6-3「画竜点睛・朝川仁志」



 「…フゥ。」


 雲が厚くのしかかり、一面が灰色で塗りつぶされた東京・お台場の空。顔を見せぬ太陽へ不満を漏らすように、朝川仁志は天へ向け一つため息を吐いた。

 つい先程選手へ向けての競技説明会が終わり、朝川は人でごった返す説明会場を後にしてきた。一つ広い空の下に出て、大きく伸びでもしたい気分だったが、天には厚い雲の蓋がかかっていた。オマケに天高く聳え立つビルの数々が、自分と空との間に割って入ってくる。


(都心の空は相変わらず狭いな。)


 朝川は、天を見上げながらそんな事を思った。毎年、この地にくるたびに同じような事を考えている。しかし、だからと言って不満がある訳でもない。この地は朝川にとって、プロとしての出発点にも似た懐かしさがあった。そのため、狭い空だの空が青くないだのと文句を想いつつも、毎年見上げるこの空には、故郷に帰ってきたのかのような安心感も抱いていた。


 そう。今年も帰ってきた。

 しかし、来年はもう帰ってこない。少なくとも今と同じ立場としては。



 朝川はギリギリまで悩んでいた。そして結局、引退に関しては公表しないことにした。別に公表のタイミングについて何か強い想いがある訳では無い。後でも先でもよかった。端的に理由をいうと、タイミングを逃した。

 「今シーズンを通して例年と全く変わらずにレースを回っておいて、最終レース直前に引退宣言というのもどうか」と考えたり、「いやいやしかし、ずっと応援をしてくれたファンの方々へ義理を通すためにも引退レースは宣言した方がいいのでは。」など迷っているうちにとうとう今日を迎えてしまった感じだ。

 しかし、朝川にとってしてみれば、公表しようがしまいが、レースでやる事は変わらない。なので、事前に公表しなかったことについて、胸に引っ掛かってしまったりなど、特に精神衛生上レースに支障がきたされるような事は全く無かった。

 神経質な面も多い選手だが、彼のこういう図太さのようなものは、彼がここまで第一線で戦えてこれたことの要因の一つかも知れない。


(明日で最後…。)


 思い返せば、とても人に誇れるような選手生活を送ってきたとは言えなかった。

 多くの人に支えられ、多くの人に迷惑をかけ、多くの人に背中を押され、多くの人に夢をもらっっていた。

 

 「誰かに何かを与えられるような選手になる。」


 まだ駆け出しの若い頃。そんな風に豪語したことがあった。雑誌の取材だっただろうか。

 あの時は、本気でそう思っていた。プロスポーツ選手というのは、ファンや応援者に夢や希望を与えるのが仕事だと信じて疑わなかった。そして自分もそうなりたいと思っていた。

 自分の側からしか、発信し、与える事しかできないと思っていた。

だからこそ、我武者羅になって成績を求め続けたし、何とかして応援者との距離を縮められるよう、様々な試みを行った。


結果として、それらの行いは概ね成功したと言って良いだろう。

選手としての名声を求め続けた自分の行動が、誰かに夢や希望を与えられた事実は十分にあるだろう。


だがしかし、与えていただけではなかった。


朝川の側から一方的に与え続けていたかに思われた「夢」や「希望」は、振り返ってみると、応援者の側から朝川に対しても、確かに与え続けられていた。

朝川がそのことに気付けたのは、随分と時が経ってから、最近の事だった。

よく考えてみれば当然のことなのだが、朝川はそれに気づくことが出来なかった。気付かないまま闇雲に走り続けていた。そしてその期間が長すぎた。


だからこそ朝川は自分の競技者人生が、人に誇れるようなものでは無いと思っている。むしろ愚かな失敗談とされてもおかしく無いとさえ思っている。



人と人との関わりは面白い。与えていたと思っていたら与えられていたり。与えられていたと思っていたら与えていたり。

選手として本気で活動していたからこそ気付けた事実。朝川は、おそらく選手をしていなければ、自分のような鈍感な人間は一生こんな事になど気付く事はなかっただろうとさえ思っている。

それくらい朝川にとってこのことに気付いた時は衝撃的だった。


(選手としての自分の夢は、周囲の応援によっても生かされている。)


決してこの夢は、自分一人の力で在り続けている訳では無いという事実。

それを受け、今、終わりを目の前にした朝川仁志が思う事もまた、決して彼のみの想いの強さだけでは成り立たないことであった。


(最後に俺は伝えたい。何でもいい。応援してくれる人達全員に何かを伝えたい。そうすることで、俺は最後に、もう一歩だけ踏み出す勇気が貰える気がする。)


最後である事実は誰にも伝えていない。おそらくこのまま、朝川が来年も変わらず活動し続けると思っている者が殆どであろう。

しかし、だからこそ、明日の日本選手権では、自分から湧き上がる何か覇気のようなものを感じ取ってもらえれば良いと朝川は思っている。前口上の何も無い、フラットな視点で見てもらうからこそ伝えられることがある。

言うなればこれは朝川にとっての集大成。選手として、本当に「誰かに何かを伝えられる存在」になれたかどうかを試すための1戦。


受け取る事は十分過ぎるほどしてきた。

これは仕上げ。最後に彼が「朝川仁志」という選手を完成させるための大事な行程。

明日のレースは、まさに彼にとって画竜点睛の役目を持つと言うわけである。




様々な想いを下に見て、お台場の空はそれでも変わらず曇り続ける。

本来、皆を等しく照らし出すはずの陽の光は、雲間に隠れそれを地上に届かせる事はしない。

天気予報によれば、明日も曇りらしい。しかし、ところにより晴れ間も見えるとの事。


果たして誰が陽の目を浴びるか如何は、勝利の女神の裁量と、時の運、そして彼ら自身の実力に委ねられたという事である。

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