7章

7-1「日本選手権・スイム」



 『皆様!ようこそお台場へ!トライアスロン日本選手権、スタートまでもう間も無くです!私、本日大会MCとレース実況を勤めさせていただきます志摩と申します。皆様よろしくお願いいたします!』


 東京台場、お台場海浜公園内に設営された特設会場。トライアスロン日本選手権のために設置されたこの会場の至る場所から、スピーカーを通して大会MCの声が超ボリュームで流れてきた。選手達は各々ウォーミングアップやトランジッションエリアへの機材セットなどを行なっている。スタートまでは数10分と迫っていた。


『そして!今回は解説として、トライアスロンナショナルチームコーチの佐原コーチにお越しいただいております!佐原コーチ今日はよろしくお願いいたします!』


『よろしくお願いします!』


『佐原コーチは5年前まで現役選手として第一線で活躍されていた選手で、現役引退後は後輩の育成のために指導者の道を選ばれたお方。現在は、コーチとして自分のチームで指導をする傍ら、ナショナル合宿、いわゆる日本代表合宿が開かれた際は、代表選手達の指導もされています。なので本日は、選手・指導者両方の視点から解説をお願いしたいと思います!早速ですが佐原コーチ、今日の有力選手達の調子はどうだと思いますか。』


『そうですね。あくまで見ただけですが、皆今日に調子を合わせてきている感じですね。昨年優勝者の村井選手は世界シリーズ戦含め、ここまで順調にきていますし、昨年2位の大室選手に関しては「打倒村井」を掲げてここまで合わせてきているはずです。そしてベテランの朝川選手。昨日の記者会見メンバーは誰も調子は良さそうで、彼らを中心に今日のレースは展開されると思います。』


『なるほど。ですとやはり今日は、村井選手の動き次第で展開がガラリと変わる可能性があると言う事ですね。』


『はい。ですがそれだけとも言えない事が今年はあります。海老原選手の存在です。例年ですと、どんなにランを得意としている選手でも、第二集団からの遅れをひっくり返してくる選手は殆どいませんでした。しかし、先の新潟県村上大会、海老原選手はそれをやってのけました。こうなってくると第一集団は、仮に集団内に海老原選手がいなくても、後続集団に潜んでいるであろう彼の動向にも気を配らないといけなくなります。私の見立てですと、完全な安全圏と言えるのは、海老原選手から1分以上差を取ってのランスタートな気がします。』


『そうですか。海老原選手のタイム差。一つポイントになりそうですね。さてそうこうしているうちに、スタート時間が迫って参りました。あと5分で選手達の入場が始まります。トライアスロン日本選手権。間も無くスタートです!』




 心臓の音がうるさい。指先が冷たくなっている。息を吸っても上手く入ってきてない気がする。

ふと、自分の名前が呼ばれた気がした。コールだ。係員に促され、前へと進む。スタート位置を選び、ラインに並んだ。羽織っていたコートを脱ぎ、所定の位置に置いた。ラインに戻って前を見る。選手のコールは終わっていた。観客の喧騒が言いそう際立つ。しかしそれは、どこか別の世界で行われているかのように薄いガラス越しに自分の元へ入ってくるようだ。


やがて会場BGMがだんだんと絞られていった。

代わりに心臓の音を模した、低く重い音がBGMとして会場内に響き渡り始める。

スタート準備完了の合図だ。


ドドン…。ドドン…。心音が繰り返されるたび次第に会場内は静かになっていく。


ドドン…。ドドン…。もはやこの心音がBGMなのか自分のものなのかさえもわからなくなるほどの静寂。


ドドン…。ドドン…。…。


不意にBGMが止まった。

『On Your Mark !』

パーーッ!と静寂を切り裂くようにスタートホーンがお台場の空へ向けて高らかに鳴らされた。それを合図に選手達は一斉に海へ向けて駆け出す。

戦いの火蓋が切って落とされた。




『さあ!トライアスロン日本選手権。戦いの火蓋が切って落とされました!私たちは今、上空からの映像でスイムコースの選手達を確認しています。第1ブイまで残り数10メートル!水飛沫を上げ横一線にスタートした集団は、現在ブイへ向けて徐々に縦長に絞られてきました。佐原コーチ、今回のスタートからここまでどうでしょうか。』


『そうですね。上空映像ですとどれがどの選手なのか細かい位置はわかりませんが、スタート位置は有力選手達が内側に固まっていましたね。スタート後、比較的内側の塊が先行して現在集団の前方にいますから概ねセオリー通りな気がします。あとは集団中腹の選手達が、ブイ周りで先頭集団に喰らいつけるか。これによってスイム後半の展開が変わってくると思います。』


『変わってくると言いますと』


『はい。スイムを得意とする選手や有力選手達は、このスイムでランナーをはじめとする後続の選手達をなるべく切っておきたいです。大集団によるリスクは落車を始め沢山ありますからね。そうなると先頭は、この第1ブイで後続を千切れなかった場合、スイム後半にかけてさらにペースを上げていきます。後続を千切るために、です。このペースアップが速ければ速いほど、キツくなるのは先頭集団に付けるか付けないかの位置にいる「真ん中」の選手達です。彼らが前につけるか千切られて後ろに行くか。その人数によってバイクの集団人数が変わってきますから、その後の戦略や展開に大きく関わってくることとなります。』




——スイム、第1ブイ直後。新谷丈は焦っていた。先頭が明らかにペースを上げた。それもかなり。油断すると新谷でさえも千切られる。ブイ周りでチラリと確認した限り、先頭を泳いでいるのはおそらく八木晃。彼のこのペースアップは後続を確認してのものか。はたまたいつもの考えなしか。いずれにせよ後ろを確認する余裕のない新谷にできるのは、ひたすらに前を追うことだけだった。

(ここで千切れるわけにはいかない。千切れたらモントリオールの時と一緒だ。絶対に先頭集団に入る。絶対にだ。)




『さあ、現在私たちは水上ボートからの映像観ておりますが…。先頭はこれ、八木選手でしょうか。ああ!見えましたレースナンバー!レースナンバー13番、八木晃選手先頭!その後ろにピタリとつくのはレースナンバー1番、村井選手!流石の実力!この二人は確実に先頭で泳いでくる!特に八木晃選手は今シーズン国内戦に於いて、スイムラップは確実に3番以内をとってくる実力者!学生最強!水泳を得意とする彼が、現在先頭を泳いでおります!』


『いいですね。村井選手も八木選手の真横ではなく、足元に位置取る事で八木選手がのびのびと泳げるようにしています。そうする事で、八木選手に泳力を遺憾無く発揮してもらい、後続を引き離そうという作戦でしょうね。現に、チラチラと集団から千切れていく選手が見られ始めましたよ。これ、下手すると今回結構集団が細切れになってバイクスタートするかもしれませんね。そうなると後続の選手はキツいですよ…!』


『なるほど!さあ、現在展開はスイマータイプの選手にとって非常に有利に進んでいるように見えます。間も無く1周目終了。選手達は一度上陸し、砂浜のブイを回ってからスイム2周目に向かいます。この上陸した際のタイム差が一つ参考になってきそうです!』




——それまで必死に水をかいていた指先が何か固形物に触れて、海老原颯人はハッと我にかえった。指先が水底についている。上陸だ。脚を引き、思い切り地面を踏み締めて立ち上がった。それまで視界が薄暗い水中から一気に明るい地上へと移り変わる。真横だった体勢を急激に縦向きに変えた事で、ただでさえ高かった心拍数が急激に跳ね上がる。しかし、そんな事気にしていられない。海老原は荒い息のまま砂浜を駆けてブイを回る。

 海へ向かって再度駆け出した際に、『15秒!』というMCの声が耳に入った。そんなに離れていたのかと海老原は内心舌打ちした。しかし、もう仕方がない。30秒差かつ第2集団。それが勝利への最低ラインだ。海へ飛び込む前に一度大きく肩を脱力し、気持ちを整えた。

焦っても仕方ない。今は少しでもこの苦手なスイムで生じる差を縮めることのみに意識を向けよう。

そう考えた海老原は、既に遥か前方を泳いでいる先頭をキッと睨みつけてから、再び海に飛び込んでいった。





——状況は悪くない。

 朝川仁志は、現在先頭から3秒遅れの5番手を泳いでいる。つまり団子状態の中にいるので、実質タイム差は無いと見ていい。レースは現在スイム2周目の第2ブイを回った辺りだ。あと400mほどでスイムが終了する。

 朝川は一度大きく水面から顔を上げて自分の周囲にいる選手を確認した。

 先頭は八木。その後ろに村井。村井の後ろから扇状に選手が2列3列と横に連なっている。パッと確認した限りでは、村井の後ろにつけていたのは昨年準優勝の大室だった。打倒村井に向けてここまでは順調というわけだ。朝川と同じ並びには新谷の姿もあった。彼は独特な腕の起動を描いて泳ぐのでどこにいるか確認しやすい。

 特に関係の深い選手、注意しておくべき選手をあらかた確認して朝川は再び自分の泳ぎに集中した。おそらくこの状況、振るいにかけるためバイクの乗り出しが非常にハイスピードになるだろう。

村井vs大室が注視されがちだが、朝川とて勝利を目指す優勝候補の一角。二人の派手な鍔迫り合いに紛れて、虎視淡々と勝ち筋を探っていた。まずは、先頭集団。そこから自身の勝ちパターンへと持っていく筋道を描きながら、来たる一つめのポイントに向けて気持ちを引き締め直した。




『再び私たちは水上ボートからの映像を観ておりますが…。第3ブイを周り集団は依然ハイスピードで進んでおります。先頭を泳ぐのは「学生最強」八木晃選手。それに連なる第1集団は…10名程でしょうか。佐原コーチ。この状況、選手達にとってはどうでしょうか。』


『そうですね。見た限りですとこの約10名の中に海老原選手は居ませんし、特別ランを得意とする選手もいませんから、このままバイクの集団を作ってしまってもいいと思いますが…。この約10名を多いとみるかどうかですね。人数が多いと集団の統率がとりにくくなりますから、最悪後続集団との差を広げられなくなってしまうかもしれません。さらに人数が多いと脚を休める時間も増えますから…。村井選手に勝たせたくないと考える選手達で、バイクが得意な選手はなるべく集団の人数は減らしたいでしょうね。』




——少し人数が多い気がする。

 村井は、泳ぎながら後ろに続く集団を見て思った。理想としては8人程度の集団がいい。それ以上になってしまうと、仕掛け合いやペースの上げ下げなど面倒な選択肢が増えてしまう。特に大室だ。彼はバイクが得意な選手なので、今回確実にバイクの途中で揺さぶりをかけてくるだろう。あまり大きな集団になると、村井の場所によっては反応しきれない、もしくは余計に脚を使わなければいけなくなるかもしれない。出来ればそれは避けたい。

もっと言うと、1周目終了時に見た限りでは、大室のチームメイトの青木も集団に入っていた。そうなると大室はバイクで青木を使った集団戦法をとる事が出来る。単純に1対2の構図だ。となるとあまり大きな集団ではカバーしきれなくなる可能性がある。

やはり8人。そうすれば、利害の一致する協力者も作りつつ、余計な動きを抑制することができる規模となる。

——さて、どうするか…。

 一瞬考えた後、村井はスウッと泳ぐ位置を上げた。つまり八木の足元から真横に移動しようとしたのだ。それに気づいた八木も、スウッと泳速を上げた。八木の意図に気付いてかどうかは知らないが、最後まで自分で泳ぐようだ。それなら良しと村井は再び八木の足元につける。

 集団先頭のこうしたペースアップは、後ろになるにつれ大きな変化となって現れる。このペースアップで果たして何人千切れるだろうか。

 そんなことを村井は考えつつ、最後はバイクの乗り出しで理想の人数にまで絞ろうと心に決めた。




——村井さんが上がってきた。ペースを上げたいのだろうか。

 それまでずっと八木の足元を泳いでいた村井が、上陸手前にして位置を上げてきた。無理にあげる感じではなかったので、誰かを切りたいと言うよりは集団の人数を減らすための動きだろう。ともすれば、八木自身にもまだ余裕はあるので、最後まで気持ちよく泳がせてほしい。

 そう考えた八木は、無理のない範囲で気持ちよくペースを上げた。すると村井はその泳速で満足したのか、再び八木の足元へ戻っていった。

 確かに他人の後ろで泳ぐのは楽だが、泳力のあるものなら無理に集団内に入るよりか一人で先頭を泳いだ方が結果として消耗する大力を減らせる場合がある。八木なんかは特にそうで、人の後ろよりも少しキツくてもいいので集団先頭を泳ぎたかった。

——バイクで一波乱ありそうだな。

 村井がペースを上げたかったのは、バイクでの余計な仕掛け合いを警戒してのことだろう。他方、大室はおそらくバイクパートでの仕掛け合いを望んでいる。

——朝川さんは…。どうだろう。まあ、あの人はどんな状況になっても勝ち筋のある位置取りを見出すだろう。漁夫の利を得る。じゃあないが、2人の混乱に乗じて何か仕掛けるかも。

 そう考えた八木は、さらに泳速を上げた。八木としては、バイクでの仕掛け合いによるカオスな状況は出来れば避けたい。ともすればここはまず村井の意図にのっかるのが正解だ。その上で、自分の勝ち筋を見出す。

——とりあえず、まずは先頭集団でランを始められるように…。

 スイムに関して、今の日本に八木を差し置いて展開をどうこうできる選手はいない。あと数100m。その間だけは、このレースの主導権は八木の手にある。その間に自分にとって有利な状況を作り出す。それが今、八木の勝利に向けて必要とされるタスクだった。




『さあ!選手達が砂浜に近づいて参りました!果たして先頭は誰なのか?!集団の顔ぶれは?!人数は?!後続との差は?!序章のスイムパート、間も無く終了です!!』

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