7-2「日本選手権・トランジッションエリア1」




『トライアスロン日本選手権!現在レースは、スイム1500mを終えトランジッションエリアへ移ろうとしています!引き続き解説は、トライスロンナショナルチームコーチの佐原コーチ、実況は私、志摩でお送りいたします。…さて、佐原コーチ。もう間も無く先頭の選手がスイムを終えようというところですが、ここまでの展開は各選手思惑通りなのでしょうか。』


『そうですね。現在先頭を泳いでいる八木選手と村井選手にとっては、概ね思惑通りの展開となっているのでは無いでしょうか。スイム終盤にかけて、彼らは明らかにペースを上げてきて、それに伴って集団からこぼれ落ちる選手も見え始めましたから。先頭についている、優勝候補の大室選手や朝川選手に関しても状況は同じだと思われます。』


『なるほど。では、このままの人数でバイクをスタートする事ができれば、現在先頭集団を形成している選手達にとって、かなり思惑通りの展開が生まれると言う事ですね。』


『はい。しかし、まだ集団を絞りきれたと安心するのは早いです。このあと、海から上がってきて、駆け込む場所、トランジッションエリアでこのタイム差が変動することは十分に考えられます。』


『トランジションエリアですか?』


『はい。上陸後走って自分のバイクがセットされている位置まで行き、スイムキャップとゴーグルを置き、ヘルメットを被り、バイクを押して出ていくだけの時間にして数十秒しかない区間ですが、ここでの1秒はバイクでの10秒に相当すると言っても過言ではありません。その1秒が、集団に入ることができるかできないかの勝負の分かれ目になる事が殆どですので。』


『そうなんですか!しかしそれだけの行程しかないところを見ると、それほどタイム差が生まれるようには思えませんが…。』


『それがそんな事はないんです。まず、上陸後自分のバイクがセットされた場所まで走っていかなければなりませんが、これが意外とキツいんです。泳いでいる時、体は真横に寝そべっているのと同じ体勢ですから、そこから急に起き上がって走り出すとなると心拍数が一気に上がって、息が上がります。さらに今回のような海でのレースの場合、砂浜を走るのに足を取られてしまいますから、そこでの技術差体力差は出てきます。そして次にヘルメットを被る際にも差が出ます。まず、使用したスイミングキャップとゴーグルは指定の籠の中に納めないといけません。自分のバイクの横にこれがセットされていて、そこに向けて投げ入れる形になるのですが、タイム短縮を考えた際に、このキャップとゴーグルを投げ入れる動作とヘルメットを被り始める動作をほぼ同時に行わなければなりません。これが意外と難しいんです。』


『な、なるほど。数十秒のトランジッションエリアだけで、それだけの事が同時に起きているのですね。ですとやはり、いかに早く自分のバイクの下まで走っていくかが重要になりそうですね。』


『はい。もちろんそれも重要なのですが、それ以外にもタイム差がつきやすい行程があります。それが、ヘルメット着用です。』


『ヘルメット着用…。ヘルメットを被ると言う事ですか。』


『はい。そうです。』


『選手によってそんなに差がつくものなのですか。』


『はい。つきますね。1〜2秒、人によっては5秒くらい差がつく可能性もありますね。』


『5秒ですか!?そんなに?』


『はい。トライアスロンのルールの中に、自分のバイクに手を触れるためには、ヘルメットのストラップをきちんと締めて、完全に着用してからでないといけないと言う決まりがあります。』


『はい。』


『このストラップを締めてからと言うのが難点なんです。普通ストラップは自分の顎の下でフックをカチッと嵌めることになりますよね。』


『そうですね。…あぁなるほどそう言う事ですか!』


『はい、そうなんです。顎の下っていうのは自分の目で直接見る事はできません。つまりストラップをはめる際、直接目で見る事ができないので完全に手の感覚だけでストラップをはめることになります。これがとっても大変で、息の上がった状態で焦ってこれをやると大抵の場合失敗します。練習してないと10秒くらい平気でかかってしまいますよ。』


『確かに…。普段着ける時でも、1回でカチッ!とはめられる事は殆どないですもんね…。そうなると、もうそこは運というか、上手く行くか行かないか?!という感じになってしまうんですか?』


『いえ、そんな事はありません。上手な選手ですと、ヘルメットに手をかけてから1・2秒でもうストラップまではめられる選手もいますし、練習次第でいくらでも成功率を上げられる部分ではあります。』


『1・2秒ですか!?…具体的にどんな練習をするんですか?』


『…私の場合ですとひたすら被って脱いで被って脱いでの繰り返しでしたね。今教えているスクールの子供達にもやらせているのは、毎晩30回。着脱の練習を宿題にしてます。』


『30回ですか…。』


『はい。こればっかりは、科学的なものとか効率的な練習とかがまだわからない状態ですので。とにかく体に覚え込ませる事を目的に練習させてます。理想は、何も考えなくても体が勝手に動いてくれる状態ですかね。』


『なるほど。1秒を削り出すためにはそれほど突き抜けた練習が必要というわけですね…。さあ!そうこうしているうちに選手達は間も無くスイムを終えて、お台場の海から上陸しようとしてきております!果たしてトップでスイムを終えるのは誰なのか?!そして、1番最初にバイクコースへと駆け出す選手は?!トライアスロン日本選手権、もう間も無く選手達が次の種目へと移っていきます!』





——よし。上手くいった。

 あと数十メートルで上陸というところまで来て、八木晃はようやく一度気持ちを落ち着ける事ができた。スイムを得手とする八木にとって、このスイムパートを思惑通り終えるという事は、この後のレースの流れを作っていく上でとても重要な課題となっていた。

 八木の理想とするレースプランはこうだ。まず、スイムは第1ブイを迎える前に先頭へ躍り出る。そこから先は周囲に邪魔される事なくグングンと泳速を上げていき、集団の人数を絞る。そうしてトップでスイムを終えてそのままバイクスタートする。バイクの集団の人数は5〜10が理想。そうして走りきってランへと移る。

 ランをそこまで得手としない八木にとって、バイクが大集団とならないようにする事は最優先事項だった。そういう意味では、今回のこのスイムは、上手くいったと評価して良いだろう。現に再三に渡る八木のペースアップで集団はまばらになり、大きく一つに固まる事は防げている。


——問題はここからだ…。


 八木の今の能力的に、バイクでは周囲の選手に振り回される事は必至だった。ならば、今回は自分から何かことを起こすのではなく、喰らい付いて耐え抜いて、ランの走り出しが有利になるようにする。それはつまり、バイクを楽に過ごせるか、キツい展開になるかは全て他人の手に委ねられたと言う事である。


——強い覚悟が必要だ。何があっても喰らい付くという強い覚悟が。


 「誰にも負けたくない」という彼自身の目標を今一度確認し、泳ぎながら砂浜に立ち上がるタイミングを図る。あと数かき、ここから先が彼にとって、キツい時間の始まりだった。




 スイム会場が特設されたお台場海浜公園のビーチ。それまで会場内に流れていたBGMが選手の上陸に合わせて、疾走感のあるアップテンポなものへと変わった。その音楽に後押しされるように、海から上がってきた選手達が力強く砂を蹴って会場内のコースを駆け抜けていく。


『さあ!先頭の選手が上陸してきました!レースナンバー13番、八木晃選手!続いてレースナンバー1番村井勇利選手!その後も間を置かず、続々と選手達がトランジッションエリアへと駆け抜けていきます!』


『集団が縦長になっていますね!しかし途切れる部分は見当たりません!これはトランジッションエリアの通過タイムとバイクの漕ぎ出しを如何にロスなくスムーズに行えるかが勝負の分かれ目になりそうですよ!』


 実況の志摩と解説の佐原がマイクへ向けて興奮気味に捲し立てる。現に佐原の言った通り、集団は縦長になっているものの、途切れている部分は無く、選手が連なっている状態だった。後続の選手達は、僅かなミスで先頭集団を逃してしまうことになりかねない状況だった。




——落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け。

 砂浜を駆け上がり、トランジッションエリアへ向けてのコースを駆け抜けながら、新谷丈は脳内で必死に自分に言い聞かせていた。現在自分が何番手かはわからないが、上陸した際に視界の端で、八木がトランジッションエリアへと消えていくのを確認していた。タイム差はわからないが、自分が先頭集団につけるかどうかギリギリの位置にいる事はわかった。とすれば、トランジッションエリア内でのミスはどんな些細な事さえも許されない。

 途端に新谷の脳内に今までのトランジッションエリアでのミスの数々が浮かんでくる。

ゴーグルが籠からはみ出てしまった。ヘルメットのストラップがはまらなかった。押して走る間にバイクのチェーンが落ちてしまった。…。

冷たい手を差し込まれたのかの様に恐怖が背筋を伝う。パニックが自分の肩を叩いた気がした。上手く行くイメージが徐々に霞んでいく…。

気付くと自分のバイクまであと数歩という位置まで来ていた。新谷の視界の中にバイクのハンドルの上に鎮座する自身のヘルメットが飛び込んできた。


——!…。……。


その光景を見た瞬間、条件反射的に先ほどまで新谷の脳内を埋め尽くしていた失敗のイメージがぱったりと消え失せた。それだけでは無い。正常な思考も、息苦しさも、周囲の歓声さえもが一瞬にして脳内から締め出された。

瞬きするほどの一瞬にのみ訪れた無意識の状態。その無意識の中で、新谷の体はあらかじめ動きが決められた機械の様に正確な動きで、瞬時にヘルメットの着用を完了した。

そしてバイクのサドルに手をかけたところで、無意識によるボーナスタイムが終わる。視界が一気に色付き、周囲の音が押し寄せてくる。


——……!!上手くいった…!


 力強くバイクのサドルを押して走り出す。ここまでのタイムロスはゼロ。あとはバイクの乗り出しで先頭集団につけるか否かである。




——先頭は晃か…。

 朝川仁志は、砂浜を駆け上がりながら、前をいく背中を見つめ状況を冷静に判断していた。トランジッションエリアへ飛び込んだタイミングでチラリと後ろを振り返った限りでは、選手が途切れている部分がある様子は無い。


——とすると、バイクの乗り出しが相当ハードになるな…。


 ヘルメットを着用しながら、朝川の脳内では既に次の展開に対する傾向と対策を練る作業が始められていた。


——おそらく人数を絞りたいのは西関東住建の大室。チームメイトの青木もすぐそこに居たから2人で序盤から踏み倒してくるだろう。8番あたりに丈が居たからあそこが切れ目になりそうだな。となると俺は、とにかく序盤はあの2人のぶち上げに振り回されない様な位置に陣取る必要があるな…。よし、そうしよう。


 そこまで考えたと同時に押していたバイクに飛び乗る。それまで走ってきた勢いを殺さずに逆に勢いをさらに着けるくらいの勢いで、バイクを前に投げ出してその上へと飛び乗った。加速のついたバイクは、朝川の体重を受け止めても尚、止まることは無く進み続ける。そのまま朝川は、流麗な動作をもってペダルに固定された靴の上に足を置き、そのままペダルを漕ぎ始めた。

 朝川をのせたバイクは減速する事なく、バイクコース上を疾走し始める。ここまでで既に数名の選手を抜き去っている。この無駄のない一連の動作をとれる事こそが、朝川仁志が長年世界を相手に活躍し続けることができた理由である。

 1秒にも満たない要素。しかし、ここでもたつかない事はバイクの出だしにおいてタイム以上のアドバンテージを得ることを意味する。朝川は経験の中でそれを理解したからこそ、体にこれを覚え込ませた。それが強みとなって、今日まで彼を支え続けた。

 最後のレースにおいても、これが彼の武器となっている事実は変わりなかった。




——…案の定、だな。

 村井勇利は、殆ど全力でペダルを踏みつけながら前を行く2人の背中を追っていた。

 西関東住建の大室と青木だ。大室は昨年2位。打倒村井のために、彼らはバイクで動き出してくると村井は睨んでいたが、序盤から動いてきた。

 西関東住建の作戦ははっきりしていて、バイクを得手とする青木が大室のアシストをする形で戦局をコントロールする。この2人に組まれると、村井1人で太刀打ちするのは骨が折れる。なんとかして、集団には彼ら以外の人間を入れたかった。しかし、西関東住建の2人は村井のその思惑を理解している。西関東住建2人+村井の3人のみの先頭集団となる事を1番の勝ちパターンとし、序盤からひたすらに飛ばしていた。

 ハンドルにしがみつく様に体制を低くして、大室の後ろで風の抵抗を受けない様にしながら、村井は後方を仰ぎ見た。切れ目なく何名かが縦長になってついて来ている。しかし、その誰もが浮かべる表情は苦悶に満ちている。


——ついてきてくれれば嬉しい。ダメなら、2人の好きな様にさせてそれを受け切る。


 モノレールの高架下へと続くコーナーで後ろを振り返ると、ポロポロと集団からこぼれ落ちていく選手が見て取れた。しかし、先頭をひく青木も、そう長くこのペースが保ちそうにはなかった。


——あと1分…いや、30秒か。


 村井は青木がダッシュできる残り時間に見当をつけ、残り時間それをなるべく楽に凌げるよう、大室の後ろにピッタリとバイクを寄せた。





『さあ!先頭通過から37秒!ランナー、海老原颯人選手がやって参りました!』


 実況の志摩が一際大声量で今上陸してきた選手の名を叫ぶ。沿道からの声援が一際大きくなるが、当の本人はかなり辛そうな表情を浮かべている。


『佐原コーチ!この辺りの集団はどうなりそうですかね!』


『はい。この辺りの選手は、海老原選手のようにランを得手とする選手が多い可能性があります。そうなると、彼らはバイク中に無理に先頭集団に追いつかなくとも、ランで巻き返しを図れるため、各々の射程圏内のタイム差まで詰めてしまえば良いということになりますね。なるべく人数を揃えたいでしょうが、どうなるでしょう。』


 解説の佐原は冷静にこの状況について説明をした。彼自身が現役時代だった頃は、スイムでの先行タイプだったため、ランでの追い上げ型について経験がないのだろう。あくまで憶測といった風に解説していた。


『しかし、海老原選手ですが、37秒差で上がってきましたね。これは彼にとってかなりスイムを成功したといっていいのではないでしょうか。問題は、この位置で上がるためにいつも以上にスイムに体力をかけたのか否かですね。もし、いつも以上に全力で泳いだとなれば、それが後の2種目に影響しなければいいのですが…。』


 佐原は冷静に分析する中で、彼の勝ち筋についてある程度見当をつけたらしい。スピーカーを通して観客にそう伝えながら、今回のレースの見どころの一つになれば良いと願った。





——やはりそう上手くはいかないか…。

 海老原颯人は、上陸し前方を確認してからそう思った。彼としては第1集団に乗ることができれば、勝利への可能性がグンと跳ね上がったのだが、現実はそう上手くはいかなかった。


——でも、37秒差。最悪の状況は避けられた。いつも以上に力を使いすぎた気はするけど、問題ない。集団組んで、タイム差を可能な限り詰める!


 海老原はこのタイム差を受けて希望を失う事はなかった。むしろ好機ととって、この後の展開に想いを馳せ始めた。

 

——理想は、やはり30秒以内の差でランをスタートすること。しかしそのためには、先頭集団よりも早いタイムでバイクを終えなければならない。この辺りでスイムを上がる選手達でそれができるかどうか…。


 自身のバイク能力と計算しながら、集団をどうすればいいか考える。


——10人だ。しっかりと先頭を弾ける選手が10人は必要だ。


 そう判断した海老原はバイクコースへと駆け出していく。周囲に居る選手達と集団を組み前を追う。そのためには、何とかして必死に前を追ってくれる選手を味方につける必要がある。

 当然海老原と同時にランをスタートすれば彼らは皆海老原に勝つ事はできない。そのデメリットを持ってしても尚、自分と一緒に前を追うメリットがあると知らせなければならない。


——交渉術、か?…骨が折れそうだ。


 速度による風の抵抗の関係で、バイクは確実に多人数で集団を組んだ方が有利になる。敵同士である選手達が、レース中に一時的に手を組む。実業団ランナー時代は有り得なかった事を今やっているという驚き。そんな感情に胸躍らせつつ、貪欲に勝ちを求める現実的な思考も忘れないようにして、海老原は力強くペダルを下に踏みつけた。

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