第23話 孤独の賢者

 アイゼンブルク帝国に賢者が留まっていることは知っていた。

 思念体という手段を確立したばかりの頃、ユルギスは自身の中に引き継がれた賢者としての記憶情報や、市井の目撃情報などを頼りに、自らの先代ランプレヒトが“鉄の国”に在ることを突き止め、宮殿を訪れたことがあった。

 しかし、ユルギスは呆気なく拒絶された。その理由も告げられぬままに、他でもないランプレヒト自身の術によって、ユルギスは“鉄の国”に出入りすることが出来なくなってしまったのだ。


 キリルのお陰で得たこの機会を無駄には出来ない。何も為せずに終わってしまえば今度こそ、いつ絶えるとも知れぬランプレヒトの命を待つか、さもなくばランプレヒトに殺されるのを受け入れるほかなくなる。


 宮殿の地階、蝋燭に照らされる広い書斎にて遂に、求めて止まなかった背中を見つけて、ユルギスは絞り出すような声で呼び掛けた。


「ランプレヒト。……ようやく会えた。ずっと貴方と会いたかった」


 男がピクリと身を揺らし、跳ねるように振り返る。蒼い目と蒼い目がぶつかる。すっかり白くなってしまった髪と髭は波打って、重ねた齢が肌に染みと皺を作り、思念体でしかないユルギスには持ち得ぬ威厳を滲ませている。白地に金や深青の刺繡を施された賢者のローブも、その絶大な魔力も、何より己の意のままになる肉体ですらも、どれもユルギスが手に出来ないものだ。

 五百を数える老齢の賢者。歴代の賢者の中でも、最も人心に寄り添うたと名高いランプレヒトは、老いて垂れ下がった瞼の向こうから、蒼い瞳を鋭くして思念体を睨んだ。


「ここへ何をしに来た」

「貴方と話がしたい」

「まったく不要だ。お前と交わす話などない。時間の無駄だ、さっさと――」

「無駄などということがあろうか!? そんな筈はない、言葉を交わし合うは貴方と俺が初めてだ!」


 ふと空気が揺らいだのを感じた刹那、実体を持たないはずのユルギスが吹き飛んで、背後の壁に打ち付けられた。ランプレヒトは伸ばした片手を軽く曲げて、吹き飛ばした思念体を今度は引き寄せた。


「次の賢者たる赤子が生まれれば、当代の賢者は死ぬ。寿命に合わせて後継が生まれる故だ。だがお前は生まれるのが早すぎた……これほど赤子を呪ったことはない。これほど赤子が憎らしいと、生まれてさえ来なければと、お前の存在を感ずるまでそう思ったことはなかったのだ」

「……ランプレヒト、俺はッ……」

「その姿もなかなか死なぬ儂への当てつけであろう? 儂がに死んでおれば、今頃はその姿と同じく青年の肉体を得ていたのだろうから」


 思念体のユルギスは苦痛を味わっていた。ランプレヒトの手はもちろん、実体を持たないユルギスを掴んでなどいないのに、思念体を通して本体の赤子に魔法を送って苦しめているのだ。


(エルマーたちには手をかけさせるな……)


 きっと自分の本体は今頃、火が付いたように泣き出している。或いは苦しくて息が出来ずにいるかもしれない。

 だが、ランプレヒトに出来るのはせいぜい苦痛を与えるのが関の山。互いに同位体とも呼べる存在を、互いに殺せはしないのだ。


「ッ……分かって、いるだろう……貴方に俺を殺せないように、俺だって貴方を手にかけられない。そんな無駄なことをしに来たわけじゃない……」

「であれば狙いは何だ? 儂の研究を止めに来たとでも?」

「止めるつもりもない。ただ……賢者が生まれつき持つ記憶の中ではない、本物の貴方という人を知りたいだけだ」


 訝るようにランプレヒトの眉がひそめられる。だがそれは紛れもなく、ユルギスの本心であった。




 賢者の役割を引き継ぐ赤子は、特に法則なく生まれてくる。ユルギスも貧しい山奥のごく普通の家庭の生まれだ。

 後継者の誕生を知ったランプレヒトは、生後半年足らずの彼に生長停止の呪いをかけた。それはユルギスや家族にとっても、そのことを知った魔女たちにとっても、ひどく衝撃的なことであった。


 赤子のまま時間の止まったユルギスは、ただひたすら、生まれつき持っていた歴代賢者の記憶を反芻して、ランプレヒトの真意を探ろうとした。しかし記憶は所詮ただの情報、“世界のことわり”から外れぬよう人々を導く賢者の役割を果たすための知識に過ぎない。先代の人となりを知り得るには不十分もいいところだ。

 だから行動を起こした。数年かけて思念体魔法を編み出して、思念体で各地を旅して得た手がかりを元にランプレヒトに会いに行った。だがあえなく拒絶されたユルギスは――絶望した。


 記憶の中のランプレヒトは、魔法の扱いに長けていて、たくさんの人々を救い導いていた。旅をする中でも“賢者ランプレヒト”は素晴らしい人物だと誰もが賞賛していた。起こした奇跡は数知れず、疫病から見事に立ち直らせた村、貧困から返り咲いた町、呪いを解いて笑顔の戻った国……。

 そんな記憶や話ばかりだったから、“茨の国”の王を呪ったのは何かの間違いだと思ったのに、そうではなかったのだ。ほかならぬ彼自身の意思で王を呪ったその理由を、当時のユルギスは理解できなかった。不可解は疑念や恐怖を生み、それは絶望を呼ぶに十分すぎた。


 ユルギスは持て余した思念体を、何となく“魔法使いユルギス”として活動させていた。建前では「姿を消した賢者ランプレヒトの影武者として人の役に立とう」としながら、本音はただ気を紛らわせたいだけだった。家族全員が寿命を迎え、子孫たちの世話を受けながら百年近く経った頃――見たこともない強烈な女性と出会った。

 爆発が起こって崩落したはずの坑道から、真っ黒になりながらも男を五人も担いで現れた彼女は、一目見てそれと分かった。彼女には人ならざる者の血が混じっている、と。

 食事を奢るとついてきた彼女に、ユルギスはある日言った。


『お前ほど強ければ、何かに絶望することなどないのだろうな』


 羨ましかった。彼女のように苛烈であれば、或いは先代に拒絶されただけで絶望などしなかったのではないかと。要は自分の心が弱いから、簡単に絶望に落ちて、八つ当たりのように賢者の真似事をして見せているのだと。

 ところが彼女は切れ長の目を更に細めて、こんなことを言ったのだった。


『そうでもねえぜ。なかなか死ねないってのも嫌なもんだ』

『……死にたいのか?』

『考えてもみろよ。空からたくさん矢が降ってきて、隣の奴の鎧の隙間に器用に矢が入り込んだっていうのに、あたしにはその奇跡が起きねえ。運よく生き残ったもう片っぽの隣の奴も、気付いたらじいさんになって死んでるんだぜ』


 シャリ、と彼女の歯が林檎を砕く。その音がやけに印象に残っている。


『ついこの間まで、いろいろ面倒になって、何にもやる気が起きなくて腐ってたんだ。でもある日部屋ン中で酒を溢して、あーもったいねえなあと思って覗き込んだら、酷ェ顔した自分と目が合ってよ。こんなに死んだ目ェしやがって、なんてあたしらしくねえ奴だって思ったね』

『……それで?』

『こんな体の丈夫な奴でも絶対に避けられないような“死”でもねえと、このあたしは殺せねえ。でもそれは精一杯生きて見せた向こうからやって来るもんだ。だから死に物狂いで生きて足掻こうって決めた。そいつがあたしらしい死に方の出来る、唯一の方法だって気が付いたのさ』


 「炭鉱に閉じ込められるのはマジで死んだかと思った」と、彼女――キリルは愉快そうに笑った。髪もボサボサで、そばかすの浮く肌も荒れていて、みすぼらしく言動も体つきも何一つ女らしさを感じさせないキリルが、ユルギスの目には眩しく映った。

 こんな風に生きてみたいと心から思った。地べたを這いずり回るような思いをして、そこから自分の生き方を見出すとは、何と強い人だろうと憧れた。


 ――同時に、もしかしてランプレヒトもそうだったのだろうかと思い至った。

 彼も地の底に落ちたような絶望を味わったのだろうか。あの拒絶はもしかして、救いを求める故のものだったのではないか。一世に一人しか存在せず、人々を助けるために生きる賢者は、誰にも救いを求められない。たくさんの人に囲まれているように見えて、その本質はいつでも一人ぼっちなのだ。



 ならば。



「ランプレヒト。俺は貴方を救いたい」


 苦痛の隙間に、ユルギスは言葉を捻りだした。ずっと伝えたかった本心を。拒絶されてから今までに変容した、ランプレヒトに抱く思いを。


「賢者は孤独だ。いつだって一人で頼る宛もない。同じ理の調律者たる魔女や竜は、力は借りれど友とはなり得ない。何故なら彼女たちは“理”に限りなく近い存在で、賢者はだから」

「……黙れ……」

「けれど貴方は、俺は違う。どういう“理”の気まぐれか、奇しくも貴方と俺という二人の賢者が同時に存在している。俺たちは――」

「お前に何が分かる!?」


 解放された魔力が突風を引き起こし、書斎の書物を吹き飛ばした。一緒に吹きとばされたユルギスは地面に崩れ落ちまいと踏ん張ったが、ランプレヒトが近付くにつれ圧をかけられたように膝をついた。


「碌に賢者でもないお前が、何を分かったような口を! 儂の味おうた辛酸の一つも分かるはずがない! お前に……」


 ランプレヒトの両手が掲げ、蒼い魔力が集中していく。練度の高い魔力だ。今のユルギスには到底追いつけそうもない技術で、ランプレヒトは思念体をまたも拒絶しようとしている。せめて彼の魔法を、言葉を、表情を刻もうと顔を上げたユルギスは……瞠目した。

 老賢者は顔を歪めて、食いしばる歯の向こうから唸るように言った。


「どれほど人に求められようと、誰か一人を愛することも叶わぬこの苦痛が、若造のお前に分かりようもないのだ」


 その時、轟音が轟いて書斎全体を揺らした。天井や本棚から埃がパラパラと降りかかってくる。どこかで瓦礫が崩れる音、大量の書物が地面に落ちる音が重なって聞こえた。

 それはランプレヒトの魔法によるものではなかった。彼の魔法は発動せず、何が起こったか分からないのは彼も同じであった。


「ぅいっくし、へぁっくし……何だココ、やけに埃っぽいな」


 立ち昇る埃の向こうから、背の高い影が長い杖を頼りに歩いてくる。

 瓦礫を蹴り飛ばす足は男物の編み上げ靴。薄汚れた魔道具の外套に身を包み、伸ばしっぱなしの黒髪を雑に後ろで纏めて、前髪の隙間から覗くのは切れ長の黒い目。


「あーいたいた。ようユルギス。賢者はやっぱり話の分かる奴じゃなかったろ?」


 竜人キリルが、美しき亡国の王子、魔女の少年、そして何故か青い鱗の竜を引きつれて現れた。

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