、僕はほとんど皆のすべてを知っていた。

 たしかにそれは信頼関係を作るためには良いことなのだけれども、すべてを知ると当然物事の嫌な側面も見えてくる。たぶん、当時の僕にはそれを飲み込む器量などなかったのだ。だからこそ、きっとクアドラにあれほど心惹かれたのだろう。



 例えば僕の右隣に住むダンおじさんの家の奥さんは、かつて僕の左隣の家のレンブラーおじさんの奥さんだった。

 

 なんでもレンブラーおじさんのしつこい性格と毎夜家中に響く歯ぎしりに我慢がならなかったそうで、それでダンおじさんと奥さんはくっついた。

 それからレンブラーおじさんとダンおじさんは僕の家を挟みあうようにしていがみ合うようになり、それは今も続いている。この話は村中で誰もが知るタブーだ。


 それから僕と同い年のライラだ。

 ライラは比較的大人しくて真面目な良い子なのだけど、村の外の“巨人の家”と呼ばれる巨木の下でしか用を足さない。

 なぜ彼女がそうするのだろうか、ということについては今も謎なわけであるが、とにかく、あそこの前を通りかかり、何かが匂うと「ああ、ライラが用をたしたのだな」と僕は思う。


 たぶん僕はねじまき村の人々のそういうことのほとんどすべてを知っていた。

 だから、ライラがどんなすまし顔をしても、さきほどあそこで用を足してきたのだろうか、なんてことが頭にチラつき、とても恋心なんて抱けないのだ。


 その点クアドラはよかった。

 クアドラはすべてが謎だった。

 野暮ったい生活臭さというのが彼女にはなかったし、彼女を見ただけでその続柄の全てがわかる、ということもなかった。

 ねじまき村の人々は僕にとってはもう全員が家族のようなもので、誰が誰の子供か、誰は誰の親か、というのがすべて分かるのだ。だから、たとえ綺麗なお姉さんがいたとしても僕はあのハナタレビーンのお姉さんなのだな、と思うと恋心を抱けなかったし、美しくても誰かの奥さんなら、当然僕にとっては普通の誰かの奥さんに過ぎなかった。


 そういう意味でのクアドラは、誰かの妻のクアドラでもなければ、誰かの姉のクアドラでもなかった。


 クアドラは、ただのクアドラであり、何より美しい一人の女性であった。

 僕の頭に余計な続柄が想起することもなければ、他のおかしな要素を思い出すこともなかった。そして、きっとこんなにも胸がときめくようになったのは最初に彼女の裸を見たせいもあるのだろう。

 僕にとって女性の裸というのは、母さんのでっかいおしりや、村の子供たちの僕と変わらない貧相な裸というのがほとんどすべてだった。

 だからこそ彼女の適度に細い肩やくびれた腰やうなじを見たときにカルチャーショックというべきものを受けたのだ。


 たぶんそれは葡萄酒を飲んだこともない子供がいきなりウォッカを飲まされた感覚に近いのかもしれない。


 彼女の胸であったり、お尻であったり、肌であったり、唇の部分が近くにあると、僕の心臓が苦しくなってくるのだ。


 たしか、あの当時の僕ははじめて自分を男と自覚する衝動に混乱していたが、思いのままに行動すると彼女に嫌われるような気がしていたので、なんとかその衝動とうまく付き合う方策を探していたような気がする。


 例えば、あまりクアドラにくっつき過ぎないようにしたり、自分から話しかけ過ぎないようにしたり、とにかく色んな工夫をした。

 でも基本、僕はやっぱり彼女と話したかったから、なんとなく話題のきっかけを作ったりした。僕はそれだけで楽しかった。



「ねぇ、ユーリの家族ってどんな人たちなの?」

「どんなって、別に普通だよ」

「その普通を聞きたいの」


 他愛のない会話が記憶の隅から蘇る。

 たしかあれは黒の館でいつものように彼女が修行の合間に本を読みふける時の会話だったと思う。

 あの時……僕はたしかまず父さんの話をした。

 父さんは村一番の木こりで、どんな巨木を誰よりも早くなぎ倒すことに長けた男だった。この間なんて、村の男三人かかりで倒せなかった木を父さんはいとも簡単に倒してしまったのだ。

 僕はそんな父さんみたいな男になりたいと彼女に言ったような気がする。

 次に母さんの話をした。母さんは僕や妹のセーターと料理を作ることに長けた女で、僕らの全てを知っていた。


 例えば、僕が少し体の調子が悪いと、誰よりも早く気づく。

 僕がキャルに悪口を言われた時も僕の気持ちの変化を誰よりも敏感に感じ取るのだ。僕は時々母さんが本当は魔法使いなのではないのかと思う時がある。


 だって、僕が何も言わないのに不思議なほどすべてを言い当ててしまうからだ。

 それから、たぶん最後に妹のフィーナの話をした。彼女はいつも僕の後についてくる。そして、いつだって何気なく僕のセーターの後ろ側の端っこを掴むのだ。おかげで僕のウールのセーターは後ろ側だけ妙に長い。



 クアドラは僕の緑色のウールのセーターの後ろ側を見て「本当だぁ」と笑った。

 僕はクアドラが笑ってくれて良かったと思った。

 でも質問せずにはいられなかった。



「ねぇ、クアドラ。僕の家の普通の話がそんなに面白い?」

「普通の話というものを私は聞きたいの。それはたぶん私にとっては普通でないだろうから」と彼女は言った。



 それが何を意味する言葉であったのかは未だに分からないのだが、それでもとにかく彼女は僕の話す普通の話に耳を傾けてくれた。

 もちろん僕と彼女が話す時間は一日の中でかなり短かったと思う。

 彼女は大半の時間何かの魔術の本を読み漁っていたし、黒の館の地下の訓練室にて何かの稽古をしていたからだ。でも、それでも彼女はその僅かな空き時間に僕の話を楽しむことが多かった。そして、時々クアドラも僕にいたずらをしたりしてくるのだ。例えば、氷のようにつめたくした指で僕の首筋を触ったり、指の先から出した炎で僕を取り囲んでみたりと。

 僕はそのたびに声をあげ驚くのだが、その時の彼女の笑った顔が可愛いな、と思ったりした。



 僕はこれが薄々恋という感情であるのだな、と気づいていた。だって、たぶん僕と彼女はなにも特別なことなどしてないのに、ほとんど一日中彼女の顔が僕の頭に浮かぶようになっていたからだ。

 

 僕は、椅子に深くこしかけ、再び本に手を伸ばそうとするクアドラに言った。



「ねぇ、クアドラ。そういえば、この村の観光名所を見たことがある?」

「いいえ」と彼女は笑った。「観光名所?」

「そうだよ。観光名所だよ。旅人はこの観光名所を目当てに来る人も多いんだよ? ほら、僕が案内するよ。ねぇ行こうよ」



 今考えてもおかしなセリフだと思うが、僕自身何も持たない子供であった為に村の観光名所を案内することぐらいでしか彼女を楽しませる手段が思い浮かばなかったのだ。


 クアドラは少し困ったように眉をひそめ笑みを浮かべていたが、やがて「分かったわユーリ」と言い、腰をあげた。


 僕らは、重々しい鉄の扉をあけ、黒の館をあとにし、木々が左右に生い茂る簡素な林を通り抜け、広場へと向かう。


 水路は螺旋状にグルグルと村中に伸び、その螺旋の渦の中心は、ちょうど村の広場の真ん中にあった。僕らは穏やかな足取りで、水路の中心へとたどり着き、そして、ネジをまいたような形状の中心を見つめた。


 水路を流れる水はチロチロ、と軽快な音を響かせていた。



「これが、この村の観光名所である水路さ」と僕が両手を広げて言うと、クアドラは、しゃがみこみ、渦の中心をみつめ、艶のある髪をかき上げた。


「綺麗な水ね。ねぇユーリ。この水路に名前はあるの?」

「名前?」と素っ頓狂な声をあげた僕は、何もない空を見上げ、頭をかいた。名前などあったかな? それとも、この村がねじまき村という名称なら、これは、ねじまき水路、という名称になるのかな?

どうしよう……



「水路は……、水路かな……」と僕は彼女の顔を見ないで言った。「強いて言うなら、ねじまき水路……かな?」



 それは、たぶん誰が聞いても酷く頼りない声だった。

 失敗したなぁ、という想いが僕の胸から湧き上がる。

 水路のことぐらい事前に誰かに聞いておけばよかった。

 デートのつもりで誘ったのに、酷く情けない姿を晒しているような気がした。

 よくよく考えると、明らかに考えすぎなのだが、その時の僕はそんな想いにかられていたし、何より相手の瞳に自分の姿がどう映っているか気になった。


 だから、僕は本当にゆっくり、おずおずとクアドラの顔を見た。

 だが、彼女の瞳に僕は映っていなかった。


 彼女は僕の方など見ずに、ただ一点を凝視していた。

 螺旋状の水路の渦の中心だ。

 本当に不思議なほど、彼女はその一点だけを見つめ続けていた。

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