第2話 地下の世界 ー2ー
私たちが住んでいる『ハウス』には、私たちを導く役割として『長』という役職があった。長は基本的にはこのハウス内でおこることの全てに対する権限をもっていた。例えば長はハウス内の住民の半分以上の同意によって新たな掟を作ることができたし、その掟を破った者に対する刑罰の決定権を持っていた。だからこそ、ある一定の人格と知識を有する者こそが長になるべきだ、という常識がハウス内には存在し、二年に一回、入れ札(投票)によって長を決めることになっていた。
現在の長は『おばば』と呼ばれる高齢の女性で、私が小さなころから長の役割を引き受けることの多かった人だった。おばばは考え方が保守的で、ハウス内を変えたがらない人だったから、アシュリーのような考えをもった人間とはしょっちゅう言い争いになった。でも、それでもおばばのことを悪く言う人はあまりいなかった。何故なら彼女はあらゆることを知っている女性だったし、皆に公平で、くちやかましいが優しかったからだ。そして何よりおばばはフェンリルの恐ろしさを知る数少ない人間だった。
もうかなり昔の話になるが、お婆がまだ若かったころフェンリル討伐の為に編成された軍隊に従軍した経験があったらしい。お婆の役割は負傷した兵士の傷の手当をする後方支援で、戦いが始まるときには少し離れた場所にいたそうだ。初め、お婆はその戦いに圧勝すると思っていたらしい。だって、まず人間側の方が圧倒的に数が多く(お婆の話によると約5万人)その一人一人が精鋭揃いだったからだ。お婆もよく知る当時最高の魔導士や、音に聞こえた剣士が万全を期して挑むのだから間違いない。そう当時のお婆は考えた。しかし、お婆の予想に反し、その戦いはたった数分で決着がつく。魔獣フェンリルは一斉に放たれたすべての魔法を吸い込むと、それをそのまま跳ね返し、軍隊の半分を壊滅させたのだ。あとは巨大なしっぽを振るたびに、辺り一面に肉片が飛び散り、大地はあっと言う間に赤く染まったそうな。
お婆は最初何が起きているのか分からなかったそうだ。夢を見ているに違いない。そんなことを思ったらしい。だが、目の焦点が定まり、正気に戻ると、ふらつく足を支え、何もかもを捨ててお婆は逃げた。そうするしか生きる道がないと思ったからだ。今でもあの時の光景を忘れることができないとお婆は言う。あれほど最高の魔導士達が集まったのに、あれほど最高の戦士たちが集結したのに、まったく話にならなかった、と。
そうして、数人の同志と共に物資をかき集められるだけかき集めて、現在の『ハウス』を作り上げたのだそうだ。以来お婆はハウスの生き字引としてフェンリルの恐ろしさを次の世代に語り継ぐ役を担い、そして現在また長としてその責任をまっとうしていた。
つまり、なぜこんな長々とお婆のことを思っているのか、というと私の姉……アシュリーが今やっている“この”行動は、お婆の中では全く意味をなさないどころか、十分に怒りに触れる行動だと思ったからである。
アシュリーは長しか入ることの許されない長部屋に無断で侵入し、ある本をかすめ取ってきたのだ。
タイトルは『フェンリル記』だ。誰が書いたのか不明だが、本当におそろしいことに、アシュリーは地上に戻るために本気でフェンリルを倒すことを考え始めたのだ。おばばが聞いたらきっと卒倒するに違いない。
「いいこと、よく聞きなさいリリア。フェンリルは一度倒されたことがあるのだそうよ。つまり、一度倒せた、ということは二度目も倒せるかもしれないってことじゃない?」
「はいはい」と私は聞き流した。
アシュリーと私は同じ班で行動することが多く、アシュリーは仕事の合間によくこういう話をしてきた。4層の皆のいる前ではとてもできそうな話ではない、という自覚だけはあったらしく、二人きりになったときだけその話をしてくるのだ。
それにしても、と私は思った。アシュリーが心酔するその作者不明の本は随分と嘘くさい情報に溢れていた。例えば、今アシュリーが口にしている情報もそうだ。一度倒したというのなら、どうして今もフェンリルは存在しているのだろうか。馬鹿馬鹿しい。倒したのなら死ぬはずだし、私たちはとっくの昔に地上で平和に暮らしているはずである。しかも、その本の中に出てくるフェンリルは本当におばばの話から聞くフェンリルと同じ生物なのだろうか、と思うほどサイズが安定しなかった。
本の中に出てくるある人の話では“フェンリルの背丈は人の背丈よりほんのすこしばかり大きい”という表現であるのに対し、数ページ後の違う人の話では“天高くまでそびえ立つほど大きな魔獣である”と表現されていたりした。
この矛盾をどう思う? とアシュリーに尋ねると、アシュリーはこう答えた。
「おそらくだけど、その小さなフェンリル、というのはフェンリルの子供なんじゃないかしら。私たちだって子供を産む生き物でしょう? そして子供の頃は小さいものよ、どんな生き物だってね。つまり、小さなフェンリルは子供のフェンリル。大きなフェンリルは大人のフェンリル。ほら、そういうことよ!」
おばばは確か魔獣は一匹しかいない、ということを言っていたような気もするが、どうなのだろう、と思い私は両手を広げ、床一面に広がる野菜たちに均等に光を浴びせていた。今、私とアシュリーは5層の野菜たちに光を当てる仕事をしていた。この仕事は週に1回はしなければならない辛い仕事で、絶えず魔法の光を出し続け、植物たちに光を届けなければならなかった。なんでもおばばの話によると植物たちは光を餌に成長する生き物らしく、これを怠ると、最悪枯れてしまうこともあるのだそうだ。葉の形をみた。どこか元気のないような葉の形をしていた。こういう葉の形をしている時は、不作であることが多い。どうしてこんな形をするようになってしまったのだろう。しかも、昔よりもそんなことが多くなってきた気がする。本のページをめくる音がした。隣を見ると、アシュリーの発する光がまだらになっていた。うまく均等に光を当てなければならないのに……。
「アシュリー。本を読んでないで、光の調整をうまくやって。そんな本を読むよりも光を上手く浴びせないと、またおばばに叱られるでしょう?」
「そんな本って何よ。私は今とっても大事ものを読んでいるの」
「野菜に光を当てることはもっと大事でしょう? ならちゃんとしなきゃ。ここ数年、野菜たちの元気がないのを知っているでしょう?」
「それはそうかもしれないけど……、今大事なところを読んでるの。この説なんて本当にそうなんじゃないかしらって思えるもの。いい? フェンリルに最も似ているのは召喚獣カルニバルではないか、という説よ。カルニバルというのは太古の召喚獣らしいわ。千年前に滅んだとされる古代アッカルク人の召喚獣。彼らはこの召喚獣を使い、次々と周りの国を討ち滅ぼしていったのだけど、最後にはこの召喚獣自身の手によって滅んでしまったんですって。でね、聞いて。どうしてこの召喚獣を私がフェンリルと思ったというと――」と言いながらアシュリーは本のページをまためくり、持論を展開した。
光の強弱が更にまだらになり、私の唇から大きなため息が漏れた。こうなるとアシュリーはほとんど説得不可能だった。でも、それだけに私は不安を感じた。今までは子供の無邪気な願いと思って大目に見てくれていたおばばがアシュリーをどう処置しようとするのか。私の気も知らずアシュリーは熱心に本に目を通していた。変な胸騒ぎがした。
もう私たちは17歳になった。
もう大人と言える年齢に……。
そう、私たちは、責任をとらされてしまうような年齢に達していたのだ。
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