7-3「日本選手権・バイク」




——やばい。ギリギリだ。


 トライアスロン日本選手権。レースは現在スイムを終え、バイクへと移行していた。

 そんな中、新谷丈は10番前後でスイムを終え、バイクへ飛び乗っていた。例年であればちょうどこの辺りが、バイクの先頭集団と第2集団の切れ目となる。それ故に新谷は今、何が何でも先頭集団入りを果たさんとすべく、渾身の力でペダルを踏み付け前を行く選手の背を追っていた。バイクスタート後暫くは、お台場海浜公園沿いの見通しの良い直線が続く。かなり先まで見通せるこの部分を利用して、新谷は前方に形成されつつある第1集団を目視で確認していた。タイム差は5〜7秒といったところだろうか。まえを追おうと必死に漕いでいる新谷と違い、先頭集団は集団形成が成されて各選手少し緩みが生じているように見える。


——チャンスだ。


 これを逃せば次は無いと思い。新谷は後先関係なく全力でペダルを踏み倒した。徐々に近づいてくる先頭集団。新谷は限界ギリギリの状態だったが、その甲斐あって後少しで周団の最後尾に届きそうな位置まで追い上げた。

 一瞬、安堵する新谷。しかし、その安堵は長くは続かなかった。突然暴力的なまでの加速が先頭集団に起こったのだ。

鈍器で滅多打ちにされるような猛攻。離れてなるものかとその猛攻を必死で耐えるようにペダルを踏みながら、新谷はこの猛攻の根源を確認すべくチラリと集団前方を伺った。先頭を猛烈に牽引する2名の選手。同じユニフォームを着たあの背中には見覚えがある。


——西関東住建の大室さんと青木さん…!


 彼らは彼らにとって有利な盤面を整えるべく、集団の人数を絞りにかかっている。現に新谷とともに先頭集団へ指先を引っ掛けたもう1人の選手は、この猛攻を前に敢なく撃沈していた。


——冗談じゃない。何が何でも喰らい付く!


日本選手権バイクパート。序盤から動きは活発であった。




『さあ!バイクパート1周目を終え、先頭集団が帰ってきました!人数は…7名!ABCドリンク・村井選手!チームトライピース・朝川選手!西関東住建・大室選手と青木選手!天保大学・八木選手!チームアインズ・石上選手!エバンスジャパン坂本スポーツクリニック・新谷選手!以上7名の選手が先頭集団としてレースを展開しています!佐原さん!この布陣はどうでしょうか。』


 バイク先頭集団が周回ポイントを通過するや否や、実況の志摩が一気に選手名を読み上げた。自分の贔屓の選手が呼ばれたのか、沿道から歓声が上がる。と同時に落胆の声が上がる場所もある。先頭集団に入れるか否かは、レースに於いて特にポイントとなる場面であるが故に、選手含め観客達も集団形成が落ち着くまでは、気を抜くことができない。


『なかなか強力な面子が出揃いましたね。特に石上選手と新谷選手は昨年の日本選手権では先頭集団に入ることができなかった選手です。彼らがどのように動いてくるかも注目ですね。』


『なるほどそうですか!そして今、第2集団が周回ポイントを通過しました!タイム差は…37秒!人数は11名です!かなり大きめの集団です!因みに昨年の日本選手権の第1集団は9名。第2集団は12名。ランスタート時の先頭集団と第2集団との差は1分20秒でしたが、今年はどれくらいの差になりそうでしょうか。』


『そうですね。昨年よりも先頭集団の人数が減っているとはいえ、彼らはそれぞれが非常に強力な選手です。このお台場のようなテクニカルコースの場合ですと、寧ろ少人数で小回りが効く分今年の方が速い可能性もあります。他方、今年の第2集団には海老原選手がいます。先頭集団入りを目論んでいて失敗してしまった選手も多数残っていることでしょう。つまり、今年の第2集団は昨年よりも先頭集団を追う理由を持つ選手が多数存在していることになります。ですので、どちらも昨年より高速でレースが展開される可能性が考えられますので…なかなか難しいですね。』


『確かに。今年は先頭集団も海老原選手の居る第2周団の存在を無視することは出来ませんからね。』


『はい。ですが、第2集団の意思統率が上手くいったら20秒差くらいまでは詰められてしまうのではないかと思います。まあ当然そうならないように先頭集団も必死で逃げるとは思いますが。』


『なるほど、ありがとうございます!なかなか波乱の展開が待ち受けていそうな今年の日本選手権バイクパート。選手達はコースを後7周回し、ランへと移っていきます。』




——結構…キツイな…。


 八木晃は先頭集団の速度の速さに半ば圧倒されていた。スイムを得手とする八木は、バイクの先頭集団に入ることが多い。昨年の日本選手権も先頭集団だったのだが、今年は明らかにペースが速い。巡航速度、コーナーの進入速度、加速の勢い。どれをとっても昨年以上だった。原因は明確。西関東住建の2名が思いきり先頭を牽引している事と、それにチームアインズの石上が協力していることだった。


——西関東住建は大室さん優勝へ向けての盤面作り…。石上さんは、何だ。


 風の抵抗を受ける先頭を敢えて牽引すると言うことは、何かしら思惑があってのことだ。集団後方に位置し、風の抵抗を受けないようにすることの方が、遥かに楽だし使う力も少なくて済む。


——ランの調子がいいのか。それとも、バイクの調子がいいのか…。何れにせよ何かしらの勝ち筋を見出して、2人に協力しているのは間違いない。今俺がすべきは、取り敢えず集団に残りペース維持に努めつつ、急な攻撃に対応すること。それと、第2周団に追いつかれないようにすることか…。


 狙うは当然優勝。しかし、一つでも上の順位を取れるように多くの選手、多くの状況を想定する必要がある。気を抜けばすぐさま振り落とされそうな状態の中、八木は勝ち筋を求め今一度思いきりペダルを踏んだ。





——まずい。非常にまずい。


 海老原颯人は、今の状況を分析し、サドルの上で1人静かに焦っていた。レースは4周目を終え、折り返し点の5周目に突入した。海老原のいる第2周団と先頭集団とのタイム差は50秒にまで開いていた。


——このペースで先頭を引ける実力者が少なすぎる。


 11名中6、7名といったところだろうか。走力に差がありすぎる。現時点で13秒1周目よりも差が開いている。このまま行くと非常にまずい。


——何とかして集団としてのペースを上げたい。


 そう考えた海老原は、集団後方に陣取っていたABCドリンクの安藤に声をかけた。村井の先輩選手であり、夏合宿を共に過ごしたこともあるので、お互いに知った仲である。


「安藤さんすいません!先頭交代に加わってもらってもいいですか?!」


 安藤の隣につき、海老原は安藤に集団牽引の協力を依頼した。彼の知識と経験、それに走力を持ってすれば、海老原の望む位置まで集団を押し上げられるはずだ。安藤の順位も上がる可能性があり、win-winな提案なはずだ。しかし、安藤から帰ってきたのは海老原の望む回答ではなかった。


「ごめん俺は引けないよ。」


 一瞬、海老原は安藤の回答の意図が読めなかった。引けない。つまりは先頭交代に加わり、集団牽引に参加できないとのこと。戸惑う海老原を見て、安藤は少し冗談めかして伝えてきた。


「いやあ。うちのチーム(ABCドリンク)の村井が先頭集団で逃げてるだろ?となると、うちのチームとしては海老原君みたいなランナー達を先頭まで連れて行きたくないんだよ。となると、な?俺の順位が一つ上がるよりも村井が優勝する可能性が高い方に賭けるってね…?」


 なるほど。説明を受けて海老原は理解できた。確かにそうだ。チームとして優勝を目指すのであれば、当然の選択だ。そうなると、もう安藤の活躍には期待できない。それ以外のメンバーでこの差を何とかしなければならない。


——やはり自分の脚を余計に使うくらいのつもりじゃないと厳しいか…。


 他のメンバーも決して実力不足な訳ではない。しかし、先頭集団の7名は、奇しくも全員が海老原が夏合宿を共にした選手であった。故にその実力の高さについては、身に染みて理解している。

万に一つの可能性に賭けて、先頭集団が互いに牽制をして速度が一気に落ちる隙をつくことも考えたが、彼らがそのようなミスを犯すとは到底思えない。だとすると今の海老原に取れる手段は、先頭集団よりも速い速度で追い上げるということ以外になかった。


——1人では無理だ…。何とかして集団の士気を上げて、前に追いつこうという意志を統一しなければ…。


 果たして、競技1年目の身である自分の言葉に何人の選手が賛同してくれるだろうかという不安を抱えながらも、海老原は勝利へ向けての布石を打つ事に決めた。





 バイクコース、周回ポイント。タイヤが地面を蹴るゴォォォという激しい音を轟かせて、先頭集団が放送席の前を一瞬で通過して行った。コーナーで減速しているとはいえ時速40km越えである。集団が過ぎ去った後には、風がその後を追うように巻き上がり、沿道の観客に吹き付ける。


『バイクパートも残り2周というところまでやって参りました、トライアスロン日本選手権!現在先頭集団が周回ポイントを通過いたしましたが、佐原さん、先頭集団の雰囲気を観てどう感じられますか。』


 巻き上がる風で手元の資料が飛ばないよう、手で軽く抑えながら志摩が隣に座る佐原へ意見を伺う。去っていく集団の背を目で追っていた佐原だが、その問いかけで我に帰ったようで、椅子に座り直し姿勢を正した。


『そうですね。序盤とは打って変わって安定している印象ですね。おそらく優勝候補達がお互いに攻撃し合うのを辞め、海老原選手の居る第2集団を引き離すことで意志統一が成されたのでしょう。その証拠に今回の周回のラップタイムは、序盤と比べてタイムがかなり縮められています。』


『確かに!ラップタイムは序盤と比べ明らかに速くなっています。となると厳しい状況に置かれるのが第2周団の海老原選手。何とかして得意のランを生かす為、先頭集団を射程圏内に収めたままバイクを終えたい!そんな第2周団が今通過!タイム差は…54秒!これはどうでしょうか?!』


『なかなかに厳しいと思われます。海老原選手としてもやはり40秒以上の差はランのみで縮めるのは難しいでしょう。しかし、これから先頭集団はランスタートへ向けての牽制が少なからず起こると思われます。その隙をついて1秒でも多くタイムを稼いでおきたいところですね。』


『なるほど!さあ!残りは2周!ランを有利にスタートできるのは一体誰なのか?!最終局面へ向け、各選手徐々に自身に有利な盤面作りを開始するフェーズに迫ってきました!』




——そろそろ来そうだ…。


 村井勇利は、高速を保つ集団内で呼吸を整えながら大室の動作一つ一つを注意深く観察していた。今大会出場選手の中で、昨年度優勝者である村井を打ち倒す最有力候補として挙げられているのが大室だった。バイクでの攻め手の多さに加えて、今回は第一集団にチームメイトでアシスト役の青木を投入することにも成功している。打倒村井へ向けて、最後にもう一度大きな攻撃が来ることは明らかだった。


——残りは1周半。その中でランスタート時にアドバンテージを取れつつ、最小限の労力で攻撃を済ませられるポイントは…


 村井がそう考えた瞬間、集団内の空気が変わった。周回を重ねる毎の疲労で緩みかけていた緊張感が一気に締め上げられる感覚。腹の底が冷え切る感覚を覚えた刹那、青木と大室が飛び出した。

 青木を先頭に大室がその後ろにつく形で、2人は一塊になって集団から飛び出した。2人の動きをいち早く察知していたらしい石上がその後に続く。その石上の後ろにはどこから沸いて出たのか朝川がしれっと着いて行っていた。


——マズイ…。


 そう思うと同時に村井の体は動き出していた。既に最後尾の朝川との間は2車身ほど空いてしまっている。


——ここを逃すとカバーが効かない。何としても千切れるわけにはいかない。


 警戒していたとはいえ、このタイミングでのペースアップはキツい。尚もスピードを上げ続ける青木の猛攻にまけぬよう、全身全霊を込めてペダルを踏み倒した。





——来たか。


 集団内の空気の微妙な変化を感じ取り、警戒度を引き上げた途端に西関東住建の2人が攻撃に出た。朝川仁志は瞬時に自分の取るべき行動を導き出し、それに従った。残り1周半、モノレール橋下での出来事であった。

 そこから暫くは西関東住建2名による激しい攻撃が続いた。攻撃は主に青木の圧倒的な走力による牽引。大室へのアドバンテージを得るためにライバル達へダメージを与える、自滅覚悟の猛攻だった。この猛攻を前に、先頭集団の面々はただひたすらに耐え続ける事しかできなかった。

 

——西関東住建は青木を捨ててでも攻撃を続けるつもりか。 


 朝川はハンドルにしがみつくようにしてペダルを踏みながらそう考えた。だとすれば、おそらくこの攻撃はバイクが終了するまで続くだろう。青木の一つ後ろの1番楽をできるスペースに大室が収まり、ライバル達の脚を削る。


——この戦法、なかなかガッツリハマってしまっているじゃないか。


 こうなるといよいよ勝負がわからなくなってくる。朝川は青木の強烈な牽引から振り落とされないようにしつつ、ランへ向けて静かに戦意を高めていた。

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