第26話 夢の淵
頭上で無数の星が光る美しい暗闇に、三つの人影がぼうっと浮かんでいる。
外套を着ていないシャツ姿のキリルと、ランプレヒト……それにユルギスだ。ユルギスは辺りを見回して、自分の体を見下ろした。
「ここは……何故俺まで……?」
「何故って、あんたにゃ見届ける義務と権利があるからさ」
キリルは事も無げにそう言って、両手を広げた。
「ようこそ。ここはあたしの夢ン中。ここで〈茨の魔法〉に引っ付いてた奴らをほぐして、あっちに送り出してたんだ。……最初はよく分かんねえままやってたけど」
暖かくも寒くもない空間は、ユルギスにとっては心地よいものに感じる。だがランプレヒトはそうではないのか、しきりにある一方を気にして怯えている。
「嫌だ……儂はまだ生きられる! 永遠を生きる賢者となるのだ! あと少し、もう少しでその手段も確立できるというのに、混ざりものの分際で何故邪魔だてするッ!?」
「んなこと言われたって、あたしを混ぜたのは親にあたる奴らだろ。なあユルギス、竜だったのは父親と母親どっちだと思う?」
キリルは微妙に噛み合わない返事をランプレヒトに返した。そして噛み合わないまま自分の話題を自分に差し向けてきたので、ユルギスは虚を突かれたように首を傾げることしか出来ない。
「……さ、さあ……?」
「さあ、ってお前な。ココ超重要だろ! 親のどっちが竜でどっちが人間かで、あたしの心持が変わって来るんだぞ?」
ユルギスは大層困惑していた。普通「混ざりもの」などという言葉は傷つきそうなものだが、キリルは気にしていないどころか、その興味はもっぱら両親に向いている。しかもその関心がキリルにとっては至上命題というのだから、理解が出来ない。
「ジークちゃんから聞いた感じ、竜って卵生なんだろ。つまりはだな、あたしは人間の股から生まれたのか、それとも卵から生まれたのか? ほら気になるだろ! さてどっちだッ!?」
「……まあ、俺がお前だったら、確かに気になるところだろうな」
一人で騒がしいキリルを見ていると、自分があれこれと悩んでいることがすべてどうでもよく感じてしまう。ユルギスはないはずの胸や腹がほんわりと温かくなるような心地を覚えて、おかしくて笑いを堪えられなくなってしまった。
「ふふ、たとえお前が卵から生まれていようと、俺は構わんさ」
「お前はそうでもあたしが構うんだよ。……んで、ランプさんは何だっけ。もっとたくさん生きたいんだっけ。でも勝負に負けたから、ツケは払わにゃあならねえぜ」
キリルはしゃがみ込んで、ランプレヒトの顔を覗き込んだ。現実世界とは違って、その顔はもうほとんどが黒ずんで、腐ったように爛れている。
「そんなになってまで長ェ時間生きてることねえだろ。むしろ早く死にたいね、あたしなら」
「孤独の中で死ねるのか、お前は」
キリルの荒れた唇が、僅かに震えた。それに気付いているのか、それとも気が付かぬまま、ランプレヒトは毒を吐き散らすように強い声で言った。
「自由奔放な貴様には分かるまい。どれほど助けようとも、救おうとも、救いを求める声はたゆまず聞こえる。だのに儂がどれほど人々の役に立とうとも、真に儂を愛する者はいない」
濁った蒼い目が、緩慢な動きでユルギスを見た。昏い色に落ちた蒼は、まだ瑞々しい輝きを持つ蒼を引きずり込もうとする。
「賢者は人々を愛せても、誰か一人に愛を傾けることは叶わぬ。人でありながら、人を愛する喜びを知り得ぬのに、愛する者を失った人々を奮い立たせ導かねばならぬ。なんという矛盾だ! それに気が付いた時の絶望を、お前は知らんのだ!」
誰か、一人を……。その一言はユルギスの胸中で渦を巻いた。孤独を救うのは愛だ、その愛も得られない賢者は、救いを得られないのだろうか。
その答えをランプレヒトは見出したのだった。荒れ狂う嵐のような蒼に、ほんの少し安らぎが戻った。
「初めて〈茨の魔法〉使いに直面して儂は歓喜した。変質した魔法に宿ってなお、魂たちは美しい輝きを持っていた。人に愛を傾けられずとも、魂を愛することは許されたのだ」
美しい魂に囲まれて、それらを愛しながら生きていければ、どんなに幸せだろう――。
賢者は疲れていたのだ。ずっと孤独感に蓋をして役目を遂げ続け、長い役目があと数十年で尽きるという時、ランプレヒトは変質したかつての賢者の魔法に出会って、壊れた。
「それなのに……やっと儂の手に入るというところで、貴様はその魂をあの世へ送ったのだ!」
「そりゃ送るだろ。あいつら、見てくれは綺麗だったけど、もう自分じゃ何にも考えらンねえぐらいにくたびれてたんだぜ」
キリルがある一方に向かって歩いて行った。ランプレヒトがしきりに気にしている方向だ。ある場所まで来たところで歩みを止めると、風があるのか、乱雑に結んだ髪が微かに揺れた。
「ちょっとユルギスと話してやれ。流石のあたしも可哀想ンなってきてよ」
「いいのか? 維持するのも力を使うだろう」
「そう思うんならさっさとしろ。借りを返すって言ったろ」
面白くなさそうに鼻を鳴らすキリルに微笑みを返して、ユルギスはランプレヒトの傍に膝をついた。
何から話せばいいだろうか。いつか先達と再び
「好きな人がいるんだ」
「…………」
「自分の体では何もできない俺とは反対に、自分の身一つで何でもこなしてしまう彼女を、初めは羨んだ。けれどそのうち彼女も同じだと気が付いた。誰よりも自由なようでいて、“肉体”という檻に閉じ込められた、憐れな人だった」
ちょっとやそっとでは傷つかない強靭な肉体に、寿命の長い竜の血。自分で死ぬことも出来ず、死に至るような出来事すらもはね返してしまう。それは人間にとって魅力的に映ろうとも、当の本人にとっては終わりのない日常が延々と続く牢獄だ。
「そんな人生も生き抜いて見せるという気概が美しいと思った。そんな彼女にいつか手を差し伸べられる男に成りたかったし、事実、賢者ならばその存在になり得ると思った。実際は、助けたつもりが俺の方が助けられてしまったが……きっと俺が彼女を愛していられるのは、キリルが竜人だからなのだろうな」
ユルギスは柔らかく笑って、半身をどす黒く染めたランプレヒトを見た。
「同じように、貴方のことも愛せると思ったんだ。俺は人間でも賢者で、貴方は賢者でも人間だから。そうすれば互いに互いの“救い”たり得ると」
「…………」
「何でもよかった。父子のような関係でも、兄弟でも、友でも、師弟でも、仲間でも……何なら貴方の嘆きのはけ口になってもいいと思った。同時に存在する賢者として、貴方と共に歩めれば、俺は本当に何でもよかったんだ」
ユルギスは手を差し出した。
「儂に、死ねというのか」
「そうなってしまうな。だが……短い間でも、貴方を支えたい」
黒ずんだ手がおもむろに持ち上げられて、旅人のマントを来たユルギスの肩に乗せられた。目を瞠るユルギスに、ランプレヒトは眉を下げて見せた。
「手がもう使い物にならん。支えると言うのならば、全身を預けるぞ」
「……ふふ、光栄です」
嬉しそうに破顔して、ユルギスはゆっくりゆっくり、体の自由の利かないランプレヒトを労わりながら、キリルの方へと歩いて行った。ポケットに手を突っ込んでぶらぶらと暇を持て余していたキリルは、二人の姿を見てニヤリと笑った。
「いい顔だ。心配すんな、優しくしてやるからよ」
「……少なくとも、純なる竜どもよりはましだろうな」
「おうよ。このキリル様にどーんと任せとけ」
ランプレヒトに立ち止まらせ、キリルはその背後に回った。ユルギスも彼から離れて、キリルの隣に立った。
ランプレヒトは振り返った。黒ずんだ顔に刻まれた深い皺は、彼の長い人生の苦悩が感じられて、ユルギスは唇を引き結んだ。
「恐らくお前が最後の賢者だ。せいぜい苦しんでもがいて生きればよい。それがお前の望みならば」
白い髭の波打つ口元が、ほんの少し和らいだ。
「それが師としてお前に贈る言葉だ、ユルギスよ」
「ランプレヒト――」
キリルが息を吸い込んで、ふうっと吐息を吐いた。
口元に添えられた両手のひらに従って、吐息はランプレヒトに向かい、彼の魂を包み込み、風に乗ってふわりと浮き上がって、夢の淵の外へ出た。辺り一面に散らばる星々は、ゆっくりと流れて一筋の川を作っていた。これらはすべて旅をする魂たちであった。ランプレヒトの魂も流れる数多の他の魂たちと合流して、空へと溶け込んでいったのだった。
それを見届けて、キリルは夢の淵から中心へと戻っていき、ゴロリと横になった。
「ハァー、疲れた……なんかめちゃくちゃ疲れた……フツーに寝るわ。起こすなよ」
「キリル」
「んあ?」
そう、ここは夢の中。現実世界で肉体を持っていなくても、夢でならキリルに触れられる。
ユルギスの指先がそっと、キリルの長い前髪をよけて、頬を撫でる。キリルがくすぐったそうに頬を動かした。その感触すらいとおしく感じて、口元をほころばせる。
「指輪、今は嵌めてくれているのだな。嬉しいよ」
「ふん。目ェ覚めたらイチバンに外してやる」
嬉しそうなユルギスとは対照的に、キリルは不機嫌そうに口を尖らせている。
「それは残念だ。もう着けてはくれないのか?」
「…………」
キリルは何故か黙った。何か迷うように口を蠢かせて、おもむろに小さく言った。
「……いつか、人間の手が空に届くようなことがあったら、そん時ァ考えてやるよ」
珍しく謎かけのようなことを言ったキリルに、束の間ユルギスは虚を突かれたように目を見開いたが、意味を理解してふっと息で笑んだ。そしてキリルの髪に手を伸ばした。ごわごわした黒髪に指が入り込んで、そのままするりと撫でられる。
「ランプレヒトとの時間をくれてありがとう、キリル」
「何だよ、キザったらしい手つきしやがっ――」
キリルの言葉は続かなかった。唇に柔らかい感触を感じて、真っ黒だったキリルの視界に蒼い光が煌めいている。二つ連なるこれはほくろか。
キリルはそれはもう驚いて、驚いた反応すら示せなくて、ただただ唇を受け止めながら「あたしの唇ガサガサだけど痛くねえのかな」などと明後日のことを考えていた。
そうして、長いような短いような時間が終わった後で、ユルギスはまた柔らかく微笑んだ。
「おやすみ、キリル」
キリルの隣に横になって目を閉じた。すぐに寝息が立つ。キリルはむくりと起き上がって、しかしまたばったりと体を地面に倒した。
「やるな、こんにゃろう。このあたしの唇を奪うとは」
ケッと小さく悪態未満の何かをついて、キリルも目を閉じた。
夢は見なかった。賢者の魂を送り出して、夢の客人にキスをされた、そんな夢の他には。
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