ユーリ編 ある村での出来事

第5話 ある村での出来事 ー1ー




 僕はある女性のことが忘れられなかった。

 彼女のことを考えると胸が焼けこげそうになる時さえあった。

 いろんな感情が僕の中に入ってきて収集がつかなくなるからだ。


 白く透明な肌に、深く澄み切った青い瞳。

 細く、美しいくびれがあるやせ型の体形で、肌がとても柔らかかった。

 たぶん彼女は僕より6~7歳ほど年上だったと思う。


 彼女のあらゆる瞬間が僕の脳裏に焼き付いていた。


 優しく僕の頭を撫でる時の微笑む顔。集中し、本を読みふけるときの鋭いまなざし、彼女はどこかミステリアスで、不思議な雰囲気を醸し出していた。


 そして、いつも思い出すのはあの光景だ。

 赤く燃え上がる炎と、そして、冷たく光る青い瞳。その記憶が……いつまでも、本当にいつまでも僕の頭の中を支配しているのだ。


 僕の頭の中にはいつも彼女がいた。

 そういえば……、彼女とぼくのはじまりはいつだろう。


 ……ああ、そうだ。村だ。そう、僕の村。

 あそこが僕と彼女のはじまりの場所だった。


 僕の生まれ育った村は、ねじまき村、と呼ばれる小さな村だった。

 村を走る水路がまるでネジを巻いたみたいに螺旋状になっていて、更にそれが大地にむき出しになっていたものだから、たぶん、親しみを込めてそう呼ばれていた。正式な村の名前はあったはずだが、……どうだっただろう。もう忘れてしまった。

よく覚えているのは、たまたま村に立ち寄る旅人は、この水路を目にしたあと必ずいずれかの言葉を吐いたことだった。


「とっても面白い形の水路だね」

「水路がこんな形をしていて不自由じゃないのか?」


 当時の僕にしてみれば、生まれた時からこの水路を目にしてきたものだから、何がどういう風におかしいのかよく分からなかったし、ましてや不自由さなんてこれっぽっちも感じなかったので、そんなことを言われるたびに「大きなお世話だ」と思ったりもした。


「ねぇぼうや、これはなんて書いてあるんだい?」と旅人は僕に尋ねることもあった。


 螺旋の水路の渦の中心は人一人が寝転がれるほどのスペースがあり、そこに月が欠けたような形の石板があった。その半円の石板には鳥のような模様や、羊のような模様が描かれていた。


 この旅人は、これが文字にでも見えるというのだろうか?

 どうみてもこの水路を飾り付けるための絵柄だろうに。

 まぁいい。

 とにかく、僕の村はそんな村だったし、僕はそこで何不自由なく育った。


 不意に彼女の横顔が僕の脳裏に浮かんできた。

 長いまつ毛と細い指の先には分厚い本がいつもあった。

 彼女は丸椅子に腰をかけ、指先の爪に引っ掛けるように本のページをめくっていた。

 あれはどこだっただろう。

 ああ、そうだ。あの建物だ。あの黒く、陰気な建物。彼女のことを思い浮かべると、必ず一緒にあの建物が僕の頭に浮かんでくる。



『黒の館』



 あれは、僕ら子供たちの間ではそう呼ばれていた。ねじまき村のはずれにある、黒い建物だ。僕らの村では茅葺の屋根であったり、木の板の外に藁を編み込み、上から漆喰を塗った簡素な壁の家がほとんどなのだが、あの黒の館だけは別だった。


 あの館は、石と石が混ざり合って溶けたような、そんな摩訶不思議な材質が組み合わさってできた屋敷だったので、かなり頑丈な作りになっていた。



 あそこは村の公共施設で、誰もがあの屋敷に出入りしてよいことになっていた。中に入ると沢山の本棚と、この世を埋め尽くしてしまうのではないかと思えるほどの本があり、その本を管理するのが村の子供の役目だった。


 だから、ねじまき村の人々はあそこで本を借り、仕事の合間にそれを読み、自分を慰めた。中には魔術に関連した図書も置かれており、魔導士の方々もあそこを利用していた。

 ただし、この村に住むほとんどの者が魔法なんて使えないし、興味もないので、魔法に関連する図書コーナーは、ほとんど遠方からはるばるやってきた修行者のためにあるようなものだった。



 彼女もそんな魔法を学びに来た修行者の一人だった。



 ある暑い夏の真昼間に、彼女は何の前触れもなくこの村にやってきた。

 この村で修業をしてゆくほとんどの魔導士が何度もこの村に足をはこぶ方々ばかりだったので、新顔の彼女は僕らには珍しかった。

 まぁでも新顔というのは僕らにとっては天敵のようなものだった。

 この黒の館のルールを何一つ知らないからだ。

 例えば読んだ本は元の場所に戻さなければならないし、本を読む前には貸出図書一覧名簿にサインをしなければならない決まりになっていた。

 これを怠ったせいで僕は何度大人連中に怒られたか分からないし、実際、何度もそのせいで本を紛失したりした。


 僕はもう12歳で、子供たちの中では一番年も上だったから、僕から彼女にこのルールの叩き込みをするべきだ、という話にいつの間にかなっていて、僕の意志の有無にかかわらず、僕から彼女にそういう話をすることに決まったようだった。


 僕はそのときまで彼女に会ったことがなかった。

 このねじまき村に新しい修行者さんが来た、という噂だけを耳にしていたからだ。


 彼女は村に来たその格好のまま黒の館に寝泊まりし、そこで一日中本を読みふけっていたようだった。案の定、僕が朝、黒の館に着くと、大量の本が床一面に散らばっており、収拾がつかない状態と化していた。


 それは当時の僕にとって青天の霹靂ともいうべき出来事だった。

 だって、何もかもが出しっぱなし、放りっぱなしなのだ。

 こんなこと、今までで一度もなかったのに、と思い、頭を抱えたくなった。あまりの出来事に泥棒でも入ったのだろうか、と一瞬思ったぐらいだった。



 僕は床に散らばる本を拾い上げた。それは、何が書いてあるかよく分からない魔導書で、整理番号が書かれていなかった。

 整理番号とはどこの本棚の何段目に置かれている、という記載が本の裏側に書かれてあるもので、僕らはそれを見て本を元の本棚に戻してゆくのだが、この本にはその表記がなかったのだ。もしかして、と思い僕は床に散らばる本をもう一つ拾い上げた。それにもやはり整理番号が書かれていなかった。


 ここに至り僕ははじめて魔導書に整理番号がついていないことを知った。魔導書に関しては、その作者やタイトル、または魔法のジャンルに関して区分けされているようだった。


 僕は魔法のことなど一切知らなかったので、これらの本を元の本棚に戻すだけでも何日かかるのか分からないぞ、と思った。すると、沸々と怒りにも似た感情が胸の奥から湧き上がってくるのを感じた。


 だって、彼女をちゃんと指導しなかった責任をとらされるのは僕なのだ。よく分からない無法者のせいで、いつもちゃんとしている僕が怒られるのだ。


 理不尽だ。そんなの理不尽だ。

 前述したが、僕はこの時まだ12歳だった。

 当然僕にはあらゆる面で余裕などなかったし、12歳なりの怒りの沸点というべきものがあった。だから僕は、僕の管理する黒の館を穢した張本人に文句の一つもいわなきゃ気が済まないような気分になっていた。だから、きっとその張本人が寝ているであろう、来客者用の部屋に早歩きで向かったのだ。


 だって、そうだろう。修行者さんはたぶん僕よりも大人だ。

 ならば、たとえこの黒の館のルールを知らなくても、読んだ本は元に戻すことぐらい分かるはずではないだろうか。


 だから僕はその部屋のドアを無言であけた。

 すると、部屋の床の中央に赤ん坊が丸まって寝るような恰好で眠る一人の女性が見えた。しかも、その女性は裸であった。


 薄い来客者用の掛布団が一枚かかっているだけで、あとは裸。どうしてわかったのかって? それは背中とお尻が布団からはみ出していたからだ。


 当然僕は驚いたし、少しだけ後ずさりしてしまった。

 でも裸というものだけに驚いたのではなかった。

 その裸が……、いや、その肌があまりに白かったのだ。

 それを、透き通るような白さ、と表現する人はいるが、そういうものさえも超越した白さに僕の目には見えたのだ。

 それはまるで白過ぎて人間離れしているかのような……、そんな妖艶な白だった。

 しかも、背中から見る彼女の裸は美しかった。


 サラサラで艶のある髪、細い首によくくびれた腰と丸いお尻。僕はお母さんの裸を嫌というほど見てきたけど、それを見た時とは全く違う気持ちが内側からせりあがってくるのを感じた。だから僕の胸はこんなにもドキドキしていたのだろう。


 そうして僕がドアの入り口付近で固まっていると、彼女の瞼があけられてゆくのが見えた。寝ぼけまなこの彼女は僕を見てまずこういった。



「誰?」



 誰? と言われると思っていなかった僕は答えに窮した。これは僕のここでの役割を答えればいいのだろうか? それとも僕の名前を言えばいいのだろうか? 僕が回答にまごつくと、彼女は更に僕に質問した。



「ねぇ、なんで私をジッと見ているの?」



 たしかに……、どうして僕は彼女のことをジッと見ているのだろう? そう改めて言われると、僕には彼女の裸をじっと見つめる理由などなかったことに気づいた。


「本を!」と僕は声をあげた。「あなたが本を片付けなかったから、僕が文句を言いに来たんだ!」


 そうだ、そういう理由があったのだ、と僕はほっと胸をなでおろすように言った。

 別に彼女の裸にみとれていたからではない、と言いたかった。



「ふーん」とうなった彼女は「それが私のお尻をまじまじと見ていた理由?」と頬をつりあげた。

 体の奥から変な声が出そうになった。

 いつから起きていたのだろう。

 今起きたというのなら、そんなにまじまじと僕が見ていたことなど知らないはずだ。まさか、寝ているふりをして僕を観察していたのだろうか? そんなの……、そんなの卑怯じゃないか。卑怯だ。


 だって、そりゃビックリして見ちゃうじゃないか。

 彼女は布団からはみ出したお尻を布団の中にいれ、前を隠したまま上半身だけ布団から起き上がった。そして、まっすぐこちらを見てきた。




 彼女の瞳は青い色をしていた。



 僕はそんな人間など初めて見た。

 何をどうすると、瞳の色が青くなるのだろう?

 すると、僕の思考を遮るように「ぼく、お名前は?」と彼女が優しく尋ねてきた。



 ――ぼく?



 完全に子供扱いされている、と思った。

 たしかに子供だったので仕方なかったのだが、それでも、子ども扱いされていること自体に僕はムカッときた。



「僕は村からここの管理を任されている者です。それさえあなたは知っていればいいでしょう?」


 彼女は笑い「じゃあ、きみに声をかけたいときは『村からこの建物の管理を任されている者君』って言えばいいのかしら?」


 屁理屈だ、と僕は言いたかった。だって、僕の呼び止め方なんてそれこそ色々あるじゃないか。あの、とか、そこの人、でもいい。だって『村からこの建物の管理を任されている者君』なんていう言い方など人は絶対にしないはずだ。



 僕は大きなため息をつくと、彼女の顔を見た。

 彼女の目が笑っていた。どうも彼女はこのやり取りを楽しんでいるようだった。

 もう名前を言ってしまおう、と思った。

 おそらく彼女は底意地が悪くて、きっと僕をからかうためなら何時間でもこのやり取りに付き合うに違いない。それに、僕が名前を名乗らない理由など一個もないのだ。そうだろう?



 僕は意を決して自分の名前を言った。



「ぼくはユーリです。ねじまき村のユーリ」



 そして、僕は当然のように彼女に尋ねた。


「あなたの名前は?」


 彼女の妖艶な唇が悩ましいまでの色気を放ち動き、それは、そっと僕の脳を揺らした。




 本当に、あの時の僕はどうして彼女に名前を聞いてしまったのだろう。

 名前なんて聞かなければよかった。

 あの名前を聞いてしまったせいで、たぶん僕は彼女に囚われるようになった。まるで呪いのように彼女の名前がいつも頭の中に浮かんできてしまうのだ。


 あの美しく、憎らしく、胸の奥をざわつかせるような、あの名前が……




「クアドラよ。私の名前は、クアドラ。これからよろしくね、ユーリ」


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