第25話 魂のにおい

 賢者の魔法「秘術・蒼」――アウレリア城でユルギスが使って見せたと同じものながら、その効果は一線を画していた。

 ランプレヒトの周囲の瓦礫が、塵芥の一粒までもが浮いている。キリルの体も浮いていた。ゆっくりと宙で回転しながらも、キリル自身は自らの意思で体を動かせずにいた。

 そんな中、ランプレヒトだけが身を起こし、立ち上がっていた。ユルギスが震えるような声で呟く。


「……同じ術でこうも違うか……!」


 白く輝く魔法の杖をコツリコツリとついてキリルに歩み寄り、顎を掴んで自分の方を向かせる。


「ちょこまかと小うるさい奴め。滅多なことでは使わんこの魔法を、まさか半竜のお前に使おうとはな」

「――ひぇぁっ……」

「何だそれは。悲鳴か?」

「ふぇぅっ……はぇあっ……」


 キリルは変な風に顔を歪めて、顎を掴まれたまま奇声を上げている。

 皆、固唾をのんで見守っていた。もしやまさかと一言も発せずに、しかしこれが現状打破の一撃になると期待をこめていた。ランプレヒトは知らない。キリルには本人にも制御できない、があることを。




「――……んぶふゅぅぇへあァァーーーッッくしょぉんぬぇええい!」




 キリルはくしゃみした。それはもう、隕石級のくしゃみであった。キリルの超人的な肺活量でもって放たれたくしゃみは、多分に竜のブレスの力を含んで、真正面のランプレヒトを直撃した。賢者は吹っ飛びこそしなかったものの、大量の飛沫とキリルの息を浴びて仰け反り、杖を取り落とした。

 魔法の効果が失せたのだろう、途端に瓦礫も塵芥も、そしてキリルも、糸がふっつり切れたように地面に落っこちた。特大くしゃみを放っても尚、小さいくしゃみを繰り返すキリルは、半分涙目でランプレヒトを睨みつけた。


「な゛ん゛だこいづ、鼻ムズムズするッ……ユルギスの比じゃね゛えぞ」

「そうか! そういうことか!」


 キリルの鼻声を聞いたスヴェンが何かに閃いたように膝を打った。


「“ユルギスアレルギー”はあながち間違いじゃなかったんだ!」

「えっ」

「あ、いや、違うんだユルギス。最後まで聞いてくれ」


 軽く打ちひしがれたような表情を見せたユルギスに慌てて手を振って、スヴェンは説明した。


「キリルは確かにアレルギーだ。ただしアレルゲンはお前じゃなくって、だ」

「魂……?」

「賢者は今、魂の廻りが滞ってる状態だ。その大元はランプレヒトだけど、ユルギスも受けてる影響は大きい。竜の鼻でしか感じない“魂の腐臭”みたいなものがお前にも流れ込んできてるんじゃないかな」


 “理の調律者”としての竜の役割は、世に満ちる魂が正しくあるよう導くこと。竜の吐く“息吹ブレス”は破壊行動の発露などではなく、穢れたり澱んだりした魂を浄化し、魂の故郷へと戻す力だ。

 純正な竜ではないキリルは、息吹と呼べるほどの力は持っておらず、その威力は本物に比べればせいぜいも良いところだ。しかしこの加減されつつも同じ効果を持つキリルの吐息ブレスだからこそ、〈茨の魔法〉の魂を解き放てたのではないか。


 キリルが“眠りの城”の城門で茨を見上げてくしゃみをしたのも、ユルギスに近寄られるとくしゃみが出るのも、ランプレヒトに至近距離まで近寄られて特大くしゃみをぶちまけたのも、キリルの鼻がに反応したのだと考えれば、理屈が通る。


「じゃあ今、ランプレヒトの魂は――」


 ベルが言いかけた時、自分たちに影が差した。

 何事かと上を見上げる。抜けた地階の天井の向こうで広がる青空に、いくつもの黒い影が、ここを中心に旋回している。


「竜だ……」


 唇まで真っ青にして、スヴェンが立ち上がった。


「竜が群れ作ってやって来た。まずいぞ。ここの天井が抜けて賢者の居場所が分かった途端、奴ら、この宮殿諸共ランプレヒトを滅しに来たんだ!」






  * * *






 その頃、竜滅部隊の返還と引き換えに王子の身柄を要求するアウレリア騎士団の面々は、箒で突入した塔に立てこもっていた。

 今のところアイゼンブルク側に受諾の動きはない。しかし騎士たちの表情は余裕のあるものだった。彼らの傍に残る“11の魔女”リーゼロッテが、精霊を介して逐一スヴェンとやり取りを交わしており、キリルが無事ベルフォート王子を保護したと連絡を受けたからだ。


「……魔女は平等であらねばならないと聞いていましたが?」


 ハインリヒは傍らの女に尋ねた。豊かな茜色の髪を三つ編みにして下げ、キルトを継ぎ合わせたワンピース姿は可愛らしいが、革エプロンに大きな革手袋、それに工具類を収めた腰元のケースが武骨さを全面に押し出している。


「フィーネ姉さまの予言は“理”に関することがほとんど。今回の〈茨の魔法〉もそうではないかと思っていたけれど、実際にランプレヒトが関わっていたでしょ?」


 革エプロンの女こと“11の魔女”リーゼロッテは、箒を調整する手を休めずハインリヒに返した。


「そうなれば私たちが動かない道理はないわ。これはれっきとした魔女のお仕事よ」

「では、私たちアウレリア国が特別に恩恵を受けているわけではないと考えて良いのですね」


 リーゼロッテがハインリヒを見上げて、丸眼鏡の向こうからそばかすの頬に笑窪を作った。


「君、真面目そうだものね。ええそうよ。けれど安心なさいな、国から遠く離れた場所に置いてけぼりにはしないから。キリルちゃんたちに何かがあっても、私が魔法でお国に届けてあげるわ」


 それはキリルが悲鳴を上げたあの魔法の箒でだろうか……ハインリヒは訊くのをやめた。部下たちの士気が万一下がるようなことがあってはならない。

 その代わり、彼は精霊たちに祈りを捧げた。どうか王子が無事であるように、そしてかの強靭な護衛にも、精霊のご加護がありますように、と。






  * * *






 キリルは苛々していた。ランプレヒトが近くに寄ると強烈に鼻がむず痒くなるし、くしゃみをして少しスッキリしたかと思えば、今度は上の方からざわざわといろんな声が聞こえる。青鱗の竜ジークリンデと似たような音のかすれ方を感じるところからすると、これもまた竜の声なのだろうとキリルは気付いていた。

 ただしジークとは違って、この声は歯の付け根がキリキリ言うような厭な音がする。だから苛立ちが募るのだ。


「ハァ……なあジークちゃん、あいつら知り合い?」


 逆立つ神経を落ち着かせながら青い竜に問う。ジークも長い首をもたげて上を見上げていた。大気の匂いを嗅いで、キリルにしか聞こえない声で嬉しそうに叫んでいる。


「マジで? あン中に親っぽい奴いるって!? よかったじゃん、卵以来の再会じゃねえか! 飛んでって挨拶してやんな。きっと喜ぶぜ」


 声の聞こえないベルたちには、突然ジークが立ち上がったように見えたらしい。驚いて後ずさる男たちを差し置いて、ジークは薄い膜の張ったような翼を二、三度はためかせたと思うと、跳び上がって空を滑るように飛んで行った。鳥にも為し得ぬ美しい飛翔だ。


「おいキリル、急げ! あいつら、賢者の倦んだ魂の臭いに反応して群がって来た! 全員で力合わせてこの場所ごと浄化する気だ、奴らの本気の息吹ブレスなんざ食らったら、おいらたちだって一たまりもないぞ!」


 つまりスヴェンは「早く賢者を殺せ」と急かしているのだ。キリルは舌を打って立ち上がろうとした。


「〈秘術・黑〉」

「ッ……ガハ、ぅ……!」


 立つことは叶わなかった。見えない何かに圧し潰されて地面に押しつけられた。キリルが息を吐いても吐いても、力は増すばかりで、内臓がどんどん締め付けられていく。


「ぐ……こンの……!」

「〈秘術・むらさき〉」

「ぁあッ、づ……!


 今度は紫色の細い光線が交差して襲いかかり、キリルの背を焼きながら刻んだ。仰け反って悶えるキリルは全身を雷が走るような衝動を味わっていた。――ああ、死の気配がする。


「半分でも竜は竜だな。普通の人間であれば、跡形もなく散っておるところだ」


 地に臥すキリルの頭上から、老賢者の声が降って来る。逃れようとしても、全身が鉛のように重たいキリルは息をするので精一杯だ。


「ああもう見てられないったら……この馬鹿ゴリラ、竜まで来てるってのに、くたばってる場合かよっ!」


 スヴェンがキリルを庇うように躍り出て、眼前の老賢者に向かって息を吹きかけると、みるみる生い茂ったシダや低木がランプレヒトを覆っていった。その間にスヴェンはキリルの体を起こして背中に手を押し当て、魔女の言葉で呪文を唱えると、淡い光の渦がキリルの体を包み、荒かった呼吸がすうっと平静を取り戻していった。


「ばあちゃんほどの完成度じゃないけど、対竜専用の治癒術だ。少しは楽ンなったろ――」

「ふん、“凶兆の魔女”か。小細工なんぞ、この賢者の前には無意味だ」


 賢者の白杖が床を突く。すると、ランプレヒトを覆いつくしていた植物が瞬く間に枯れて、はらはらと落ちていった。無傷のランプレヒトを見て一瞬悔し気なしかめっ面を見せるも、スヴェンは鼻で笑った。


「“魔女族の男は凶事の前触れ”っていう、あの迷信をお前まで信じてんのかよ。地下に引き籠って頭固くなっちまったか?」


 スヴェンは瓦礫の山によじ登り、高い場所から腕組をして高らかに言い放った。


「いいか、耳の穴かっぽじってよぉく聞けっ! おいらは“9の魔女”スヴェン! 薬師で竜族の癒し手の、誇り高き魔女族の男! 精霊も人間も友達いっぱいだ! ユルギスだっておいらの友達なんだからな、泣かせる奴ァおいらが許さんぞ!」


 ユルギスの傍らで見守るベルは、何だかちょっとずれているなあ、と首を傾げた。ところがランプレヒトはほんの僅かに、しかし大いに驚いて目を瞠った。

 魔女と賢者という立場でありながら、堂々と「友人だ」と宣するのか――その一瞬の驚嘆は、十分な隙であった。気が付いた時には、背中にキリルの容赦ない蹴りがめり込んで、次の瞬間老賢者の体は十歩も先へ吹っ飛んでしまった。


「へへ、時間稼ぎあんがとよ。さあてランプさんよ、仕切り直しといこうじゃねえか」


 キリルが拳を構えてニヤリと口元を歪め、立ち上がったランプレヒトは鋭い目でキリルを睨んだ。とは言っても、キリルはもう満身創痍で、ランプレヒトも何度も攻撃を食らった老体をふらつかせている。

 二人が同時に動いた。キリルが一気に距離を詰め、ランプレヒトの杖から雷が迸る。強い魔力が空気を斬り裂き、亀裂から炎を生み、重力がキリルを押し潰さんと圧をかける。キリルはそれをくるくる躱しながら一撃、二撃と蹴りを見舞い、拾った瓦礫を投げつけ、腹や心臓を狙って拳を振り上げる。


 だが、キリルの体が不意にガクンと、力が抜けたようになって、拳がランプレヒトに届かないままに崩れ落ちた。その地面にはいつの間に仕掛けられたのか、薄く賢者の魔力が張り巡らされていて、キリルから着実に体力を奪っていた。


「ハァ、ハァ……手こずらせおって」


 杖を構える気配。そこに高練度の魔力が収束していくのが、見ずとも分かった。灼けつく喉で無理やり息を吐き出して、キリルは両手を地面に突いてどうにか立ち上がった。


「しぶとい奴だ。まだ立つか」

「死ぬまで足掻くって決めてんだ。じゃなきゃ楽しく生きらんねえだろ」

「快楽主義者め。儂の最も嫌うものだ」


 蒼い光は、黒を纏った禍々しい赤色に変化していく。体力を削る魔法だけではない、先の地面に押し付けられた時の痛みがキリルの体を重くしていた。今のキリルの動きでは、しっかりランプレヒトに捉えられてしまうだろう。

 キリルは目を閉じなかった。自分が死ぬまで、この世の光景をちゃんと目に焼け付けておこうと思った。


「竜をも滅するこの魔法で消え去れ。――〈秘術・あか〉」


 杖の先から赤黒い光が満ち、膨らむ。キリルは成す術なく光を受け入れた。そうして光がキリルの体全体を包んで――ふっと消えた。

 賢者は目を見開いた。少しの手応えも残らないままに、何事もなかったかのように、発動したはずの魔法が綺麗サッパリ消えてしまったのだ。キリルは呆けたような顔で自分の両手を見つめていたが、何か腑に落ちたような声を小さく上げた。


「そっか。あたし、半分は人間だから……」


 かと思うと、途端につまらなさそうに脱力した。


「あーあ、マジかよ、嘘だろぉ……せっかくいい線いったと思ったのに、興ざめだ。結局コイツもあたしを殺せねえんじゃねえか」

「キリルッ!」


 鮮やかな翠色をした大きな鳥が飛んできた。脱出を決意したスヴェンが姿を変えて、全員連れて地上へ出ようとしているのだ。


「馬鹿、脳筋、このゴリラ! お前がさっさとしないから、竜たちが高度下げて大口開けて準備万端だぞこの野郎! もう間に合わない、巻き込まれる前に離脱するぞ、早く掴まれ!」

「うるせえなあ、そんな騒がねえでも、仕事はキッチリやるって」


 うるさい虫でも追っ払うかのように手をひらひらやって、キリルは空を睨んだ。そして、すうっと大きく息を吸い込むと、


「聞けェ、そこのデカブツどもッ!」


 キリルの声が書斎に、地上に、果ては上空へとこだました。空気を震わすほどの声に、茫然としていた老賢者は思わず耳を塞いだ。


「てめえら、何を人の獲物横取りしようってんだ? こいつァあたしの獲物だ! 耳障りな声でギャアギャア騒いでねえで、そこでかわいいジークちゃんと遊んでな!」


 ひとしきり空に怒鳴ると、膝をつくランプレヒトを一瞥した。目には見えないが、何か生命の根源のようなものが、老いた体から不安定に剥がれているような、そんな雰囲気のようなものを感じる。


「この勝負、あたしを殺せなかったあんたの負けってことで、続きはあたしの領域で話そうぜ。特別に一人だけゲストも招いてやるとするか」


 そう言うとキリルはランプレヒトのローブの襟を両手で引っ掴むと、思い切り頭突きを食らわせて昏倒させた。そして、自分も横になって目を閉じる直前、ポケットに仕舞い込んでいた銀の指輪をはめて、つるりと撫でたのだった。

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