7-5「トライアスリート」




「…で、丈さん結局何位だったんですか?」


「7位。」


「7位ですか?最終ラップ5位とかで入ってましたよね。放送で聞こえましたよ。」


「晃、そういう自分はどうなのさ。」


「13位でした。足重くてしんどかったです。」


「…。」


「…。」


「お互いまだまだだね。」


「そうですね。」



 お台場海浜公園、トライアスロン日本選手権フィニッシュゲート裏の選手控え室。そこでは激闘を終えた選手達が、喜怒哀楽、それぞれの表情を浮かべながら談笑していた。

 新谷丈と八木晃も他の選手に倣うようにたった今終えたばかりのレースについて、話をしている最中だった。


「丈さんは最終ラップで抜かれたんですか。」


「うん。4周目入ってすぐに海老原さんに抜かされた。その後粘ったんだけど、最後の最後に西国運輸の木原さんに追い抜かれた。」


「マジすか。惜しかったですね。海老原さん、そのまま5位でしたっけ。」


「ああ、俺5位行けると思ったんだけどなぁ。」


 新谷と八木がそんな話をしていると、控室に新たな選手が入ってきた。村井と朝川、そして大室だった。3人はゴール後、ミックスゾーンと呼ばれる報道陣からインタビューを受けるエリアで、取材を受けていた。それが今、終わったのだ。三者三様、それぞれ晴れ晴れとした表情を浮かべながらも、どこか何か含みのある表情を浮かべていた。その3人の先頭で控室に入ってきた選手、村井勇利の姿を見とめ、新谷がポツリとつぶやいた。


「今年も優勝は勇利か…。」




 ラン最終周回、まず初めに飛び出したのはチームアインズの石上だった。渾身の力を込めて、ラストスパートを仕掛けていた。それに反応できたのは、村井、大室、朝川の3名。フィニッシュまで後数百メートルという地点まで逃げおおせた石上だったが、捨て身の攻撃も虚しくそこで追ってきた3名に追い抜かれてしまう形となった。

 フィニッシュ直前、団子状態で走る3人の中でまず最初に仕掛けたのは朝川だった。牽制状態に入っていた集団から一気に急加速し、他の2名を引き離しにかかった。

 しかし、他2名もそこで負けるわけにはいかなかった。朝川のラストスパート、そのスピードのままフィニッシュエリアへ戻ってきた3人だったが、勝負を制したのは、最後にもう一段、加速を隠し持っていた村井だった。次いで朝川、3位に大室という順番で、今年の日本選手権の表彰台は決定した。




「丈さん。狙ってたんですか。」


 荷物を片付ける村井を見たまま黙ってしまった新谷を見て、八木がそう問いかけた。新谷は村井から視線を逸らさないまま「あぁ。」と気のない返事を返してきた。肯定か否定か、どちらともつかない返答に八木は首を傾げながらも、新谷丈、引いてはトライアスロン選手という人種についてある程度見識のある八木は、彼の回答について自身の中で勝手に答えを決めた。

 すると唐突に新谷が首を巡らして視線を八木の方へ戻してきた。


「そういえばさぁ、朝川さん、何かフィニッシュ後いつもと違くなかった?さっきフィニッシュの映像が会場スクリーンで流れてたけどさぁ。何かから解放されたというか、何というか区切りがついたみたいな…。」


「そういえば、普段だったらあんなことしないですよね。僕もよくわかんないです。」




——終わった。全部。


 朝川仁志はフィニッシュラインを跨ぐと同時に前のめりに膝から崩れ落ちた。そして、這うようにして他の選手の邪魔にならない位置まで移動した後、その場に倒れ伏した。普段だったら絶対にこんなことはしない、しっかりと立って、控室に捌ける。しかし今はそれが出来なかった。それほどまでに全てを出し尽くした。もう、血の一滴も残っていない、競技生活の全てを出し尽くした。


——もう、終わりかぁ。


 終わってみると呆気ない最期。漫画のスーパーヒーローのように有終の美は飾れなかった。しかし、これもこれで自分らしいとさえも思った。端にもたれかかって地べたに座り天を仰いだ。雲の晴れたお台場の空からは、真っ直ぐに陽の光が降り注ぐ。しかし、その陽光が照らすのは自分じゃない。今し方自分が跨いできたフィニッシュラインの手前で、カメラマンからのフラッシュを一身に浴びる彼、村井勇利ただ一人なのだ。

 かつては自分もあの光の中に居た。しかし、もうあそこに自分の居場所は無い。時代は変わる、時は流れる。かつての名選手は時の流れとともに、伝説となり、逸話となり、そして最後には皆等しく忘れ去られる。それは朝川自身も例外ではない。

 しかし、意志は継がれる。同じ国、日本の選手として共に戦った時間は確実に村井の中に残っている。それは3位だった大室も、その他の選手達にしてもそうだ。


——これからのこの国のトライアスロンが、楽しみだな…。


 そこにはもう、自分の存在はない。しかし、自分が受け継ぎ、次世代へと託した「世界で戦う」という意志は、確実にそこにある。その意志が失われない限り、朝川の存在もまた、消えることはない。


——引退会見?発表?考えないとなぁ。


 思いの外、未練のない自分に驚きながらも、朝川はもう少しだけこの場所で、選手としての最期の時間を味わっていたかった。





 カメラのフラッシュが焚かれる。あちこちからマイクが差し出され、それに向かって、酸欠気味の頭で言葉を探しながら質問に回答していく。何度やっても慣れない事だが、回を重ねるごとに少しづつよくなっている気がする。

 村井勇利は、いまだに切れ切れな呼吸の中、マイクに向かって懸命に喋る。勝者の仕事、この競技の顔となるかもしれないコメント。

その諸々を、村井は特に考えもせず思うように話していた。


 気の利いたセリフの一つや二つ言えればいいのだが、生憎村井はそのような知識もユーモアのセンスも持ち合わせていなかった。とにかく言葉を探す事、それだけで精一杯だった。

 浮かんだ言葉は、酸欠気味の脳には届かず、脊髄反射的に口から出ていく。その為、文章の形をとっているかも怪しいが、そんな事気にしていられない。


——勝った。でも、まだまだ、だ。


 このうえに世界シリーズがある。各国の強豪選手もまだまだ存在する。自分はこの国のチャンピオンとして、また1年間、そういったライバル達と戦っていくこととなる。

 もちろん、日本のライバル達もこの力関係をひっくり返そうと、絶えず目をギラつかせて勝負を仕掛けてくる。またそういった1年が訪れるのだ。


——不自由で、苦しくて、でもここ以上に強くなれる場所はそう無い、かな…。


 結局色々あったが、自分はとにかく競技が好きだ。それを十分できる環境に身を置いていたい。そう思うとこれまでのあれこれが、どうでもいいようにさえ感じられてきた。


——本当に必要になれば、きっともっとスマートな道が開けるはずだ。とにかく今は、余計な事は排除して、もっとずっと強くなりたいな。


 この国のチャンピオンとしてどう有るべきか以前に、トライアスロン選手としてどうありたいか。村井は今、とにかく強くなりたかった。この国のトライアスロン界が世界の舞台でも通用するように、その先頭に立って戦っていきたいと、そんな考えがスッと頭に浮かんだ。

 不意に目の前に記者の持つマイクが一本、ずいっと差し出された。


「村井選手。今のお気持ちはどうですか。」


「勝てて嬉しいですが、まだまだ強くなりたいです。またしっかりと練習していきます。」


 村井はとても晴れやかな表情を浮かべながらそう答えた。





——5位。


 海老原颯人は、控室のパイプ椅子に座り、何ともいえない感情をどう処理しようかと思い悩んでいた。

 5位。

 1年目にしては、十分すぎるほどの成績。しかし、自分が思い描いていた成績からは程遠い順位。喜ぶにも悲しむにも、どっちつかずになってしまっていた。


——すごくいい順位だ。誇っていい。最高だ。でも…。


 優勝したかった。素直にそう思った。大口を叩いて飛び込んできたこの世界。やはり大きな成績を残したかった。しかし、自分の想像以上にこの世界は厳しく、辛く、思い通りにいかない事だらけだった。


——また一からやり直しだな。


 来年がある。そんな甘い事は言いたくなかったが、今のこの微妙な感情を処理するためには、そう思う他なかった。


「海老原さんお疲れ様です。」


 覚悟を決めた海老原が視線を上げると、目の前に新谷が居た。レース後、全てを出し切った選手達はしばらく抜け殻のようになる。今目の前にいる新谷も、表情こそ笑顔だがいつもそこにある筈の覇気が全く含まれていない笑みだった。


「ラストラップ、あんなに凄い勢いで追い抜かれるなんてビックリしました。全然着けなかったです。」


 海老原は、ランの最終周回に入ったところで5位を走っていた新谷を追い抜いていた。追い抜き様は、陸上選手時代に身につけた技術で一気に加速し、新谷に後ろについて来られる事を防いでいた。陸上選手としての経験と小技が、勝負が最後までもつれ込んでしまうことを予防する形となった。


「いや、でもあそこまで追いつくの大変だったよ。…新谷くんはこの後何処かレースでるの。」


「はい。再来週に、タイとかフィリピンとかあの辺りでで連戦してきます。確か海老原さんともいくつか被ってるレースありましたよ。」


「そう?飛行機いつ?よかったら一緒に行こう。」


「はい!晃と一緒の飛行機なんで、3人で行きませんか。…あ、おーい!晃こっちこっち!遠征のこと!」


 新谷が朝川と村井3人で会話をしている八木を呼んだ。「遠征のこと」という言葉を聞き、八木と一緒に2人も新谷と海老原の元へ来た。


お互いに情報交換をしながら、合わせられるところは合わせていこうと予定の確認をする。一度シーズンに入れば、彼らは旅から旅への生活である。レースが終われば、間をおかずに次のレースがやってくる。

選手達は、世界中のあちこちへ散り、ありとあらゆるレースで競い合う。そうして振るいにかけられ、勝利を手にし、生き残った選手達が、最期オリンピックや世界シリーズ戦などの舞台でしのぎを削る事となる。




トライアスロンという舞台で夢を叶えようと目論む者達に、安息の時間は殆どない。少なくとも次のレースが控えている限りは。

しかしそんな中でも、彼らは楽しみを忘れない。

例えば、次の遠征先でのディナーとか。

その国の有名なお土産とか。

観光地を巡ったり、絶景を観に行ったり。

他の国のライバル達との交流、次のレース展開について予想を巡らしたり。

帰国後に、何処へ遊びに行こうかとか。

そして、この日々の末に辿り着くであろう自分の夢について考えたりだとか。


村井の健闘を新谷が称える。

次の遠征先について、村井が朝川から注意点を聞いている。

控室の選手達を見渡し、朝川が非常に穏やかな笑みを浮かべている。

八木が海老原にランについてのレクチャーを受けている。

海老原が、また練習に行かせて欲しいと朝川に申し出る。


束の間の休息。この上ない穏やかな時間。この控室を出れば、また次の戦いが始まる。また、それぞれの場所で、それぞれの夢へ向けてのレースがスタートする。


血湧き、肉躍る果てしない闘争の果てで、彼らの内何人が望むものに辿り着けるかはわからない。

道が絶たれ、心挫け、志半ばで散って行く者が大半だろう。

しかし、心の底から求めることを辞めない限り、信じた夢を、望んだ未来を見失わない限り、必ず道は続いていく。

信じた道を心の底から信じ切れている限り、必ず希望はやってくる。

 歩みを止めてはならない。信じた道を疑ってはならない。夢を忘れてはならない。


「また、始まりだな…、」


 控室から出て見上げた空は、とても晴れ渡っていた。ポツリと呟いたその言葉は、誰の耳にも届くことなく、青い空へと溶けていく。


 ボロボロの体に喝を入れ、一歩踏み出す。

目の前に、道が見えた。

 夢の続きは、まだあるようだ。



【終わり】


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ハートビート @frym

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ