7-4「日本選手権・ラン」



 お台場海浜公園に特設されたトライアスロン日本選手権の会場、そのトランジッションエリアに選手達が帰ってきた。

 バイク8周回40kmを終え、まず帰ってきたのは先頭集団。

 ABCドリンク・村井、チームトライピース・朝川、西関東住建・大室と青木、天保大学・八木、チームアインズ・石上、エバンスジャパン坂本スポーツクリニック・新谷、の計7名である。

 最終周回手前で集団を崩壊させるべく、攻めに転じた西関東住建だったが、集団内の選手を減らすには至らなかった。しかし、ライバル選手の脚を削ることには成功したようで、集団内の選手の殆どが皆大なり小なり苦悶の表情を浮かべていた。


『さあ!今、先頭集団の選手達がトラジッションエリアへ帰ってきました!先頭でバイクを降りたのは西関東住建・大室選手!続いて青木選手!バイク最終周回で攻勢に出た2名が、先頭でトランジッションエリアへ駆け込んできました!』


 バイク周回ポイントから場所を移し、ランの周回ポイントに当たるトランジッションエリア前の放送席に移動してきた志摩が、席につくや否や目の前を通り過ぎていくレースの実況を始めた。遅れて席についた佐野も、慌ててマイクの電源を入れ、解説としての仕事を再開する。


『最後に攻勢に出た西関東住建ですが、これがどれほどライバル達へのダメージになっているかが勝負の分かれ目になりそうですね。彼らが攻撃のために消耗した体力に見合うだけのダメージを与えられているかどうか。逆に、ライバル選手達は彼らの攻撃をどれほどの体力消費で凌いだのか。そういったところにも注目しながら、これからのランを観ていく必要がありそうです。』


『さあそして!自転車を置き、ヘルメットを外し、シューズを履いて最初にトランジッションエリアを飛び出してきたのは、西関東住建大室選手!そしてその後ろにピタリとつくように、ABCドリンクの村井選手もタイム差無しで飛び出した!最後の勝負が今、始まりました!…おぉっとそして!今、第2集団の選手達がトランジッションエリアに帰ってまいりました!先頭を行くのは、海老原選手!12名の集団が、今トランジッションエリアに、、、入ってきた!入ってきました第2集団!タイム差は…47秒です!一時は54秒まで開いていた先頭集団との差を47秒まで詰めてきました!』


 第2集団の先頭でトランジッションエリアに帰ってきた海老原の表情に余裕の色は無かった。焦りか怖れか、少なくとも諦めの表情でない事は確かであったが、とても良い表情には見えなかった。そんな海老原が放送席前を通過していくのを観て、佐原がポツリと呟いた。


『このレース、彼を含めた優勝を目指す全ての選手にとって厳しいものになりそうですね。』


 解説としての発言か、はたまたただの独り言か、その区別さえもつかぬ程ポツリと呟かれた言葉にしまは少し戸惑いながらも、率直な疑問を佐原にぶつけた。


『どの選手にとっても厳しいとは、どういったことでしょうか。』


すると志摩の問いかけに、佐原は走り行く選手達の後ろ姿を目で追いながら解説を始めた。


『まず、今回のレースでは、現時点で優勝候補3選手のうち誰の思う通りにもレースが展開していません。西関東住建の攻撃然り、第1集団と第2集団の人数・タイム差然り、おそらく村井選手・大室選手・朝川選手のそれぞれが最良とする展開のどれにも当てはまっていないでしょう。』


 そういうと、佐原は手元の資料に目を落とした。有力選手の各種目のベストタイムが記載されている資料だ。


『そして今年は、第2周団に海老原選手がいます。47秒差は正直、彼の走力を持ってしても追い着くのは厳しい差です。しかし、だからと言って先頭の選手達が牽制をしてペースが落ちようものなら、あっという間に詰められてしまう差でもあります。』


 放送席前を第3集団の選手達が通過した。その選手達のことも目で追いながら、佐原は発言を締めた。


『故に優勝を目指すなら、各々の選手は個人の持てる力を全て出し切りつつ、フィニッシュへ向けてライバル達との駆け引きも行わなければならないのです。そういう意味で、今回のこの展開は、各選手にとってかなりギリギリの戦いになることが予想されます。』




 ラン1周目終了。先頭は、村井、大室、朝川、石上、新谷の5名が固まって走っていた。そのわずか後ろを青木と八木が、彼らもまた一塊になって懸命に前を追って走っていた。

しかし、バイク終盤で攻撃の起点となった青木にはもう殆ど余裕はなく、顎が上がり、頭が着地のたびに左右にブレていた。


八木晃に関しても、その走りからは余裕は感じられず、最終局面へ向けての駆け引きなどといったことは、ほぼ不可能ではないかというほど極限の状態で何とか前に進んでいた。


——足が、前に、出ない、、。


 バイクから降り、トランジッションエリアを勢いよく駆け出したところまではよかった。しかし、1周目終盤から徐々に脚が上がらなくなってきた。それに伴って妙に自分の体の重さを感じるようにもなってきた。一歩を踏み出すたびに、重力が倍になったのかのような体重が足にかかる感覚があり、地面を蹴ってみても、まるでアスファルトが溶けて足にまとわりついているのではないかというほどの重さを感じる。


——腰が落ちてる…。このままじゃ、スピードが乗らない。


 暴れるように脈動する心臓は、追加の酸素を絶えず要求してくる。それの応えるため口を大きく開けて呼吸をしようものなら、顎が上がり、それに連動して腰が下がる。人体のほぼ中心に位置する腰が下がれば、全体的に地面が近くなり、上手く着地の処理ができなくなって走速度が落ちる。

 正に今、八木はそういった負の連鎖にハマってしまっていた。肩の力を抜こうが、息を整えようが、なかなか元に戻らない。徐々に小さくなっていく先頭集団の背中。そして、背後から押し寄せてくる第2集団の面々のプレッシャー。

 八木の心の中に、ポツリと思いが落ちてくる。


——もう、諦めてもいいのではないか。


 静かな水面に水滴がポタリと垂れてきたように、それまで乱されることなく保っていた心の中に、たちまち波紋が広がっていく。

一度揺れ出した心中は、やがて八木の弱気な心を露わにする。

それに八木が気づいた時、水面はさらに揺れを強め、一気に嵐の海のように荒れ狂うところまで行ってしまった。

巨大な波に打ちつけられながら、尚も踏ん張る八木の心だが、もはや限界は近かった。このままではあと数瞬もしないうちに、八木の心は折れる。


——今日はよく頑張った。学生の身でここまでレースをやったのは流石だよ。あとはもう歩くなり何なりして、楽にレースを終えようじゃないか。


 何かが八木の肩に手を置き、労いの言葉をかけてきた気がした。

 いや、違う。これは他の何かでは無い。

 これは、八木自身だった。八木自身の想いだった。それまで熱かった腹の底が冷えていく気がする。荒れ狂う心臓も穏やかになっていく。真っ赤に燃えていた視界が、次第に元の色を取り戻していく。

 辛い、キツイ、もう辞めたい。十分頑張った。今なら如何様にでも理由をつけられる。


 楽な未来、優しい世界、これ以上苦しまなくていい選択、この苦しみから真っ先に解放される方法…。

 そういった甘く、優しい選択を八木は、


「ふざけるな。」


 バッサリと切り捨てた。


——ようやく見つけたんだ。本気になれるもの、誰にも負けたくないって想い。今までの俺には無かった、全力でぶつかっても越えることのできない壁。今ここで脚を止めてしまったら、もう2度と見つけられない気がする。もう2度とこんなに気持ちが昂らなくなってしまう気がする。


 再び腹の底に熱いものが生まれる。


——この状況、確かに今は絶望的だ。でも、前の選手が皆足を吊って倒れるかもしれない、突然ペースダウンするかもしれない。


色を取り戻したはずの視界が、再び真っ赤に燃え上がる。


——もう逃げない。勝ち筋の薄い現状も、力不足な現実も、真正面から受け止める。もう、斜に構えるのはやめだ。


 体は重い、腰は落ちている。スピードは上手く乗らないし、先頭はどんどん遠ざかっていく。しかし、八木の目は死んでいない。しっかりと前を見据えている。何の言い訳もできないほどの全力を出し切って叩きつける。終わってみなければ結果はわからない。まだまだ諦める局面ではない事を再認識し、八木は辛く苦しい世界へ進む事を決意した。





——来てる来てる来てる!今日の俺は来てる!


 先頭はラン3周目に突入し、メンバーを村井・朝川・大室・石上・新谷の5名としていた。青木と八木が離れた事以外に目立った動きは無く、お互いの腹を探りながらレースは進行していた。

 そんな先頭にあって、新谷丈は完全に舞い上がっていた。彼にとっては決して楽とは言えないはずのペース。当然息苦しさは臨界点を超え、心臓は肋を突き破って出て来そうなほど激しく脈打っていた。しかし、彼史上最高位でレース終盤までもつれ込んでいる現実に対して、精神が肉体を超越した形になっていた。


——残り半分。誰がどこで仕掛ける。やはり勇利か。大室さんはキツそうだし…他の2人は…わからない。


 初めての経験。日本のトップ選手達と肩を並べて、今こうして走っている。間違いなく、今自分は日本トップ選手の一角として走れている。そういった思いがこの時ばかりは良い方向に働いていた。正に浮き足立った状態。しかし、彼はそのまま、宙にに浮いているかのような軽さを持ったまま走り通している。


——行ける。今日は行ける!仕掛けてやる。勝ってやる!


 3周目中盤。コースの半分に位置するここに折り返し地点が存在する。一度選手の速度が落ちるこの地点には、何人か各チームのスタッフが立っており、タイム差を読んでいた。


「後ろ!海老原!14秒!」


 沿道からの声に新谷は一瞬「えっ…。」と聞き返しそうになった。折り返し点をぐるりと回り再び走りだすと、すぐそこに海老原がいた。その差はもう100m無いだろう。新谷は視野が狭まり完全に彼の存在を失念していた。新谷の心が僅かに揺らぐ。


——海老原さんが迫ってきている。ここまで大きなペース変化が無い。そのことから導き出されるのは…。


 折り返し点は、モノレール橋の船の科学館前駅の下辺りにある。そこから、お台場海浜公園に向けて緩やかな下りが数100m続く。見通しの良いこの下りは、スピードが乗りやすい。過去の日本選手権では、何度もここでペースアップが掛かり、勝負が決まってきた場所だった。


——…ッッ!


 と新谷が思うと同時に朝川が仕掛けた。下りの傾斜に乗り、グングンとスピードを上げていく。それを待ってましたと言わんばかりに、村井、大室、石上の3名もペースを上げる。

 新谷も思考より先に体が反応していた。石上の後ろにピタリと付け、朝川のスパートに反応した。数秒後、ようやく新谷の意識がスパートに追い付くと、同時にそれまで経験したことのないような苦しさが彼を襲う。


——ッハァ!ッハァ!


 それまでの余裕が嘘のようだった。体はすでに限界を迎えていたということだ。突然の事に乱れそうになる心を何とか持ち堪え、新谷は冷静に状況を分析…できなかった。


——キツイ苦しいキツイ苦しいキツイ苦しい!


 選手としての本能が、何とか前を追わせているが、それもいつまで保つかわからなかった。人としての本能が、危険信号を出す。これ以上追い込む事を強制的に辞めさせようとする。しかし、新谷はギリギリのところで踏ん張った。


——諦めない。止まらない。ここで辞めても大金星だけど、俺が欲しいのはそれじゃない。今日ここで勝つ。そしてまたあの舞台に戻る。せっかく目の前に可能性が転がってるんだ。みすみす逃してたまるか…!


 走りのリズムを先導していた腕を一度大きくストンと下に落とした。そうする事でいくらか脱力し、余計な力を抜いた。浅かった呼吸が少しだけ深く吸えた。霞がかっていた視界も幾分か晴れた。

ペースアップした先頭集団は、朝川、村井、大室と少し間を置いて石上、新谷という形になった。新谷の顔色を石上がチラリと伺う。

 努めてポーカーフェイスを装う彼とは対照的に、新谷の表情は既に限界といった風だった。それでも彼は千切れない。

 その様子からは、望み薄にも見えるが、最終局面の勝負所へ参加すべく、彼は尚も先頭に居座った。





『ああっと!!仕掛けました!沈黙を破ってまず最初に仕掛けたのは、ベテラン朝川選手!すかさず全選手反応しましたが…、新谷選手厳しそうだ!一度落ち着きましたが、朝川選手を先頭に一列棒状縦長になりました!』


 それまでの沈黙を破るように、朝川が動きを見せた事で実況の志摩が待ってましたと言わんばかりに興奮気味に捲し立てる。隣にいた佐原も食い入るようにバイクカメラの映像を観る。


『村井選手、大室選手はまだ行けそうですね。石上選手は…どうなんでしょう?彼、かなりのポーカーフェイスですね。』


『確かに!そして、それを猛烈に追い上げる海老原選手!このペースアップを見て、自身もペースを上げたか?!タイム差は依然14秒!』


——ダメかッ…!


 朝川は渾身のスパートが上手く決まらず内心舌打ちをした。確かに残り距離を計算しての動きではあったが、それを考慮してもかなり決定的な攻撃になる予想だった。


——まあ、この一回で勝負が決まるなんて思ってないさ。けど…なかなか厳しいねぇ。


 足音から察するに、あまり集団崩壊とまではいってない様子を感じ取っていた。ならば次は、4周目の同じ場所で仕掛けようと思った矢先、足音のうちの一つが突然大きくなり、浅川に迫ってきたと思ったら、その横をかなりのスピード差を持って追い抜いていった。

 朝川は慌ててその背を確認する。腰部には「ISHIGAMI」と選手名が白くプリントされている。仕掛けたのは石上だった。


——マジか。合宿の時はそれほどでもなかったのに。


 しかし現実問題、その石上が地面を力強く蹴って先頭を走っている。そのままトランジッションエリアを抜け、最終周に突入する。


 今までも、下の選手が突然物凄い力を発揮して成長していくのを見てきた。それこそ何度も目の当たりにしてきた。海外選手、日本人選手問わず成長の瞬間は突然訪れる。圧倒的な勢い、何者も寄せ付けないような力。

朝川は幾度となく目の当たりにしてきたその力を、毎回乗り越えてきた。


——良いね石上。でもまだ千切れてやるわけにはいかない。


 朝川の脳裏に「最後の」という言葉がチラリと浮かぶ。最後だから頑張る。最後だからやり切る。最後だから勝ちたい。——そういった考えを朝川は全部取っ払った。


——「最後だから」なんて関係ないな。俺は選手で、やっぱり自分の前を誰かが行くのは嫌で、それは最後だろうか何だろうか関係ない。良いね石上、そんなお前を超えてやるさ…!


 肺は充血しきり、心臓は悲鳴を上げている。呼吸のたびに口に広がる血の味は、朝川にとって選手として生きているという何よりもの証だった。

 朝川の口の端が持ち上がった。苦しげに口を開くのではなく、心底楽しそうに、あたかも笑っているかのような表情。いつも朝川が本当に苦しい局面で見せる表情だった。

 




 

 石上が仕掛けた。最終周回に突入し、先頭集団は今、完全に崩壊した。

 飛ぶように走る石上を追うように、村井勇利もスゥーッと無駄なくペースを上げた。勝負所はもう一度来る、それまでは無駄な力は使わないという判断だ。

 遠ざかる石上の背が、逆にまた近づいてきた辺りで、突然背後に何かを感じた。


 悪寒。背筋に鳥肌が立つような感覚、空気の塊が一気に押し寄せてきたようなプレッシャー。

 尋常ならざる気配の元はすぐに分かった。朝川だ。

 口の端を上げ、荒い息をしながら、一心に前だけ見て走る姿は、まさに「狂気」の一言に尽きた。

 勝利への貪欲さでも、先を行く者への劣等感でもない尋常ならざる気配。村井はそんな朝川の隣を走りながら、このプレシャーの正体を見た。


——この人は単純に楽しいのか。こんなに苦しくて辛くて厳しい状況が、心底楽しくて仕方ないのか。


 そこには、緻密な戦略も、計算された体力配分も、面倒なかけ引きも存在していない。まさに「誰が1番強いかを決める」という目的のみが存在していた。

 前を行く石上を追う中で、村井にも限界が近づいてきていた。肺も脚も腕も心臓体の全てがもはや全てを出し尽くしていた。

極限の状態、辛くて辞めたいとか、あいつに勝ちたいとかいう感覚さえも超越した先。


不意に村井の中に何かがストンと落ちてきた。

突如、石上も朝川も沿道の観客も、背後にいるはずの選手達も、すべての存在が意識から外れ、自分1人になる。

否、自分という括りさえも曖昧な、走っている自分を上空から見下ろしているような、とても不思議な状態に陥った。


——…?


 苦しいのか苦しくないのかもわからない。そもそも自分は今どうしているのか、何をしていたのか。

 何もない世界。自分だけ、それ以外が居るのに居ない場所。

 目線の先に光が見えた。

 その光を中心に世界が戻ってきた。

 前を行く石上の背中。隣を行く朝川の姿。沿道の観客。走っている道路。相変わらずどんよりとした空。

 相変わらず不思議な感覚は残っている。しかし、やるべき事は分かっていた。


——あの光に向かって走れば良い。


 一歩強く踏み出した。鱗が剥がれ落ちるように、心から何かが剥がれ落ちる感覚を得た。

 もう一歩、今度は強く踏みつけた。バキっという音と体が鎖から解き放たれた。

 あとは進むだけ。


——残り1周。絶対に勝ってやる。




『何という事でしょう!上位6名が稀に見る僅差を保ったまま最終周回へ突入してきました!勢いよく前を行く石上選手に、果たして誰が喰らい付くのか?!』


『若干離れてしまった新谷選手も、ここでもう一度踏ん張ってほしいですね。後ろから海老原選手が追い上げてきていますが、先頭のこの勢いに追いつくにはもう一段ペースアップが欲しいところです。』


——まだ足りないのか!


 最終周回へ突入した海老原颯人は、放送席の前を駆け抜ける際に、前方の状況を確認した。もう目視でも先頭を捕らえている。なのに最終周回に入ってからその差が一向に縮まる気配が無い。

海老原もここまで追い上げるために、10kmを走るには明らかにオーバーペースな速度で走ってきた。そこから更にペースを上げろというのだから、もういつ脚が止まってしまってもおかしくない状況だった。

 それでも脚は止めない。絶対に勝ってみせる。強い思いが海老原にはあった。

 それは、他人からの評価でも、自分を良くみせる為でもない。

「トライアスロン」という競技、その競技で今日この日この場所で勝ちたい。ただ単純な勝ちに対する執念だった。


——きっと俺はもう、陸上選手ではない。体半分くらいトライアスリートになっている。


 アウェイから来た自分であるからこそ、大きな実績が欲しい。自分のしたことに意味をつける結果が欲しい。一度挫折をした身として、もう一度這い上がるためのきっかけが欲しい。


 地面を蹴る。パンッと乾いた音が響くと同時に体が前へと運ばれる。単純なそれだけの作業の繰り返し。しかし、今日、ここに至るまでに非常に多くの状況を乗り越えてきた。

ある時はもうダメかもと諦めかけ、ある時はこのまま行けると気分が乗った。

2時間に満たない競技の間に非常に様々な状況が巻き起こり、通り過ぎていった。

その一つ一つに対応し、ねじ伏せた者が、今、こうしてレースの先頭にいる。


——勝つ。絶対に。脚よ動け。もう一度ペースアップを…。


 腹の底から冷たいものが這い上がり、スゥッと力が抜けそうになるのを、地面を強く踏み付けることでやり過ごす。喉の奥から苦いものが込み上げる。


——もう知るかっ。


込み上げて来たものは、なすがままに任せた。沿道から悲鳴が上がった気がするが、そんなの気にしていられない。

 目の前にあるのだ。この国のこの競技に於ける最高の栄誉が。見栄えなんて気にしてられない。泥臭くっていい。格好悪くて良い。後のことは後に考える。今だけは、今この瞬間だけは、


——なりふり構わず前だけ追ってやる…!

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