6-4「Find my dream!!・八木晃」



【夢】ゆめ

① 睡眠中に持つ幻覚。

② はかない、頼みがたいもののたとえ。

③ 空想的な願望。心のまよい。

④ 将来実現したい願い。

———広辞苑第七番より引用


(自分達が普段競技内で使うところの「夢」は④番に当たるんだろうな。)

八木晃は、ホテルのベッドで横になり天井を見つめながらそんな事を考えた。


 東京・台場。日本選手権を翌日に控え、八木はホテルの自室で横になり天井を見つめながらそんなことを考えていた。

 現在時刻は午後7時を過ぎた辺りだ。コース試走、競技説明会、出走チェックと前日に済ますべき事柄を一通り終え、残すところは当日を待つのみという状態にある。

 既に食事も終えており、後は寝るだけなのだが、まだ床につくような時間ではない。かと言って何かすることがある訳でもなく、仕方なくベッドに横になっているという状況であった。一応テレビを点けてはいるが、芸能人がわざとらしく大袈裟に伝える情報に興味はなく、八木の耳を右から左へと素通りしていた。

 とすれば、八木の頭はこの暇をつぶす為の話題を記憶の底から必死に掘り起こす。そして選んだのが冒頭の「夢」という文字だった。八木は「夢」と「目標」「目的」は別物であると考えている。「夢=目標」と言うのも間違いではないが、八木の感覚としてこの式が成り立つとは思えなかった。あくまでこれらは別物。故に今まで八木はこの「夢」と言う言葉に対して違和感を持っていた。



 八木は幼い頃から、何度かこの言葉に出会ってきている。何かにつけて目の前に現れるこの言葉に煩わしささえ感じていたものだが、今年はこの言葉との遭遇率が過去1番に高い気がする。それも大体が決まって、自分が思い悩み、壁に当たり、進む力を失いかけているような弱っている時に現れるものだからたちが悪い。まるで肉食動物のおこぼれを狙うハイエナの様に、弱る八木を執拗に追い込むこの言葉に、八木は以前からいい思いは持っていなかった。


 人は夢を持てという。

 人生をかけて追い求める強い夢を持てと言う。

 夢を持つ事は、人が未来を生きていくために必要な事なのだと熱弁する。

 どんな小さな事でもいい。何かを追い求め、達成に向けて努力する事こそ、人生に於いて重要な事で、それができた人生は紛れもなく美しいものだという。

 幼少の頃から、どこへ行っても刷り込みのように教えられてきた事。幼いながらも八木は、これらの事について滑稽さを感じていた。


 結局夢などなんの力にもならない。

 圧倒的なパワー、財力・知力・体力・競技力。それら形ある物理的影響力を持つパワーを前にして、夢などという形ないものが出来ることなど実際のところ殆ど無い。

 しかし、成功者たちは語る。「夢があったからこそ、この力を手に入れることができた。」と。

 可笑しな話であると八木は思う。「夢があったから力を得た。」のではない。「力があったから夢を得た。」のである。厳密に言うと「強い夢を見る力があったから夢を得た。」だろうか。


 確かに。何かことをなす上での出発点として「夢」や「理想」による動機付けは重要だ。しかし、一度でも何かを理想とし夢を見た者ならわかるだろう。


 夢を見るのにも力がいるのだ。向き不向き、才能の有無は当然存在する。


 走るためには脚力がいる。知識を得るためには理解力がいる。何かを創り出すためには創造力がいる。

 この世の全ては、何かを得ようとする為にその前提となる力が必要になるのである。

 そして人間は、それらを何も持たない殆どまっさらな状態でこの世に生まれ落ちる。そしてそれらの力を得るための力を一つずつ身に付けていく。

 一つの力は、別の幾つかの力を得るための力になる。そしてその力それぞれも、また別々の幾つかの力を得る。そうやって木の幹から枝分かれしていくように様々な力を身に付けていく。

 そしてその過程で何かしらの力を得た者が「夢を見る力」を得る。



 話がかなりそれたが、つまり人の成長とはそう言うものであり、人の起こす行動ほぼ全てに向き不向きがあると言っていいだろう。

 その事実を前にして、全員に一律に「夢を持て」と言うのはナンセンスだ。早く走れない子に対して「100mを9秒で走れ」と言うようなものだ。無理なものは無理。


 しかしだ。「そこに到達すること」を主軸に考えると、世の中のほとんどの事について、そこに至る道が一本しかないと言う事は無い。「100m9秒で走れ」と言うのも、例えば車に乗れば可能であるし(走るには該当しないだろうが。)、走る事に拘るのなら急勾配の下り坂を走ればいい(現にそう言うチャレンジをした人間はいる)。

 何かを成し遂げるのに確かに「夢」は必要かもしれない。動機付けとして、そもそもそこを目指す為に、必要な要素なのかもしれない。しかし、かと言って絶対に必要なわけでもない。山の頂上へ至る道は一つではないのだ。




(思うに「夢」と言う言葉は神格化され過ぎている気がする。)


 そこまで考えて、八木は思った。彼がトライスロンで今、成したい事は「誰にも負けたくない」と言う事である。夢と呼ぶには弱い気がすると彼は思っている。

 しかし、夢とはもっと簡単なものであるはずだ。

 誰しもが、人生の全てをかけて成し遂げたいと思う事を持つ、それこそが夢だと言う前提自体が間違っているのだ。

「今日の夕食はカレーが食べたい。」

 これも立派な夢でしかるべきなのだ。これは願望になるから夢と言って相違ない。


(思うに、今の「夢」は敷居が高すぎる。)


 本来はもっと簡単でお手軽なものなのだ。そう考えれば、日々の生活は夢で溢れている。何も強くなくたっていい。八木にとっての「誰にも負けたくない」と言う目標も彼の人生の中で大きなウェイトを占めている訳ではない。「明日はラーメンがいい」程度のものだ。だからこそ夢と言うのは憚れたのだが、よくよく考えたら全く引け目を感じる必要は無いのだ。


(そう言った強い夢があるに越した事はない、でもなくても構わない。結局は勝利への要素のうちの一つに過ぎないから。夢は万能じゃない。窮地や逆境を救ってくれる、いわばトランプで言う「ジョーカー」のようなものだ。要はそう言う窮地や逆境に陥らなければ必要ないものなんだ。)


 気付くと時刻は9時を回っていた。明日に備えてそろそろ寝る時間だ。


結局のところこれに答えは無いのかもしれない。夢と言う言葉の神格化も結局は八木の視点から見た世界の形にしか過ぎない。万人の共通項である保証はない。八木がただ勝手に夢に対して敷居を高く思っているだけかもしれない。

ただ一つ、八木には言えることがある。


(俺に強い夢を見る力は無い。そして夢と言う神格化された言葉が嫌いだ。だけど誰にも負けたくないと言う目標は本物だ。)


明日は誰にも負けたく無い。そう思いながら部屋の電気を消した。

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