第14話 廻らぬ賢者
「やあスヴェン。今日はお連れさんも一緒かい」
戸口を叩くと扉を開けて応じた「エルマー」という男は、スヴェンの背後に控える二人を見て微笑みながら、三人とも中へ案内した。
「うん。あいつの様子は?」
「いつもと変わらず。今日も実に健やかだよ」
「そうか。やあ、お邪魔するよ、エッダ」
古くこぢんまりした家はとても綺麗に手入れが行き届いていて、窓辺には花が飾られている。台所ではエルマーの妻エッダが炊事をしていて、三人の客人に温かい笑みを向けてくれた。
スヴェンは隣の部屋へ続く扉の前に立って、ちょいちょいと手招きした。そこに例の男がいるのだろうか。キリルとベルに緊張が走る。
カチャリ、とスヴェンが取っ手を動かし、押し開ける。
小さな部屋で、夕日が差し込む中、ゆりかごが一つ置かれていた。暖かそうな毛布に包まって赤子がすやすやと眠っている。三人はなるべくそうっと足音を立てないよう中へ入った。
ゆりかごを覗き込んだキリルとベルは同時に息を呑んだ。安らかな寝顔いっぱいに、赤子の瑞々しさとは対極的を成すような、黒々とした呪印が刻まれている。
「生後五か月とかに見えるけど、そいつはもう百五十年もその状態だ」
スヴェンの声は重い。その声でもって、更に重い事実を彼は告げる。
「その赤ん坊の名前はユルギス。当代賢者ランプレヒトの後継、成り損ないの賢者の本体だ」
「ユルギスって……ッ、この赤ん坊が? 嘘だろ、だって……だってよ……」
キリルは明らかに狼狽を見せている。ベルも口元に手を当てて驚愕の声をどうにか洩らすまいとしている。二人の様子を受け止めつつも、魔女の少年の話は続く。
「特にキリル、ユルギスと知り合いだっていうお前にはこれを見せたかった。賢者が正しく廻らないってのはこういうことなんだ。もう死ぬはずの
「……じゃああたしらが会ってた奴は……?」
「あれはこの赤ん坊が魔法で作り出した思念体だ。賢者は人間の暮らしを守るために魔法を使うし、時には魔法の知恵を授けることもある。その役割のために賢者は湯水のように魔法が使えるんだけど、先代からまだ役割を引き継げてないユルギスもそうらしい。だから赤ん坊のままでも行動できるようにって捻りだした苦肉の策なのさ、あれは」
ベルが美しい顔を曇らせた。
「そうか……だからあの時」
「ベル?」
「訳あって手を貸せないって言ったんだ、キリルを背負った時に。思念体で触れないから……」
キリルはあまりの衝撃に、生まれて初めての眩暈を覚えていた。ここでようやく出会った時のことを思い出したのだ。キリルはその時鉱夫として雇われていて、事故で坑道に閉じ込められたのを、怪力で壁に穴を開けて無理やり脱出したことがあった。
ちょうどその時外では魔法使いが呼ばれて、閉じ込められた人々を魔法で救出しようとしていたところだったのが、その前にキリルが大の男を五人も担いで自力で出て来てしまったので、魔法使いはお役御免になってしまった。その魔法使いというのがユルギスであったのだ。
この事件があってすぐ、仕事場の居心地が悪くなってキリルは鉱夫を辞めてしまったが、食べ物の世話をしてくれるというユルギスとしばらく行動を共にした。あの銀の指輪はその別れ際に貰ったものだ。
しかし。
キリルは何だか背筋から首筋まで、つうっとなぞり上げられたようなむず痒さも、同時に思い出していた。そしてこれはいつもの“外れない勘”だと気が付いた。
キリルが適当な理由をつけて退出しようとした時、部屋の外で家主たちが歓声を上げた。
「まあユルギス様、今回はお早いお帰りですねえ。ちょうどお客がいらしているのですよ」
「ああ、知っている。それで来たんだ」
その声を聞いて、キリルの全身に戦慄が走った。この低く穏やかな声、間違いない。
部屋の扉が開いたと同時、キリルは床を蹴って宙で翻り、スヴェンの忠告通り音を立てぬよう気を付けながら、ベルの背後に着地して隠れた。
部屋に入って来た黒髪の男に、スヴェンが親し気に声をかけた。
「ユルギス。久しぶりだなあ、この間この二人を送るついでにウチに寄って行けばよかったのに」
「そうもいかなくてな。指輪に呼ばれるまでしていた仕事を終わらせねばならなかった。……君が“茨の王子”だな。魔女たちから君についての諸々は聞いている。先日は挨拶が出来ずすまなかった」
右目下の二つ
「スヴェンから話は聞いたろうが、俺は賢者ランプレヒトに続く者だ。……事情は俺の本体を見れば瞭然だろう。赤子のままでは話すことも出来ないから、思念体という形で意思疎通や活動をはかっている」
「ご苦労お察しします。ベルフォート・クリス・アウレリア、どうぞベルとお呼びください」
「ありがとう。畏まる必要はない、普通に接してくれ。呼び名もユルギスでいい。それから」
蒼い視線が再び動くと、ベルの後ろで元気な黒髪がビクッと跳ねた。
それまで崩れることのなかったユルギスの顔が、ふと和らいだ。
「五十年ぶりだというのに挨拶も無しか? 傷を負っていたろう、少しは元気な姿も見せてくれないか」
ベルとスヴェンは目を丸くした。こんなにぎこちない動きをするキリルを初めて見たし、スヴェンの方はユルギスがこんな風に柔らかな表情を見せたことにも驚いていた。
(ユルギスが……笑っただと……!?)
キリルはギギギと蝶番でも軋んでいるかのように振り向いて、
「……ぅいっくし」
くしゃみした。あまり上品なくしゃみではない。
賢者は驚くでもなく、ふっと息をするように笑った。それどころか、ベルの背後に回り込んでキリルとの距離を詰めていく。
「俺を見てくしゃみが出るなら元気な証拠だな。指輪はどうした? また荷物の底にやってしまったのか?」
「近寄んなてめえ、ふぇっくし」
「折角の贈り物を二度も仕舞い込むとは、さすがの俺も泣くぞ。いい機会だ、これからは指に嵌めてほしいものだが」
「やーだねー、だァれがそんな真似、へっくし」
ユルギスが一歩寄るたび、キリルはくしゃみしながらも二歩下がっていたが、ここは狭い部屋の中。トン、と背中に壁を感じて、いつもは元気いっぱいのキリルの顔から血の気が引いていった。
「ひっきし――何なんだよお前、何のつもりだ!」
「さて、俺の指輪はどこだ? ……ふ、まさか本当に、また荷袋の中に放り込んでいるとはな」
とうとうキリルを壁まで追い込んだユルギスは至近距離で膝をついたかと思うと、片手をゆらりと揺らして荷袋から指輪を呼び寄せた。改めて見ても、彼の中指に嵌まるものとしっかり同じものだ。
知性を感じさせる蒼色に、からかうような色が浮かぶ。
「残念ながら俺はお前に触れられないからな。どうすれば嵌めてくれるかな」
「指輪なんかしないっつってんだろ、頭馬鹿ンなったかエセ賢者、いいから離れろ、マジで離れろ」
「そうか……残念だ。出来れば無理強いはしたくないのだが」
「ひっ……」
指輪を巡るやや一方的な攻防戦は、どうやら賢者(思念体)に軍配が上がりそうだ。既にキリルは情けない悲鳴を上げて涙目ですらある。尤も、くしゃみをし過ぎた線も否めないが。
傍観する王子と魔女は思った。
自分たちは一体、何を見せられているのだろうか。
「ス、スヴェン、この通りだ、見てねえで助けてくれよ……」
「……や、正直お前の弱み握れていい気分だわ。今度お前に何かされたらユルギスけしかけようっと」
「こンのくそ
ベルはキリルの様子に心底驚いていた。先日は竜滅部隊にやられてしまったとはいえ、キリルが誰かに屈するなど想像も出来なかった。だというのに、目の前で繰り広げられた攻防で早々に音を上げてしまったキリルが意外だったのだ。
涙目で自分を見上げてくる情けない姿を見て、ベルはふと一つの可能性に行きついた。きっとキリル自身は気付いていないのだと思うと何だかとてもおかしくて、大層美しい顔でくすりと笑った。その様はまるで天使がこの世に降りて来たかと思うものだったが、これはベルに潜む小悪魔的な悪戯っぽさが顔を出す時だと、キリルは知っている。
「な、何だよ。笑ってんじゃねえよ」
「ねえキリル、本当にその指輪が要らなかったのなら、君のことだから、そもそも荷袋にも入れなかったと思うんだ」
「…………なに?」
「いくら忘れっぽい君でも、売る気のない指輪を五十年も持って歩いてただけ、ユルギスへの思いやりを感じるってことだよ」
「ほんのちょびっとだけれど」と小声で付け足しつつベルが言うと、途端にキリルから表情が消えた。反対にユルギスはとても嬉しそうにして、とは言っても元は誠実そうな好青年であるから、優しく口元が緩む程度なのだが、それでも本当に嬉しそうなのが見てとれた。
「捨てないでくれていたのか。嬉しいよ、キリル」
その一言でキリルの中で何かが限界突破した。ユルギスを鋭い目でキツと睨んで、ユルギスの手からぱしんと指輪を奪い取ったかと思うと、窓枠に足をかけ、そのまま外壁をよじ登って行ってしまった。
スヴェンはすっぱいものと辛いものと苦いものを同時に食べたような顔をしてユルギスを見上げた。
「これはちょっとキリルに同情するね。おいらはお前が怖くなりました」
「俺には同情してくれないのか? 贈り物の指輪を五十年も忘れ去られていた男だぞ」
「……なあ、つかぬ事を訊くけどさ、あいつに贈った指輪って、賢者特製緊急お助けアイテムってことでいいんだよな」
「まあそうだ。同じものをエルマーにも預けている」
答えになっていない。答えを知るのが何だか怖かったスヴェンが遠回しな訊き方をしたこともあるが、恐らくそれを分かった上でユルギスは涼しい顔で答えている。
この騒ぎで目を覚ましたのか、火がついたように赤子が泣き出した。エッダがエプロンで手を拭きながら慌てて駆け込んできて、ゆりかごから毛布ごと赤子を抱き上げてゆっくりと揺する。その様はとても手馴れているものだ。
「済まないエッダ、驚いただけだ。じき泣き止む」
「良いんですよ、私がこうしたいのですから」
気にしなくていいと諭すユルギスに、家主の妻エッダはにこにこ笑い返した。スヴェンが視線で促し、三人は子供部屋を出ることにした。戸を閉める間際、エッダが優しく赤子をあやす声が聞こえてきた。
「さあユーリ、大丈夫よ、何も怖いものはないからね……」
「“ユーリ”?」
「俺の本体の呼び名だ。大人の姿で半賢者として動いている俺を知りながら、同じ名を呼んで世話をするのは居心地悪いだろうと……そう両親に提案してから、今は七代目になる。エルマーは弟夫婦の血筋の者で、エッダとの間に子は成らなかった」
テーブルの上には人数分のお茶が用意されていた。エルマーの姿は窓の外にあって、畑の様子を見ているようだった。
何も置かれていない席につき、ユルギスは目を閉じた。
「表に出て来ない当代の代わりに賢者の役割を負ってきたが、俺自身は誰かの手にかからねば生きていけぬ身だ。こんな男を一体誰が“賢者”と呼ぶ?」
「……お前は立派な奴だよ」
本当なら、彼の背を叩いて励ましてやりたいところだ。それすら出来ないもどかしさに、スヴェンは何度唇を噛み締めたことだろう。
三人はしばらく、部屋の向こうから聞こえる子守歌に耳を傾けていた。悪い行いをしていると、竜が空から飛んできて、魂ごと食われちまうよ――そんな意味の子守歌が、夕暮れの居間にゆったりと響くのだった。
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