第4話 地下の世界 ー4ー



 朝が来ると、あれから一週間が経ったことになる。

 あれから一週間……。この一週間は本当に私の人生の中で一番謝ったのではないかと思うぐらい色んな人に頭を下げた。泣きながらお婆を説得し、皆からもお婆に追放処分を撤回してもらうように頼みこみ、とにかくありとあらゆる手段を講じた。特にアシュリー自らがお婆に謝りに行くように何度もアシュリーにかけあった。いや、かけあったという表現は少々生ぬるいかもしれない。何度もアシュリーのほほを殴り、歯をむき出しにして炎の魔法を浴びせ、お婆に謝りにいくように説得した。その度に私たちは魔法を使った戦いをするのだけど、その戦いがどんなに激しくてもアシュリーは絶対に折れなかった。

 アシュリーは、お婆の方針は間違っている、と言い続けた。

 私は、アシュリーがそんなことを言うたびにその100倍の数の侮辱の言葉を浴びせたけれど、やはりアシュリーは折れなかった。そして、アシュリーが鉄のまなざしで私を見据えるたびに、なんでそれほど真っすぐ私を見ることができるのか疑問に思えた。それは、これから外に放り出されて死ぬような人間の瞳ではなかったからだ。


 その瞳は、私が不思議に思えるほど奇妙な光を宿していた。

 そして、時間は段々と過ぎていった。


 皆の寝息が耳に入り込んできた。スゥー、とも、グゥー、ともそれは鳴っていた。皆が寝静まるなか、私は4層の自分の寝床にうずくまっていた。そしてうずくまりながら、朝日が昇るのはいつ頃になるだろう、と思っていた。その日、朝日が昇れば、もうアシュリーはこのハウスから旅立つことになっていたからだ。


 ……一秒が長く感じ、おなかが痛くなってきた気がした。朝になる前になんとしてもお婆を説得しなければならない、と思った。だから私は、皆が寝ているなか、静かに起き上がり、音をたてないようにつまさきで床をあるくと、4層の角にあるお婆の長部屋の扉をノックした。あれ以来お婆は用を足す時以外は長部屋にこもりきりになっていたからだ。


「ねぇお婆、起きて」と私は扉に語り掛けた。

 すると、部屋の扉がキィーという音をたてて開いた。私の視線の先には部屋の中央に座るお婆が見えた。お婆は私の顔を見つめ「待ってたよリリア」と言った。


 私は部屋に入り、後ろ手で扉を閉めると、出入り口付近の床に座った。

 私とお婆はそれからしばらく何もしゃべらなかった。きっと、おばばは私の言いたいことぐらいわかっているだろうし、私もおばばが何と言うか分かっていた。でも、私はお婆を説得しなければならなかった。アシュリーは憎たらしくても私の半身で、血を分けた姉妹だった。私はアシュリーを失うことに耐えられなかった。だから、私が口を開こうとした矢先にお婆はやっと声を発した。



「あれはもうどのくらい前になるじゃろうか……。少なくともあんた達が生まれるずっと前、ジーナやアルフォンソ……、いやあんた達の母さんや父さんがまだ子供の頃の話じゃ。ワシらが作り上げたハウスには強力なリーダーがおった。ライル、という男じゃ。ライルには生まれつき人を惹きつける魅力みたいなものがあった。ハウスにいるワシら年頃の娘は皆彼に恋していたし、男達にとっては頼れる兄のような存在じゃった。

 どうしてライルの周りにあんなに人が集まったのか、当時は分からんかったが、今なら分かる。ライルは“皆に希望を見させてくれる男”じゃったからだ。ライルの喋る未来は明るく甘美なものばかりであった。このハウスがどんなに酷くなっても、こうすればよくなるんじゃないか、もっとこうなればきっとよくなるに違いない、と常にワシらに語り掛けた。どんなに酷いことがあってもめげず、諦めず、未来へ希望を求めた。

 だからワシらはライルについて行ったのじゃ。

 ここにある本のほとんどは実はライルが集めたものじゃ。ライルも、今のアシュリーと同じようにその本をよく読み、そして未来のことを考えておった。

 あれはいつのことじゃったろう。ライルが今のアシュリーと同じようなことを言い始めたのじゃ。あれはワシらがハウスで生活し始めて10年が経った頃じゃった。


『あれから10年が経った。もう10年も経ったのだし、フェンリルは餓死しているかもしれないとは思わないか?』とライルは言った。


 まぁそう思っても不思議はない。どんな生物だって、食べ物なしでは生きられないし、当時から何故かフェンリルは人だけを食べていたから、ある一定の説得力がライルの言葉にはあった。ライルは語気を強め更にこう言った。


『このままじゃここの住人たちを養っていけない。だから、新たな地を開拓すべきだ』


 ワシらはライルに心酔しておったから、特に反対もなくライルの案が皆に受け入れられた。でも、たしかほんの少しだけ恐怖が残っていたワシは、皆が一度に地上に飛び出すのではなく、しばらく開拓班とハウス班に分かれてやってみてはどうだ、と言ったのじゃ。もし、あの時のワシの一言がなければハウスの皆は残らずフェンリルの胃袋に入っていたに違いない。


 とにかく、ライルはワシの案に快諾し、しばらくそれでやってみよう、ということになったのじゃ。一週間に一回、ここに連絡係をよこすという話でそれはまとまった。最初のうちはよかった。何度も係の人間が来て開拓が上手くいっていることをワシらに伝えてくれたからじゃ。

 連絡係がよこす地上の情報は大方ワシらの想像通りであった。地上には人の姿はなく、そしてフェンリルもいない、と。どれだけ地上に人間がいるかはワシらも分からなかったが、やつは人を食べ尽くし飢えて死んだのだと思った。ここの本にも書かれているが、フェンリルは何故か人以外を食べない。どういうわけか知らんが牛や馬や鹿や熊など見向きもしない。だからワシら人類はようやくあの魔物から地上を取り返したのだ、と思った。念のために別のハウスも掘削している最中だ、ということも連絡係から聞いていたから、ワシはすべてが上手くいっているように感じていた。そして、近いうちにこんなせせこましいハウスから抜け出て地上に暮らせる日も近い、と思っておった。


 でも、連絡係はその日を最後に、姿を見せなくなった。

 ワシは待った。待ち続けた。三週間、一ヶ月、二ヶ月……、とにかく待った。待って、待って、それ以上待ちきれなくなり、それでようやくワシは決断した。ライルに会いに行く、と。開拓班がハウス二号を作っていることは知っていたし、連絡係から地図はもらっていたので、その地図を頼りにワシは一人でそこまで行ったのじゃ。

 

 すると、そこに待ち受けていたのは巨大な穴じゃった。ハウスなんてどこにもなかった。木が折れ、草木が燃やされた痕跡もあった。ここで誰かが戦ったのだ、とすぐにわかった。そして、そのすぐ脇には人の血で染まった赤い岩があり、至る所に破れた衣服や骨がまき散らされておった。そして、そんな中にあったのじゃ……、首からいつもライルがぶら下げていた首飾りが……。それは、赤い岩の上に無造作に放置されておった。

 フェンリルじゃ、とワシは思った。間違いなくフェンリルの仕業じゃ、と。ワシは一目散に自分たちのハウスに戻り、皆にライルの血のついた首飾りを見せた。

それがライルの見せてくれた希望の末路じゃった」



お婆は私の目をしっかりと見てつづけた。


「あの目じゃ。アシュリーのあの目……。そして、あの思想……。そっくりじゃ、ライルそっくり。あの目は希望を信じる目なんじゃ。人っていうのは、希望に魅了されるんじゃ。停滞し、留まっているものになんぞ見向きもせん。希望こそが人を惹きつけるんじゃ。よいかリリア。希望ほど恐ろしい物はないんじゃ。それが真に正しいのであればよい。でも、もしそうじゃなければ、皆、死ぬことになる。わかるかリリア。足下が見えていない希望は命とりなんじゃ。絶対に100%保証された未来じゃなければ、皆を危険に晒すことなどできないのじゃ」とお婆は言った。お婆の目には涙が浮かんでいた。


 お婆にはきっとアシュリーが皆を地上に導く未来が見えていたのだ。このハウスの皆を地上に導き、フェンリルの胃袋の中へ吸い込まれてゆく未来が……。それを防ぐにはこうするしかなかった。おばばはそれを全身で表現していた。歯も体も手先も震え、目には大粒の涙をためていた。たぶん、そうなるだろう、と私も思った。きっとあのへそ曲がりは皆を地上へ導くに違いない。私は何とか声を発しようと努力したが、言葉にならなかった。もう絶対におばばの意見が揺らぐことはないと知ってしまったからだ。その代わりに私は泣いた。あふれ出る涙を止めることが出来なかった。私にアシュリーを止めることなどできないし、お婆を止めることもできなかった。

なんて無力なのだろう、と思った。私の力なんて……。


 ハウスには鏡がある。それも沢山ある。洞窟に掘られた縦長の穴が空から降り注ぐ光を取り込み、鏡がそれを反射する。鏡の先には鏡があり、光はそれに沿うように反射し続け、ハウス内を照らした。


 朝がきたのだ。いつの間にかドアが開けられていて、後ろにアシュリーが立っていた。

 本を片手にアシュリーは座り込む私の肩に手を乗せた。

「見送ってリリア」とアシュリーは微笑んだ。

 私は、小さくうなずき、ゆっくり立ち上がった。4層の皆の顔が見えた。皆、涙を浮かべていた。皆子供の頃から見知った仲間だったからだ。アシュリーは皆に挨拶してゆく。


「元気でねマーク。ローリアも元気な赤ちゃんを産むのよ」


 私はそう言ってまわるアシュリーのあとをついていった。ただ、何かに導かれるように。4層から3層へ、3層から2層へ、2層から1層へ。そして、アシュリーが細い長い地上へ出る梯子に手をかけた。私はこの梯子に触れたことがなかった。すでに梯子を上っていたアシュリーは「リリア、来て」と私に向かって手招きした。私はそれに促されるまま梯子に手をかけた。罪悪感にまみれたような気分になった。触ってはいけないものを触っているような……、そんな気分。


「さぁ、登るのよ、リリア」と上から声が聞こえる。だから私はその罪悪感を振り払うように梯子を一段ずつ登っていった。すると、上の方でギィー、という音がして、光が降り注いできた。きっとアシュリーが地上の扉をあけたのだろう。


 目を細め、梯子の先を見ると、光が見えた。

 眩しいので、また視線を手元に戻すが、一段登るごとに光が強くなってくるのがハッキリと分かった。バクン、バクンと心臓が鳴っているのが分かった。


 不思議な高揚感が私を支配していた。さっきまですごく悲しかったのに……、これはなんなのだろう、と思った。光が段々と強くなってくる。だから私は瞼を閉じた。瞼を閉じながら梯子を最後まで登り切り、手をつき、生まれてはじめてこの大地に立った。


 そして、ゆっくりと瞼が開かれてゆく。

 目を傷めないように、そっと、本当にそっと。




 次の瞬間、地上の全てが私の目に飛び込んできた。

 私は思わず息を吸い込んだ。

 大地が、空が、生き物が、植物が、目に映るものすべてが鮮やかな色に溢れていた。

 すべてが圧倒的で、何もかもが想像を超えていた。

 空とは、青く高い天井ではなかったのだ。それはどこまでも広がる青を指したのだ。私はいくら本を読んでもその感覚が理解できなかった。天井がない、という感覚が。だが、こういうことなのだ、とはじめてわかった。

 何もない天井が青く、そしてたまらなく美しいのだ。空の合間に白いものが浮いていた。あの白い魔法のようなものが雲なのだろうか、と思った。少し首を回すと、見渡す限りの地平線が続き、後ろ側にはかなり大きな山が見えた。とても広いと感じた。それは私が考えていたよりも、もっと、ずっとだ。どれほど遠いと、あのように地上が平らに見えるのだろう。



 暖かく優しい風が頬の産毛を撫でるように通り過ぎ、ギラギラと光る太陽の光線が私に突き刺さった。私はおもわずその光を遮るように手で隠した。あまりにも眩しすぎたからだ。そして、なんだかその光が炎の魔法で暖をとっているように暖かかった。


 空には爽快な青が溢れ、地上には力強い緑が満ち、全身の肌が、それを感じ取り、粟立っていた。それはまるで、新たな息吹が芽吹いているような感じだった。


 そして私だ。


 このすべてに色のある世界では私にも色があったのだ。


 赤茶色の赤鹿のコート。

 肌色の手に少しピンクの色をした爪。

 手の表と裏で少し色が違うような気もする。

 そして、髪を触ると、光が反射し、それは銀色に輝いた。


 私はこの時、生まれてはじめてこんなにも世界には様々な色が溢れているのだ、と知った。



 胸の奥があらゆる美しさに激しく揺れた。

 これはなんなのだろう、と思った。これが、地上なのか。何度も押し寄せる熱い感情の波が私を襲い、ついにはその渦が私を飲み込んでしまうほどに大きくうねっていた。



 ああ、そうか。これか……、これだったのだ。

 すべてが腑に落ちた。

 本能で分かってしまった。私たちはずっと間違っていたのだ。私たちは地下で暮らす生き物ではないのだ。私たちは気の遠くなるような昔から地上で暮らし、地上で生きてきた。だから皮膚が、目が、髪が、耳が、口が、頭が、足が、舌が、爪が、ありとあらゆる私がこんなにも地上を欲するのだ。

 緩やかなつむじをまくように迫ってきた暖かい風が私の銀色の髪を舞い上がらせ、私たちを取り囲む。



 私は改めてアシュリーを見た。

 銀色のセミロングの髪がゆれるアシュリーは、地上に感動する私を見て微笑んだ。



「地上へようこそリリア」



私は震える唇でアシュリーに言った。


「全部わかっていたのねアシュリー」


 アシュリーはうなずいた。

 私たちは双子だった。同じ景色を私が見たとき、私がどう思うかアシュリーには分かっていたのだ。羽のついた虫が私たちの周りをせわしなく行き交い、風に運ばれてきた無数のピンク色の花弁が私たちの合間を駆け抜けた。


 大きすぎた。この希望は大きすぎたのだ。

 すべてを失ってもよいと思えるほどに地上には光が満ち溢れ、そしてあまりにも美しすぎたのだ。

 アシュリーは立ち尽くす私に向かってゆっくりと手を差し伸べた。



「行きましょうリリア。私たちはきっとこの地上を取り戻すために生まれてきたの。そうでしょう? 私のリリア」



 私はこうなることをはじめから分かっていたのかもしれない。

 もっとずっと前から。だから、たぶんこの瞬間を恐れていた。そこから目をそらすように頭の中をハウスの規則で満たし、フェンリルへの恐怖で満たし、明日の食料の心配で満たしていた。


 でも、見てしまった。この美しい大地を……

 もう私は、私から逃れることができなかった。



 私は、ゆっくりと……、本当にゆっくりと差し伸べられたその手をとった。

 アシュリーと心が繋がり合った気がした。

 もう地下に戻ることなど考えられなかった。私を動かしているのは恐怖でも、アシュリーに対する憐れみでも、お婆への同情でもなかった。あまりにも大きすぎる感動と本能が私を動かしていたのだ。



 きっと私はこのために命をかけるべきなのだ。そうだ。そうあるべきなのだ。



 お婆に叩き込まれたあらゆる教訓が抜け落ちゆく気がした。

 私はアシュリーに導かれるままゆっくりと大地を踏みしめる。乾いた土と、沢山の雑草の感触が今までにない感じの感触で嬉しかった。

 遠くを見た。無限に広がる大地がこの先も続いているのか、と思うと嬉しくてたまらなくなった。



 こうして、私とアシュリーはハウスを旅立った。目的地はすでにアシュリーが決めていた。かつて魔法学校というところがあった場所に私たちは向かうらしい。そこで対フェンリル用の魔法を見つけるのだ。


 とにかく、私はワクワクしていた。17年生きていたが、はじめて今自分が生きている、と思えた。



 もう、死など怖くなかった。

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