第10話 蒼い目の男

 目を閉じたキリルは額に脂汗を浮かべて苦しそうに喘いでいる。脇腹と太腿から止めどなく血が溢れ出て、頬の傷は広がるばかりだ。

 兵士たちはこちらを刺激しないよう、武器を構えながら、徐々に距離を狭めて来ている。


(魔法が効かないんじゃ、あとはキリルの切り札に縋るしかない。“銀の指輪”……きっとあれだ)


 時間がない。ベルは急いでキリルの荷袋に手を伸ばした。これまでにたびたび袋に入っていたベルは、適当に投げ入れられた持ち物の数々を、こっそり整理していたのだった。

 だから“銀の指輪”もすぐに思い当たった。値打ちのありそうな指輪でもないのに、どうして持ち物に入っているのか不思議で、印象に残っていたのだ。キリルなりに大切にしているのかもしれないと小さな布袋に大事にしまっておいたのだが、それが功を奏した。すぐに見つかったそれを指に嵌め、人差し指で一周、するりと撫でた。


「お願いだ。誰かキリルを助けておくれ」


 甲冑の足が、ザク、とベルのすぐそばを踏んだその時。

 突然どうと風が巻き起こり、周囲の砂埃を巻き上げて、兵士とベルの間を隔てた。思わず閉じた目をハッと開けると、そこには人が立っていた。


 旅人のマントを身につけた、背の高い黒髪の男だ。深い蒼色の目には知性が湛えられて、右目下に二つ連なる黒子が、男の穏やかな印象を更に深めている。男は傷つき横たわるキリルを見下ろした。


「こうなる前に、少しは俺のことを思い出して欲しかったものだ」

「貴方は……?」

「昔の知り合いだ。尤も、覚えているのは俺の方ばかりだったようだが」


 瞳と同じく、深く穏やかな声でそう言って、男は兵士たちに向き直った。


「その出で立ち、このところ北方で名を轟かす竜伐の兵だな。残念ながらこの女からは竜の牙も鱗も得られはしない。大人しく手を引くことだ」

「……貴様のようなが出張る場面ではないッ」

「手を引かんのなら、そのがお相手しよう。近頃のお前たちの所業は目に余る。ここで部隊を一つ減らすのも良かろう」


 軽く手を揺らして杖を呼び出しながら、涼し気に男がそう言い放つと、兵士はギリリと歯を食いしばった。槍兵の一人が彼に耳打ちした。


「隊長。……悔しいですが、あの男を相手にするのは些か分が悪いかと」

「……ああ。ああ、分かっているともッ……全員、ここは撤退だ。本国に帰還し、委細報告するぞ」


 武器を収め、背を向ける兵士たち。殿しんがりを務める隊長は振り返った。


「貴様の存在も、今にアイゼンブルク帝国が捻り潰してくれようぞ」


 そう男に言い捨てたのを最後に、竜滅部隊は土を踏み鳴らして去って行った。

 ベルは詰めていた息を吐き出して、目を開けないキリルに向き直った。


「血を止めないと。いや、その前に火傷の手当てを……」

「いや、これは普通の傷ではない。一刻も早く魔女に見せなければ」


 男は長身を屈めると、キリルの左頬の怪我にそっと右手を寄せた。その人差し指にはキリルが持っていたのとそっくり似た指輪が嵌まっていて、陽の光をキラリと跳ね返した。皮膚に触れるか触れないかというところで男の手は止まり、そのまま男は頬、脇腹、腿と手を翳していった。


「……これで少しは楽になっただろう」


 男が手を離すと、キリルの息は幾分穏やかなものに変わっていた。ベルの美しい顔が男を見上げる。


「僕の魔法は効かなかったのに……」

「だが、魔法の効きにくいキリルに俺が出来るのは痛みを和らげることまでだ。治療は魔女に任せるのがいい」

「魔女の居場所を知っているの?」

「君たちは“西の魔女”の噂を辿って来たのだな。残念だが、西の魔女は死んだ。ずっと前に死んでしまったんだ。代わりに別の魔女の元へ送ってやろう。ついて来なさい」


 そう言って立ち上がると、男は部隊が去った方とは逆へと歩いていった。ぐったりして動かないキリルをどうにか担ぎ上げて、ベルもよろよろとした足取りでついて行く。


(う……重たいっ……)


 筋肉質なのか、それとも意識がないせいで余計に重たいのか、とにかくベルは耐えきれず膝をついてしまった。ベルの様子を見て男は引き返してきたが、手を差し伸べはしない。


「杖に膝を引っ掛けて持ち上げるといい。背負いやすくなる」

「……本当だ、ありがとう」

「すまないな。訳あって俺は手を貸すことが出来ない。そこに池が見えるだろう、あそこまで頑張ってくれ」

「頑張るよ。……ねえ、貴方は一体……」

「俺についてはじきに分かる。さあ、ほら、池に着いた」


 木々に囲まれた池は、まるで水面が鏡のようで、森をそっくりそのまま映し込んでいた。男は池の淵に立つと、杖の先っちょでちょんと水面を突いた。波紋が広がり、寄せて返って、再び静けさを取り戻すと、そこには別の景色が映し出されていた。


「池を通じて魔女の元へ道を開いた。あとは魔女に頼みなさい。大丈夫、彼女は助かる」

「貴方は来ないの?」

「俺はまだやることがある。すぐにまた会えるさ。彼女が目覚めたら……そうだな、折角の指輪を荷物の下敷きにするんじゃないとでも伝えてくれ」


 ベルは男に問いたいことが山ほどあった。が、キリルの血を肩や背中に感じて、男に一つ頷いて見せた後、池にゆっくりと身を屈めた。額がくっついて、頭、肩、腰と水にくぐらせた時、重力がぐるんと反転した。


「うわっ……!」


 慌てて片腕を突き出し、池の淵にしがみついた。キリルがずり落ちそうになるのをもう片方の腕で押し留めながら、えいやっと踏ん張って岸を手繰り寄せ、池から体とキリルを引っ張り上げた。

 マントが水を吸って、まるで鉛でも背負っているかのように重たい。いいやそんなことよりもキリルだ、怪我に水が沁みてきっと痛いに違いない……ベルはキリルの長い脚までちゃんと水面から引き揚げて、呼吸と脈を確かめた。


 脈は、辛うじてある。しかし池に落ちた時に水を飲んでしまったのか、息をしていない。キリルを仰向けに横たえて、額と顎に指を軽く添え、キリルの口を自分の口で塞いだ。


「――ッ、ハア、もう一回……」


 キリルはまだ息を吹き返さない。深く息を吸い込み、もう一度息を吹き込む。更に二度、三度、四度吹き込んで、ベルの視界が真っ白になって来た頃、突然キリルの体が跳ねて咽込んだ。


「おーい、ユルギスー? 変だなあ、あいつの魔法の気配がしたんだけど……」


 ドアが開け放たれる音がして、ベルは振り返った。少し向こうの方に木で出来た家があって、誰かが様子を見に来たらしい。

 こちらを窺っていた人物は、ベルと目が合うと大声を上げて、若い鹿が跳ねるように家へ戻って行った。


「大変だァ! ばあちゃん、ばあちゃん! 急患だ!」


 変声期の少年がひっくり返して叫ぶ声に、ベルは何だか安心してしまって、キリルの隣に倒れ込んだのだった。喉がヒリヒリと灼けつく感覚がやけに強く感じて、意識を失った後もしばらく残っていた。






  * * *






 キリルは昔の夢を見ていた。

 放浪生活を始めてかなり経った頃……刺激を求めて賭け事や盗みを働いたり、危険な仕事に身を投じたり、そんな生活をし始めた頃のことだ。ある男に問われたことがあった。


「お前は強い。頭も切れる。これまでに培った経験も豊富だ。だが、自分の力を頼れない時が来たら、お前はどうするつもりだ?」

「そりゃあ……そん時だろ。どうにかする」

「そんなところだろうと思ったよ」


 その男と一体どんな知り合い方をしたのか、キリルはあまり覚えていない。ただ、その男から銀の指輪を貰ったことを、窮地に陥った時にようやく思い出したのだった。


「誰かを頼りたくなったら、この指輪に願うといい。きっと俺が力になろう」

「別に要らねえよ。使う時ァ来ねえと思うぜ」

「さて、長い人生、何が起こるか分からんぞ。その時が来ないとしても、今は俺からの贈り物だと思って受け取ればいい」

「……なんだい、熱烈だねえ……まあ、あたしの懐は無限大だ、取り敢えず受け取ってやるが、忘れっちまっても文句言うなよ」


(……あー、そういやそんなやり取りもしたなあ)


 徐々に痛みが和らぐ中、あいつはどんな顔だっけと思い出そうとした。自分と同じ黒髪だった気がする。生きていれば、今頃は白髪にでもなっているだろうか。顔立ちは、瞳の色はどんな風だったか。


「うーん……こんな緑っぽい目だったか……?」

「誰の話だよ」

「指輪の奴……いや違ェ、こんな色じゃなかった。……あ?」


 翠色の双眸とパッチリ目が合って、キリルは眉を寄せた。


「あれ? お前誰?」

「命の恩人に向かって無礼な奴だな」


 翠の目がじっと睨んできた。灰をかき集めたような色の髪を、蔦を絡めて編み込んで、うなじで一つにまとめて垂らしている。まだ十五、六歳くらいの少年に見えるが、擦り潰した薬草を塗り込んだ湿布を当てたり、包帯を巻いたりする手つきはテキパキしたものだ。

 少年は指を三本立てて見せてきた。


「自分の名前言えるか? コレ何本に見える?」

「馬鹿にすんじゃねえ。あたしゃキリルだ、三本指のくそガキ」

「正解だ、このゴリラ女。意識がハッキリしてるようで何よりだよ」


 声変わり途中の声で、翠の目の主は罵倒しているのか安心しているのか分からないセリフを吐いた。そして振り返って「ばあちゃーん」と奥の方へ呼び掛けた。


「ゴリラ女が目ェ覚ましたー」

「誰がばあちゃんだ、お姉さまとお呼び! わざわざ呼びつけなくたって、病人の具合くらい自分で見られるだろう?」


 ばあちゃんと呼ばれて来たのは、白髪の毛先がライラック色に染まった老女だった。腰をかがめて魔法の杖をコツリコツリ鳴らして歩いて来ると、キリルの顔色を一目見るなり鼻を鳴らした。


「なあんだ、元気じゃないか。あとは食事さえ摂ればあっという間に治っちまうさね。私ゃ食事の支度をして来るよ」


 そう言って老女はまたコツリコツリと杖を突いて出て行ってしまった。

 灰の髪の少年がくるりと振り向いて、指を突きつけてきた。


「おいゴリラ、感謝しろよな。ばあちゃんの医術とおいらの薬草が無けりゃ、今頃“竜瘡りゅうそう”が全身に広がって死んでるところだからな」

「りゅうそう?」

「竜が同族から傷を受けると、まず普通の薬草じゃ治らないし、放っておくと全身に爛れが広がって死ぬんだぜ。ごくたまに竜同士で喧嘩が起こるんだけど、奴ら、手当てってモンを知らないからな。おいらみたいな薬草の心得のある魔女が治療しに行くってわけさ」


 キリルは目をぱちくりさせた。


「魔女? ……誰が」

「おいら。あとばあちゃん」

「男じゃん」

「おいらもそこにはいろいろ物申したいけど、申し立てる先がねえもんでよ、けど魔女族にだって男はいるんだぜ。……まあ、ごくたまにな」


 いろいろ問い質そうとキリルは身を乗り出したが、その瞬間全身に雷が走ったように痛んで、呻いた。少年が呆れたように腰に手を当てた。


「お前馬鹿か? 脇腹は酷く爛れてるし、脚なんか腐りかけてたんだぞ。湿布で患部に薬染み込ませてるところなんだから、下手に動くと変な風に脚がくっついちまうぜ。とにかくメシ食おうメシ。おーい王子、おいらはばあちゃんを手伝って来るから、この馬鹿ゴリラが動かないように見張っててくれ」


 ひとしきり捲し立てた少年が部屋を出て行って、入れ替わりで金髪の美青年が入って来た。服は着替えていて、指にはあの銀の指輪が嵌まっている。


「起きたんだね、キリル。気分はどうだい?」


 元気そうなベルを見て安堵したのか、キリルはへらりとおどけた笑みを見せた。


「いやあ、あと一歩で死ぬとこだったぜ。それにしても、本当に助けが来るたァ奇跡だな……どんな奴だった? じいさんか、それとも子供か孫かが来てくれたのかな」

「……キリルは何の話をしているの?」

「だってその指輪くれた奴、……あー、その……アレだ、随分前にくれたんで、今頃白髪のじいさんになってるか、おっんでるかのどっちかだと思ったんだけど。生きてたのか? それともハゲてた?」


 ベルは妙に表情を張り詰めて、首を振った。


「黒髪の男の人が現れたよ。君を『昔の知り合いだ』って言っていた」

「は……? いや、そりゃそいつが言葉足らずだったんだろ。『親父の昔の知り合い』とかそういう――」

「それから君に言伝を預かっているよ。折角あげた指輪を荷物の下敷きにするんじゃない、って」


 キリルは衝撃で顔を真っ青にした。その様子を見たベルは指輪を返しながら尋ねた。


「ねえキリル。……君は一体、どれくらい昔にこの指輪を貰ったんだい?」

「…………」


 キリルは答えなかった。答えられなかった。部屋の外からは炊事の音が小気味よく響いてくる中、何かから隠すかのように、分厚い手のひらが指輪を思い切り握り締めたのだった。

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