第13話 竜人は夢を見るか
キリルはまた夢を見ていた。以前も夢に出てきたあの少女に手を繋がれて、無数の星が煌めく暗闇の中を散歩している。夢によくありがちな、見知らぬ人物ながらよく見知った人間のように、少女と手を揺らして歩いている。
「随分楽しそうだな、あんた」
少女が鈴を転がすような笑い声を上げているので、キリルはそう呼びかけた。少女は小首を傾げて見上げてくる。その顔はとても美しく、淡いガラス玉のような目と共に誰かを想起させる。
「ふふ。竜のおねえさんもたのしいでしょう?」
「……まあ、あたしの目論見通り、退屈はしてねえよ」
自然と、キリルの口に柔らかな笑みが浮かぶ。それを見て少女はますます、繋いだ手を嬉しそうに振った。
「あなたが来てくれて、わたし、ほんとうにうれしかったのよ。ぜんぶ背負わせてしまっていたのに、あなたが半分も吹きとばしてくれたんだもの」
「あァ? 何の話だよ」
「ふふ。ねえ、竜のおねえさん。わたし、あなたが大好き。あなたが吹き込んでくれた風はとっても清々しくて、力強かったから、みんなもようやく決心がついたの」
少女を見下ろすのが面倒になったキリルが、目線を合わせるようにして片膝をつくと、少女は子供らしい手をいっぱいに広げてキリルに抱き着いた。
「ベルをよろしくね。ベルは心が強いから泣かないけれど、ほんとうはとってもつらいはずなの。……おねがいよ」
「心配すんな。万事、このキリル様にどんと任しとけばいいさ」
何の話かキリルにはまったく分からなかったが、夢の中でよくあるように、すべて分かっているような気になって、キリルは少女に快く応えた。少女は淡く光る宝石のようにキラキラ笑って、キリルの体をそっと夢の外へと送り出した。
そうしてぱちりとキリルが目を開けると、目の前に美しい顔があって、未だ夢から醒めきっていないキリルは大層困惑した。
「あれぇ……ベル、あんた、泣いてねえな……」
「君は僕が泣いている夢を見たのかい?」
「あんたをちゃんと泣かせてやれって言われたんだよ。……誰にだっけ」
「あはは、もう。スヴェンが朝ごはん準備してくれているよ。おかしなことを言っていないで、起きて顔を洗っておいで」
筋肉質でずっしり重たい体を無理やり引っ張って起こし、ベルはテントの外へとキリルを誘った。開いた幕の隙間から、山特有の冷たい空気と一緒に、スープの煮えるいい匂いが漂って来て、キリルの腹が盛大に鳴った。
「おうおう、ねぼすけ竜の腹は今日も元気だなあ」
匂いと一緒に飛んできたスヴェンの軽口に、夢の気配はすっかり消え失せて、キリルは顔を洗いに水場へと向かった。
スヴェンが持ち物にテントを追加してくれたおかげで、夜露を凌げる生活が出来るようになった。そもそもこれはキリルの気が回っていなかったせいでもあり、野ざらしでベルを寝かせていたと知ったスヴェンにキリルはこってり絞られたのだった。
更にスヴェンは道中の炊事も担ってくれるようになったので、キリルの作る野性味あふれる食事から一転、味わい豊かな食事を楽しめるようになり、ベルの体力向上にも繋がっていた。
「今日中には目的の村に着けるだろうよ。変わりやすい山の天気も、今日は大人しそうだ」
炊事や食事の時、スヴェンは元の姿に戻る。灰の髪に蔦を絡ませた魔女の少年は、空気の様子を窺いながらそう言った。
キリルも空気の匂いを嗅いでみるが、変化の激しい山の気候の具合までは測れない。
「あたしにゃ何も分かんねえな。魔女の勘か?」
「そりゃ精霊の機嫌も窺ってはいるけど、ちゃんと天気読んでるんだっつーの。ゴリラには難しくて理解出来ねえだろうな」
「一言多いぞ」
「わざとだ」
「二人とも、折角のごはんが冷めてしまうよ」
くすくす笑うベルに窘められて、キリルは仕方なく食事の続きに手を付ける。スヴェンのように真っ向から突っかかられると、勢いでこちらも反撃が出来るのだが、こうしてやんわり諭されると何故か従ってしまう。
朝食を終えると、片付けはベルに任せて、スヴェンはキリルの傷の様子を診る。脇腹の方は徐々に傷痕が薄れてきているが、スヴェンは決して予断を許すことなく、毎日観察を続けている。
「内臓系までは達してなかったにしろ、
「脚の方も大丈夫だろ?」
「丈夫過ぎてこっちが呆れる。爛れ落ちそうだったのが嘘みたいだ。竜の回復力舐めてたわけじゃなかったけど、どうしたって半分は人間だからさ、実を言うと上手くいくかどうか少し心配してたんだ」
太腿の傷痕に軟膏を塗り、上から当て布と包帯を巻けば、今日の診察と処置は終わりだ。キリルが服を直す傍ら、道具を片付けていたスヴェンは、ふと手を止めた。
「寝起き悪いのは元からか? お前、気配には動物以上に敏感だし、寝覚めだって良さそうだよな」
「そういや……なんか、最近夢見んだよ」
「夢?」
「起きたらすぐ忘れるけどな。でも、言われてみりゃあ変な感じだ。普段全然夢なんか見ねえのに……まあ大したことでもねえさ。怪我した反動とかそんなもんだろ」
キリルは軽く流そうとしたが、スヴェンは違った。チラとテントの外を窺って、キリルの耳元に口を寄せて声を落とした。
「ただの夢って可能性もあるけど、いいか、魔女や賢者、それに竜の見る夢ってのはな、何かの前触れとか予知夢とか、何か意味を持ってたりすることがある。もし気になる夢を見たらすぐに言え」
「……忘れなかったらな」
スヴェンは珍しく突っかからず、「とりあえずそれでいい」と道具を鞄に仕舞い込んで、テントを出て行った。
巻いて貰った包帯をそっと撫で、キリルは目を伏せる。
(……竜、か……)
長年求めていた、自らが不老である理由を、キリルは決して受け止めきれたわけではない。納得できる要素があまりに多い故に、逃れようのない事実なのだということは、辛うじて飲み込めている。
だがこの事実が明らかになったところで、自分に多大な変化が起こるわけでもなし。皮肉にも人生はこの先も長く続くのだ、竜人という身もゆっくり受け止めていけばいいと、ここ数日でキリルは切り替えることが出来ていた。今彼女が思考しているのは、出自のことではなく竜滅部隊への対処法だった。
(きっと今頃、あたしの存在について情報共有がされてるはず。あっちは狩る側だ、油断なく準備してくるに決まってる。……あたしもそれを凌ぐ何かが必要だ)
「キリル、身支度は済んだかい? そろそろ出ようってスヴェンが」
テントの外からベルに促され、キリルは捲っていたズボンの裾を下ろすと、外套の前をきつく合わせて、荷袋の留め具をしっかりかけ、外へ出た。
昼頃、山頂に着いた。
まばらに生える高山植物が山頂の強風に揺れる中、スヴェンは適当な岩場を見つけて腰を下ろし、昼食にしようと号令をかけた。朝食の残りを取っておいたスープを魔法で温め、堅いパンを浸しながら食べるのだ。
「こりゃあ眺めがいいや。天気がいいのは精霊たちが都合つけてくれたおかげかな。ちょいとお裾分けしてやろうかね」
今朝のスープの出来がいいので、スヴェンは上機嫌だ。小さな椀に少しだけスープを取り分けて、端の方に置いた。ベルが興味深々でその様子を見守る。
「精霊もものを食べるの?」
「直接は食わない。何て言うか、食べ物に籠った気を糧にするんだ。後で味見してみろ、ほとんど味しないと思うぜ」
キリルとベルも適当な岩を見つけて、スヴェンから昼食を受け取って食べ始めた。湯気の立つスープが冷えた体に染み渡る。
「今年はちょいと冷夏の気があったからなあ。まだ秋も浅いってのに、山はやっぱり寒いな」
「キリルは元気そうだけれどね」
「おう、元気だぜ」
キリルは早くも食べ終えてしまって、岩場で見つけたトカゲで遊んでいる。ベルは可笑しそうにその様子を眺めた後で、一口スープを飲んでから景色に視線を移した。
大地はあまりに広大で、こんなに高く登ったというのに、視界の端の向こう側まで地面が続いている。きっとその向こうには海があり、誰も知らない土地がまた始まるのだ。
「この山は言うほど高くないんだぜ。寒い土地ってのは高山植物が低い標高でも生えるんだ」
堅パンを齧りながらスヴェンが言った。
「知ってるか? この世界のどこかには、太陽にも届きそうなくらい高い山があるんだとさ」
「太陽に届いたら焼け死んでしまわないかな」
「はは、人間はしばらく空にゃあ手が伸びないさ。竜が空を支配するうちはな」
もぐもぐと咀嚼して、飲み込んで、翠の目が何か考えるように伏せられる。
「だけど、人間の手が空に届くのも時間の問題かもな……おいら、時々思うんだ。竜と賢者と魔女の三者で保つ時代は、もうそう長くは続かないんじゃないかって」
「スヴェン……?」
「賢者が正しく廻らなくなって、新しい魔女も現状おいらを最後に生まれて来ない。竜もどんどん狩られていってる。“
二人の視線が、自然とキリルに向いた。トカゲをつまんで宙に翳しているのは、どうやって食ってやろうかと思案しているように見える。
「あいつみたいな半人半竜がこの世に現れ出たってのも、一つの
いつもは小気味よい調子で話すスヴェンが、どこかぼんやりと遠い口調で、両足を投げ出してキリルを眺めている。
ベルは二百年の眠りについていたとはいえ、中身はキリルたちとは違い、齢二十一の普通の男。スヴェンの馳せている想いのひとかけらでも理解してやれるとは、ベルには到底思えなかった。
だからスヴェンから漏れ出た言葉に耳を傾けることこそすれ、応えることはしなかった。ただ聞いて、自分の境遇と重ねるにとどめた。長い眠りから覚めて、国も友も知人も許婚も、すべて遠い存在になっていたことを思い出しながら、スヴェンの隣で強風に髪を遊ばせていた。
やがてスヴェンは膝を叩いて立ち上がって、はにかんだような笑みを見せた。
「見かけによらず男らしい奴だよな、王子はさ。……そろそろ行くか。おーいキリル、トカゲを放してやれ。食われるんじゃねえかって気が気じゃなさそうだぞ」
「まさに食おうとしてたところだったんだけど」
「そんなもん生で食うな、炊事係のおいらの立つ瀬が無くなっちまうだろ」
呆れたように溜息をつき、パチンと指を鳴らせば、そこには可愛らしい野兎スヴェンがちょんと座っていた。兎を抱きかかえてやると、ふわふわした毛が頬を撫でて、ベルは思わず顔を綻ばせた。
* * *
山間の村は小さな農村だった。鶏が柵の中を駆け回り、子供たちがそれを追いかけ回している。
スヴェンはベルの腕からぴょんと飛び出すと、少年の姿に戻って、畑の傍で休む女に朗らかに声をかけた。
「よっ、フリーダ。ばあさんの膝の調子はどうだい?」
「あらあ、スヴェンじゃないの。この前も来てくれたばかりでしょ?」
フリーダと呼ばれた女はパッと顔を明るくした。
「寒くなったけど、いつもより楽だって言うのよ。あなたの薬のおかげね」
「君はよくここへ来るのかい、スヴェン?」
スヴェンが村の女性と親しく話すのを見て、ベルが問いかける。スヴェンは頷いた。
「あいつがいる村だしさ。ここは近くに診療所もないし、ついでに往診の真似事もしてるんだ。フリーダ、今回は往診に来たわけじゃないんだ。エルマーたちは今忙しいかな?」
「いいえ、家にいると思う。行ってみるといいわ」
フリーダに別れを告げ、スヴェンはてくてくと歩き出したので、二人も彼について行った。スヴェンはこの村人たちとかなり馴染んでいるようで、家へ向かう道すがら老人からも子供からも親し気に声をかけられた。
畑や養鶏場の間を縫うようにしてしばらく歩いたところで、とある家の前でスヴェンはようやく足を止めた。後ろの二人を振り返ったその顔は、どこか張り詰めているようにも見える。
「この家の家主は普通のご家族だ。あいつはこの中にいるけど、特にキリル、くれぐれもでかい声出したりするなよ」
「お……おう、分かった」
「ん、よし」
家の戸口の前で二、三回深呼吸を繰り返し、小さく「よし」と唇を引き締めて、トントンと戸を叩いた。
「やあエルマー、こんにちは。スヴェンだよ」
奥からこちらに歩いてくる足音。扉が丁寧に開かれると、人の好さそうな初老の男がにこやかに笑いかけてきていた。
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