第18話 くしゃみ

 昼下がり、ベルはキチンと髪を整えた姿になった。城の外に出て髪を切ってしまった王子に残念がる声もあったが、さっぱりと短くなった髪に、前髪を上げて撫でつけた様は、美しい顔を凛としたものに見せていた。支度を整えた召使いたちが感嘆の溜息を洩らしたのは言うまでもない。


 一方で騎士服姿のキリルは、いつものようにうなじ辺りで髪を結んでいるが、整髪油をふんだんに使ってキッチリとまとめられている。長さの足りない前髪は耳の横で垂らされており、普段とは違って顔がよく見えるせいか、切れ長の黒目は凶悪さを引っ込め、精悍な雰囲気が全面に押し出されている。

 ベルはかつての女騎士時代をキリルに感じたものだが、口に出すと調子に乗せてしまいそうなので、胸にしまっておくことにした。


 当初、執事長ヘンリックは謁見用にドレスを用意させた。即座にベルとキリルは断った、というかキリルがドレスを着るなど天地がひっくり返っても無理だと言ったのだが、何せヘンリックも二百年前の人間である、そんなことがあるはずないと思っていたのだ。

 それで当日になって、ドレスを着せるために侍女たちはまずコルセットを装着させようとしたのだが、筋肉質の体は何人がかりでも締め上げることは出来ず、逆にコルセットが弾けてしまった。その様をキリルはわざわざ自らヘンリックに見せに行き(通行人が悲鳴を上げた)、ようやく騎士の正装を手に入れたという訳である。


「キリル。いくら君が逞しい肉体美を誇るからといって、みんなに見せて回るのはよろしくないよ。二百年前の人たちには心臓に悪いから」

「だってあんたは少しも驚かなかったろ」

「僕は君の下着姿だって見慣れてしまったし、君ならやりそうだなと思えば驚かないよ。でも突然さ、中途半端にドレスを着た筋骨隆々の女性がいきなり現れたら、流石に僕でも肝がひっくり返ると思うな」

「……たしかに悪いことしたって思えてきたよ」


 歩くとハーフコートが肩で靡く感覚が、キリルは慣れない。その下で荷袋と杖を背負い、剣を携えない姿は、おかしな騎士姿にも見えるが、キリルは「二百年後マジックで押し通そう」と考えている。

 ヘンリックの案内に従い、二人は謁見室の前までやって来た。キリルが初めに訪れた時、王と王妃それに家臣たちが眠っていた、あの広間である。大扉の両脇に立つ騎士が二人の姿を見るや、頷いて扉を押し開け、「ベルフォート殿下と護衛の者です」と中へ告げた。


 赤い絨毯を踏み、前へ。

 玉座から五歩のところで足を止め、ベルは片手を胸に当てて礼をした。


「ベルフォート・クリス・アウレリアが、国王・后妃両陛下にご挨拶申し上げます」

「どうも、護衛のキリルです。コンニチハ」


 ……昨晩ベルと特訓をしたキリルだが、ちょっと所作と言葉遣いが危うい。玉座の周囲に佇む臣下数人から、眉がぴくっと動くような気配を感じつつ、二人は平静を貫いた。

 キリルが一国の騎士をしていたのは百年も前のことで、その時ですら真っ当な騎士であったかは怪しいところである。ベルは途中までキリルの練習に付き合ったものの、最終的には匙を投げた。何かあればその時は「二百年後マジック」を発動させようと決意したのだった。


 広間に奇妙な沈黙が流れた後で、クリスハルト王が「面を上げよ」と許した。


「ベルフォート、よくぞ戻った。周囲に何も告げず城を空けた件は水に流そう」

「ご厚情痛み入ります、陛下」


 ベルは口の端が落っこちないよう頬に力を込めた。言葉にし難い冷淡なものを国王から感じる。今はちょうど呪いの支配下にあるらしい。

 王は次いで、ベルの隣に立つ奇妙な女騎士に視線を移した。


「して、キリルと申したか? 我が息子の外遊中、世話をしてくれたと聞いている。私からも礼を言おう」

「あざっす……アリガトーゴザイマス」


 慣れない言葉を片言で返して、キリルは国王を見据えて口の端を上げた。


「陛下。二百年前の王サマにゃあちと不躾かもしりゃァせんが、をしてもよろしいですか?」

「……現代式?」

「ええ。二百年後の世界ではですね、友好の証として握手を交わすんです。一度握手した者同士ってのは、初対面ならお友だちに、元からダチならますます親友に、昨日の敵なら仲直りして今日の友に。いかがです?」


 王は困惑した。隣に座る美しいお妃も戸惑いを露わにした。周囲の家来たちは鳩が豆鉄砲を食ったようになった。皆の戸惑いは、この中で唯一キリルとの橋渡しをしてくれそうなベルフォート王子に向いた。

 視線の集まった麗しい王子は、美しい天使のような小悪魔的微笑を浮かべて、頷いた。


「その通りです、両陛下。握手は友好関係を築く第一歩なのです」

「で、殿下ッ……」


 家臣の一人から小さく悲鳴のような声が上がった。しかしベルフォートは聞こえなかったふうに続ける。


「とはいえ、新たな価値観に突然触れるのは、戸惑いも大きいことでしょう。キリル、みんなにお手本を見せてあげようか」


 そうして、王子と護衛により握手の実演がなされた。二人は向き合い、右手同士を差し出して軽く握って見せると、未だ戸惑いながらも王は頷いた。


「よろしい。近くへ」


 許しの出たキリルは玉座へ大股で歩み寄った。家臣たちはハラハラしながら様子を見守る。

 キリルはスラックスで手汗を拭ってから、王が差し出した右手をガッシリ両手で握って上下に振った。


「いやあ、よかったよかった、突然息子さんがいなくなって肝冷やしたでしょう。ご子息をお預かりしてた手前、一度ちゃあんと親御サンにご挨拶せにゃあと思ってたんですよ」

「む……そうか……」


 ベルとの実演とは違い、両手で無遠慮にぶんぶん振られるし、にこにこ笑って元気よく話しかけられるしで、王様はすっかり面食らってしまった。完全にキリルの調子に乗せられている。


「殿下の綺麗な顔は母親似かと思ってたけど、目玉なんかは陛下からもらったものなんですねえ、ヒヒヒ」

「……左様……」


 騎士服でありながらも所詮中身は変わらない。キリルがまったく盗賊らしい笑い方を見せるので、王はさらに戸惑いを深める。

 しかし笑顔のキリルも実は焦っていた。他の城内の人間たちは、触れると何か霧が晴れたような表情を見せていたのが、キリルの目には、王はまだどことなく目が曇っているように見える。そしてこの感覚は正しいと信じていた。


(王は呪いにかかってる本体だ、触るだけで解ける代物じゃねえのかも……)


 これ以上手を握っていれば流石に怪しまれる。かといって相手は国王、この機を逃せば次があるとも限らない。ぶんぶん手を振りながらどうしたものかと考えあぐねているうちに、キリルは何だか鼻がむずむずしてきた。


「キリル殿や、ちと長くないか……?」

「うぃっ……いやほら、アレですよ、っく……長けりゃ長いほど距離が縮まるって感じの……うぇっ」

「ど、どうしたのだ?」

「ふぇぁっ……はぁぇあっ……」


 どうにかこうにか抑えていたのが、遂に限界を迎えた。

 我慢しきれなくなったキリルは、次の瞬間、



「――……ぶふゅぇァアッくしょぉォぇえィ!」



 くしゃみした。

 それも特大のくしゃみである。

 しかも真正面に向けて、つまり握手中の国王に向けて、くしゃみと飛沫をぶちまけたのである。


 下品どころの騒ぎではないこのくしゃみで、国王は気絶し、つられて隣のお妃も気絶、大臣たちは目玉が飛び出そうなほど目をひん剥いて、近衛騎士たちもびっくと肩を震わせて身構えた。


 ……ところが、くしゃみの影響はこれで終わりではなかった。

 玉座の後ろの壁がゆらりと揺らぎ、見えない幕のようなものがさあっと溶けたかと思うと、そこには重厚な装備に覆われた一団がずらりと並んでいたのだ。

 キリルが鼻をずびずび言わせながら叫んだ。


「いっきし、えくし……な、何だァ!? お前らアイゼンブルクの竜殺しの奴らじゃねえか、……へっくし……んま、魔法で隠れてやが、やがったらァアっくしょい!」


 またしても特大くしゃみが破裂し、身隠し魔法が解けた“鉄の国”の竜滅部隊たちは成すすべなく飛沫を浴びる。

 そこへ、キリルの騎士服の胸元に留められていた翠色のブローチが、ぽーんと宙にはじけ飛んだかと思うと、空中で灰色の髪の少年に姿を変えて着地した。


「おい! それ以上は止めてやれ、キリルがまともに息できなくなっちまうぞ!」


 スヴェンがキリルに向かって、何故かユルギスの名を呼んだ。何のことやら分からないキリルだったが、その傍らにすうっと長身に蒼い目の男が現れたので、くしゃみと叫び声を上げた。


「ぎゃあっ、ふぇぁっくしょん! ……ユルギスこんにゃろう、何しやがる!」

「国王の呪いを解く手伝いをしたんじゃないか。触れて解けないなら本格的な竜の力が必要だが、自覚が追いついていないキリルには使いこなすのは難しい。ならば竜の息吹ブレスの効果を含むくしゃみを誘発させればいいと思いついてな」


 自分が近寄る度にキリルがするくしゃみに、ユルギスは“息吹ブレス”と呼ばれる、竜の吐く攻撃的な息の力を感じたらしい。

 ユルギスの思念体を、堅いこぶしが見舞った。当然当たらない。


「この野郎、賢者とは思えねえアホ発想だ!」

「中身はさておき、本体は赤子だぞ? むしろ褒めてほしいくらいだ。お陰で後ろの竜伐兵の存在が露呈したのだから。ついでに言うと、今のくしゃみで奴らの見隠し魔法の他に、〈操り人形の呪い〉の効果も失せているようだ。見ろ、“鉄の国”の兵に混じって、アウレリアの騎士たちが混ざっている」


 キリルとスヴェン、それに駆け寄って来たベルが奥の壁を見ると、竜滅装備の中に古めかしい騎士たちの姿がある。ベルとキリルが揃ってあっと声を上げた。


「あいつらの顔見覚えあるぞ! ベルが眠ってた塔を襲いに来た連中だ!」

「前衛騎士の第三部隊だ、間違いないよ。でも様子がおかしいね、混乱しているようだ」


 竜滅部隊が戦闘準備を整える中、アウレリアの騎士たちは頭を抱えたり、目を瞬かせたりして口々に「どうして謁見室にいるんだ?」「俺は一体何をしていたんだ……?」などと呟いている。


「呪いで操られてたのが急に解けたんだ、記憶が混濁するのも無理ないさ」


 スヴェンはシャツの袖を捲りながら、他の三人を見上げた。


「今ので呪いが完全に解けたとは思ってないけど、調べるには絶好の機会だ。王様の意識がないうちに入り口側に避難させて解析しちまうよ。ベル、お前もこっち来て〈茨の魔法〉使って壁役を頼む。んでキリル、お前あの竜殺しはどうにか出来るんだろうな?」

「策は思い付いてんだ。ま、一か八かやってみるさ」


 飄々としてキリルが肩を竦めると、スヴェンが低くなりかけの声を裏返した。


「はァ!? 一か八かって、確実じゃねえのかよっ!」

「しゃあねえだろ、やってみなきゃ分かんねえんだから。ほら行け、行って早くベルの父ちゃん母ちゃん診てやってくれ。――っと、危ねえ」


 ベルとスヴェンが去ったと同時、禍々しい刃がキリルへと襲いかかった。ひらりと太刀筋を避けたついで、逃げ遅れた大臣を向こうの方へ蹴っ飛ばし、キリルはニヤリと笑った。


「さて、あんたは初めましてか? それとも久しぶりか?」

「人型のままブレスを放ったな。何者だ!」

「あたしもつい最近知ったんだけど、半人半竜の“竜人”ってやつらしいぜ。くしゃみの文句はあそこですまし顔したアホに言ってくれ、ブレスとか何とかあたしは知らねえんだよ」


 キリルは杖には手を伸ばさず、代わりに革手袋を何故か片方にだけ着けると、ポケットから何かを取り出した。

 それは指輪だった。刻まれた呪文が美しい紋様を描き、深い海にも似た蒼い石のはめ込まれた――ユルギスがかつてキリルに贈った、あの指輪だった。

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