第3話 地下の世界 ー3ー



 アシュリーはフェンリル記を読み終わったあとも、様々な本を長部屋から拝借してきた。おばばに気づかれないようにフェンリル記は元の本棚に戻し、新たな本を借りてくるのだ。私は、アシュリーが新たな本を拝借してくるたびに、もうこれで終わりにするのよ、と何度も釘をさすのだが、それはいつまで経っても終わらず、逆に借りてくる本は増える一方だった。

 おかげで不思議と私も本の内容を覚えてしまった。

 アシュリーと二人きりになるとその話しかしてこないからだ。


 中にはとても興味深い話もあった。

 例えば、地上にまつわる話がそうだった。

 私が地上をイメージするとき、それは空と呼ばれるものすごく高く青い天井であったり、太陽と呼ばれる光の集合体であったり、風になびく草や木や飛び回る虫をイメージする。

 でもそれだけだった。

 私は地上の広さを根本的に誤解していたのだ。

 結論から言うと地上は、私が考えるよりも、もっとずっと横に広いらしい、という事が本から分かってきたのだ。

 本には街や村、そして都市の話が沢山あった。

 それはどの本にも当たり前のようにあった。私は最初そのイメージがつかめなかった。だからハウスのようなものをそう呼ぶのだろうか、と思っていたのだが少し違った。どうやら家という個別のハウスが家族ごとにあり、その無数のハウスをまとめた単位を村、街、都市と呼ぶらしいのだ。しかも、たまたまそこに書かれていたある都市とある都市との間の距離が、二十日間歩き続け、ようやくたどりつく、と書かれていたことに衝撃をうけた。私はハウスの端から端までどんなにゆっくり歩いても五分もかからないのに、普通に歩いて二十日もかかるというのは一体どんな距離なのだろう。しかも、歩いて一年かかってもたどり着けないところまで沢山あるらしい。本当に地上というのは、どこまで広いところなのだろう。そんなことを思った。


 気づけば私もアシュリーが長部屋から拝借してくる本を夢中になって読み漁っていた。そして、新たな知識を習得するたびに、頭の中に地上の映像が広がっていったのだ。かつてよりも、より具体的なイメージとなって……。そして、そのイメージが具体的になればなるほど、アシュリーの苛立ちと喪失感が分かるようになっていった。


 私たちが手放した大地は私たちが考えるより遥かに広大だったのだ。


 アシュリーは三年前にはじめてその目で地上を見た。その時、恐らくアシュリーは悟ったのだ。私たちはどうしようもない穴倉に押し込められているだけなのだ、と。それは随分前から分かっていたことだけど、知識としてわかったのではなく、感じてしまったのだ。どこまでも広がる青い空や見渡す限りの地平線を見て。



 地上に出てみたい。

 

 もしそこで暮らすことができなかったとしても、一目だけでも見てみたい。

 そんな思いが日に日に私の中で大きくなってゆくのを感じた。でも、私はそんな自分を必死に抑えこんでいた。これを口にしたら最後だと何処かで思っていたからだ。


 何故なら、最近おばばの様子がどこかおかしいからだ。会話がかみ合わなかったり、具合が悪いとしきりに訴えたり、昔の話を繰り返すことが多くなった。そして、いつも以上にフェンリルに対し憎しみの気持ちを吐き出すことも多くなったのだ。

 人間歳を取ると短気になるものらしい。

 特にお婆に関しては自分と違う意見に対してはおおらかな態度をとる女性ではなかったので、彼女の前で彼女と違う意見を言えばどうなるかなど火を見るよりも明らかであった。だから私はなんとかお婆をやり過ごそうと、極力それを表に出さずにきたのだ。


 そんな時だった。

 私とアシュリーはお婆に呼び出されたのだ。なんでも、大事な話がある、ということだった。それを私に伝えたおでこの広いマークの顔が引きつっていた。


「マーク……、ひょっとして悪い話?」


 マークは「わからない」と言いながら首を横に振った。でも彼の顔から察すると、それほどよい話ではないかもしれない。すると、私の後ろで青鹿のコートを纏いしゃがみこんでいたアシュリーが「ちょうどよかったわ。私もおばばに話があったの」と言い、立ち上がった。

 4層の皆の視線がアシュリーに集まる。

 アシュリーはどうしようもないおてんば娘であるのと同時に、皆から愛されるようなキャラクターだったから、不思議な人望があった。だから皆不安の入り交じった目でアシュリーを見つめていた。


「大丈夫よ皆。別に喧嘩するわけじゃないのだし」とアシュリーが笑っても、その緊張感を伴った視線は消えることはなかった。きっと皆、何か知っているのかもしれない。

「リリア」とアシュリーが手を差し伸べてきたので、その手を握りしめ、立ち上がった。そして、私とアシュリーはそろって4層の一角にある長部屋の中に入っていった。壁を本棚に囲まれた狭い部屋の中央にはおばばが恨めしそうな面構えをして座っていた。もうこの顔を見ただけでおばばの機嫌がわかった。怒っている。絶対に怒っている。


「で、おばば、話ってなに?」とアシュリーが言えば「まずは座んなさい」とおばばが促した。


 私とアシュリーは二人そろって長部屋の出入り口付近に座った。私は正座で、アシュリーは三角座り。再びおばばを見た。真っ白な髪を後ろで束ね、厚手のちゃんちゃんこを身にまとったいつもの恰好で、地層のような深いしわが顔にこびりついていた。

 少し前かがみでこちらを睨むおばばは「本を盗んだのはどっちだい?」と尋ねてきた。背筋が震え、心臓が飛び跳ねそうな気がした。


「私よ」とアシュリーが即座に答えた。「でも盗んだわけじゃないわ。借りただけ」

「そりゃあ盗人の言い分だねぇ」

「もちろん勝手に借りて悪かったって思ってるのよ? だから謝るわ」と言ってアシュリーは三角座りのまま頭を下げた。

「それで、おばばの話ってそれだけ? ならば、今度は私の方から話があるの。いいかしら?」

 アシュリーの問いに、おばばは何も答えなかった。

 二人の間の空気が張り詰めてゆくのがわかった。4層の皆も二人の会話に聞き耳を立てている様子だった。そんな中でアシュリーはゆっくりと立ち上がり、言った。



「私は、ハウスの皆を一度地上に連れていきたいの。たぶん、そうすることが一番正しいことだと私には思えるの」



 おばばの目が鋭くなってゆくのが分かり、私の顔もこわばっていった。言ってしまった、と思った。アシュリーはたぶん一番口にしてはいけないことを言ってしまったのだ。


「これからその理屈を説明するわ」

 アシュリーの話は簡単に言うと、こういうことだった。

 これ以上ずっと地下に留まっているのは、皆にとってあまりよい選択ではない、という話だ。理由の第一としては日に日にやせ細る土地にあった。モグラもネズミも満足にとれず、野菜も上手く育たない。これ以上ここに縛り付けられても待ち受けているのは死のみである、と。

 皆、もっと地上に目を向けるべきだ。地上には豊沃な大地が待っている。私たちの食べたことのない食料があり、毎年食べ物ばかり気にする未来から解放される。少なくとも、このハウスと同等規模の移住先を探すべきであるし、そこを新たに開拓するべきだ。もし開拓できないとしても、せめてもっといろんな植物の種子を集めてくるべきで、その為には地上にでることは必須である。


 更にアシュリーは続けた。

 魔獣フェンリルを倒せない存在として諦めるのは間違っている、と。記録上、フェンリルは一度倒されたことがある。もっとそのことを熱心に研究すべきであるし、そのための魔術の開発にいそしむべきである。

「特に封印の術を」とアシュリーは語気を強めた。

 封印の術? 初めて聞く言葉だった。

 どのような魔法なのだろう。と思ったところで、お婆がゆっくり目をつむった。そして、長く深い溜息をつくと首を横に振った。


「まだこれをリリアが言ったんじゃったらよかった……。まだ、リリアなら許せた。だがアシュリーは駄目じゃ。アシュリーには皆を動かす力がある。そして、今から考え方を変えろと言ってもダメじゃろう?」とお婆はアシュリーの顔を見た。アシュリーは顔を変えなかった。変わらない顔でずっとお婆を見つめていた。むしろ変わったのはお婆の顔だった。般若のような厳しい顔つきをしていたのに、今はとても悲しそうな顔をしていた。愛しくてたまらない者を失う切ない顔を……。


 私は怖くなった。その先の言葉をお婆に続けないでほしかった。心臓の鼓動が張り裂けそうなくらい大きくなってゆくのを感じた。だから私は居ても立ってもいられず「お婆」と言いかけると、それを無視するようにお婆はしゃべり続けた。


「ワシはもうすぐ死ぬ。もって、あと1年じゃそうだ。その前にワシは決断しなければならなかったんじゃ。ワシの作り上げたこの『ハウス』の未来と皆の未来のために……」


 私はおばばの言葉を聞きながら、昔見たとても嫌な夢を思い出していた。ハウス内に魔獣フェンリルが現れる夢だ。フェンリルはその長い舌でハウスの仲間を食べた。一人、二人、そしてその舌先が次に絡みついたのはアシュリーだった。私はアシュリーと目を合わせた。たぶんそれは夢の中でもほんの一瞬の出来事であったのかもしれないが、それはすべての瞬間がコマ送りで流れてゆくみたいにとてつもなく長く感じた。

 胸が張り裂けそうだった。

 私たちは互いが永遠に分かれてしまうと悟った瞬間だったからだ。嫌だ、と思った。絶対にそんなことは嫌だ、と。手を伸ばし、声をあげた瞬間、私は跳び起きた。全身が汗に濡れて土にその染みがついていた。もうその頃にはお父さんもお母さんも死んでいたから、血を分けた唯一の肉親はアシュリーだけだった。アシュリーと離れ離れになるなんて考えられなかった。その時、となりに寝ていたアシュリーの寝顔を見て、私は随分安心したことを覚えている。

 ああ、よかった、と。これからもアシュリーと一緒に生活できる。私たちは離れることはないのだ。それだけで、とても嬉しかったのだ……私は……。



 おばばの目がはっきりとした厳しさをもち、震える指先をアシュリーに向けた。



「追放じゃ、アシュリー。お前に追放の処分を言い渡す。このハウスに悪い影響を広める者をここに置いておくわけにはいかん。これは、このハウスの長としての命令じゃ」

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