6-5「明日への歌・海老原颯人」
東京の夜は明るい。既に夜もふけた頃合いであるが、一向に闇が押し寄せてくる気配は無い。眼下には、蜘蛛の巣のように街中を縦横無尽に駆け巡る高速道路が人工的な光を放っており、視線を上に向けると、光の決して絶える事の無い高いビルが立ち並ぶ。更に視線を上げれば、黒い夜空の中を断続的に光を発しながら行き交う飛行機が見える。
幾千数多の光の数々、東京という街を構成するこの人工的な光の一つ一つにも、夢や希望、絶望や挫折といった至極人間臭い物語が介在されている。そう考えると、温かみの無い能面の光しか発さぬそれらにも、人間の儚さや物悲しさが写っているように感じられるから不思議だ。
そんな景色を海老原颯人は、何の気なしに見つめていた。しかし、しばらくすると飽きたのか、視線を光に溢れる夜の東京の街から、殺風景な自室内へと移した。
——準備は整った。
一人自室に並べたレース使用機材たちを眺めて満足げな顔を浮かべる。眼前には先ほどまでの煌びやかにも儚い東京の光とは違う、希望と期待を込められた機材の数々が並べられている。一際目立つのは、ヘルメットとバイクに貼られたレースナンバー(出走番号)のステッカーである。
12と書かれたそれは、長いシーズンを戦い抜いて得た、現時点での海老原のポジションである。
対象大会の順位によって獲得できるポイントの合計によりつけられるレースナンバー。海老原は、後半シーズンからの巻き返しの甲斐あって、12番目と言う位置につけることができた。転向1年目にしてこの順位はなかなかの快挙である。
言い換えれば、国内トライアスロン選手の中で12番目の実力の持ち主という事になる。特に海老原は、先のレースで3位入賞してのこの位置なだけに、周囲からもかなり期待されていた。つまりそれは、「優勝候補の一角を落としてしまうのではないか」と言うものである。
海老原はそのような噂や期待が囁かれていると言う事を、このお台場の地に入ってきて初めて知った。そしてそれを耳にした海老原は、期待されていることによる嬉しさで舞い上がりそうになったと同時に、世間の評価のうつろい易さに白けた感情さえも抱いた。
海老原は、自分を割と根に持つタイプだと思っている。故に一度やられた事は意外な程長く覚えている。
シーズン序盤、海老原のデビュー戦から数戦全く結果が出なかった時期、今のように海老原に期待をかけてくれていた人は何人いたか。
「これからに期待」「この経験が糧になる」と本気で思ってくれていた人は一体どれほどだろうか。
海老原自身、ビックマウス気味なところもあり、それが周囲の失望を必要以上に借り立てている部分が無いとは言い切れない。
しかしそれでも、ほんの少しだけでも心の片隅で「海老原はもしかしたら行けるかもしれない」と思ってくれていた人というのは、どれほどなのか。いるのは分かっている。ずっと海老原を応援してくれている人々は沢山いる。しかし、この噂、この期待を自分に向けている人達は、一回自分を見限った人々では無いだろうか…。
——そこまで考えて、これ以上は不毛だと判断し海老原は考えるのをやめた。
よく考えたら今更である。駅伝実業団時代、この手のことはよくある事だった。特にトライアスロンよりもファン層が厚い駅伝に於いて、昨日の見方が今日の的になっている事など日常茶飯事だった。
(少し、神経質になっているかもしれない。)
トライアスロンというアウェーに、身一つで飛び込み居場所を確保しようとしている現状で、周囲からの評価というものが必要以上に気にかかっていたのだろう。選手というのは人気商売のような側面も少なからず存在する。ともすれば、周囲からの評価は気にせざるを得ない。
(それでも俺は突き抜けた。なんと言われようと、ランナーとしての自分の個性を最大限発揮していく方向性で強くなっていくと決めた。)
現代の高速化が叫ばれるトライアスロン事情では、台頭するには難しいとされるランナータイプ。しかしそれでも海老原は、この道を行くと決めた。
ある人にはスイムやバイクを強化しなければならないと言われた。
ある人にはそれ以上のラン能力は要らないと言われた。
ある人には今更ランナーは勝てないと言われた。
ある人には今からスイムを始めるのでは遅いと言われた。
ある人には一筋しか望みはないと言われた。
(—-全部、ノイズだ。)
良いところは取り入れて、いらないものは切り捨てる。全てを手に入れようとするには、人間の能力は低すぎるし、競技人生はあまりにも短い。
限られた能力、時間で最大の成果を得る。そのためには、取捨選択。
自分以外の誰かが走ってくれるわけではない。自分のことを評価する他人がどうにかしてくれるわけではない。
全ては自分次第。
ネガティブな批判もポジティブな意見も全て自分で選択する。何を活かして何を捨てるのか。
全ての成果は自分次第。だからこそ、全ての責任も自分にある。
(でも、それでも構わない。もう自分を守ってくれるチームもコーチもいない。逆に言えば、これから出る結果は、全て自分で手繰り寄せたものになる。)
評価が、チームが、指導者が走ってくれるわけではない。
これは、明日へと駆け出す覚悟の力。
(だからこそ、俺を応援してくれ、俺に期待してくれ。俺が選び取りたいのは、そういうポジティブな力なんだ。)
幾千数多の光を抱え、東京の夜は更けていく。
その光一つ一つに宿るは、それぞれ「人」の物語。
果たして彼らの物語は、光の海を抜け燦然と輝く星となりうるものなのか。
それともその他多くと同じように光の海に沈み行く運命なのか。
賽は投げられた。
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